第13話「社畜と悪役令嬢と、みんなの甘々大作戦」 エピソード⑪
大茶会の夜、疲れ切ったまひるはルナリアの脳内で爆睡中。
少し夜風にあたりたくなったルナリアは、一人で夜の学院を散歩していた。
王立学院
中庭へと続く回廊
その夜、人気のない回廊を歩くのはルナリアただひとりだった。
夜空には三つの月が重なり合うように満ち、静かに石畳を照らしている。
大茶会の甘い残り香が指先にわずかに残り、白百合の気配とまじって夜気にほどけていく。
薄手のナイトガウンに羽織ったマントが風をはらみ、静かに揺れた。
その白さは、月の光と溶け合うように淡くきらめき、まるで夜そのものが彼女を抱きしめているかのようだった。
胸元のゆるやかなカーブの間には、月の意匠を象ったペンダントがそっと光を含み、
風が髪をやさしくなで、長い睫毛がそっと揺れた。
聖都では初夏でも夜は冷える。
吐息は白く、かすかに甘い香りを含んで夜気に溶ける。
月明かりに縁どられた鎖骨のくぼみが、息に合わせてかすかに上下した。
小さな物音がして振り返ると――
「……こんな時間に、また会えるなんて」
静寂を破るように、低くやさしい声が響いた。
低く掠れたその声は、夜の温度をほんの少しだけ上げる。
喉仏が一度だけ上下し、抑えた呼吸が礼装の胸もとをわずかに波立たせた。
柱の陰から現れた金髪の青年。
その凛とした面差しに、月の光がほのかな憂いを落としていた。
――純白の礼装にマントを羽織った、王太子ラファエルだった。
その瞳は静かにルナリアを映し、まるで――
長い夜のなかで、ただひとつだけ探し続けていたものを見つけたかのようだった。
「……殿下こそ。こんなところで何を?」
ルナリアの心臓が小さく跳ねた。
(殿下! それに、またって? 先ほど大茶会でお会いしたからかしら……。
それにしても、こんな時間に殿方と会ってしまうなんて……)
ルナリアは動揺を悟られないように横を向いて俯いた。
月光が薄絹をやさしく透かし、うなじから肩へ流れる曲線に淡い光を置いた。
その儚げな姿に、ラファエルは思わず――呼吸を忘れた。
視線は、頬をかすめる銀の髪から、淡い唇、そっと伸びた指先へと吸い寄せられる。
衣擦れが、かすかな音で夜を撫でた。
「また君に会えるかも、そう思った――」
ラファエルの声は、夜の空気よりも柔らかく、かすかに掠れていた。
意識して抑え込んだ温度が宿り、隠しきれない想いが言葉の端に滲んでいた。
「……とはいえ、こんな時間に探していたと言えば、言い過ぎになるのかもしれないね」
その言葉の奥にあったのは、理屈ではない感情。
ただ、ここで彼女に会えたことを、どこか安堵するような――そんな微笑だった。
「……ふふ、詩人の真似事なら、お得意ですものね。慣れておりますわ」
(なんだか、緊張しますわね……。
二人でこうしてお話するのは、欠席した夜会の後お会いして以来ですもの……。
大丈夫、わたくしはもう感情的になどなりませんわ……)
ルナリアの声は静かだったが、どこか柔らかかった。
その瞳が、わずかに月を映し、まるで宝石のように煌めく。
その声に、ラファエルはふと息を飲んだ。
声の奥にある、わずかな脆さに気づいた気がした。
彼女のまつ毛が伏せられ、光に濡れた瞳が、ふとこちらを向く。
(……きれいだ……)
彼女の睫毛が影を落とし、瞳孔が月を受けてひそかにひらく。
その瞬間だけ、時間がきゅっと細くなる。
――こんなにも綺麗だったろうか、と。今さらながら、思ってしまった。
ラファエルはふっと笑って、彼女の隣に立った。
「“詩人”か……君にあてられたかも。
“太陽と月のケーキ”、あの名も味も……君の心が、そのまま形になったみたいだった。
あたたかくて、やさしくて、ちょっとだけ、さみしさの余韻が残る……まるで、今の君そのものだと思った」
「深い意味はありませんわ。ただ――おいしいものを皆さんにふるまいたかっただけ」
ラファエルはルナリアを見つめながら、ふと言った。
彼女の睫毛の影が頬に落ちるたび、その心の奥まで覗けそうで――
言葉が、自然と零れ落ちた。
「……ルナリア。君の瞳、笑っていても、どこか泣いてるみたいだった。
だから……逸らさないで。今の君を――見せて」
視線が絡んだ瞬間、ラファエルの目に映ったのは、誰よりも強くて、そして脆い彼女だった。
彼は、そっと胸の奥でつぶやいた。
(君が笑うと、どうしてこんなに苦しくなるんだろう)
――と。
ルナリアの紫の瞳が一瞬見開かれ、伏せられる。
長い睫毛が伏せられるたび、影がその白い頬に落ちる。
風がふわりと吹き抜け、ナイトガウンの裾が小さく揺れた。
その一瞬、彼女の横顔から、かすかな疲労と揺らぎがのぞいたようだった。
指先でマントの端を直す仕草が幼い癖のようにささやかで、月にすすいだ素肌の白さをいっそう可憐に見せた。
「……瞳を見て、ですか?」
「……昔から、子供の頃からずっと――」
ラファエルは言いかけて、一拍置いてから言葉を変えた。
「……いや、違うな。僕は、君の“今”を見ている。ちゃんと、見ようとしてる」
ルナリアの紫の瞳が、一瞬だけ揺れる。月明かりに照らされたその瞳は、まるで夜の湖面のように、静かに波紋を描いた。
けれど、彼女はすぐにいつもの調子を取り戻す。
ルナリアはマントの端を指先で軽く払うと、顎をわずかに上げた。
欄干の冷たさを一度だけ確かめ、月光を背に受けて微笑の角度を一分深くする。
「……まあ、ご熱心ですこと。わたくしの“気まま”にまで御監督が及ぶとは。
けれど秩序とやらは玉座の間で語るのがお似合いですわ。
今夜ここにあるのは、月光と夜気と――わたくしの気分だけ」
衣擦れがかすかに鳴る。
彼女は半歩だけ間合いをずらし、肩越しに視線を流した――
正面は向かず、しかし射抜くように。
長い睫毛が影を落とし、白い喉が静かに呼吸のたびに上下する。
「それでもなお“王太子”として見張るおつもりなら、どうぞご自由に。
ただし――“わたくし”を見ずに、国ばかりをご覧になるのなら、つまらなくてよ」
「違うよ。僕は“君”を見ているんだ。
誰よりも高潔に振る舞いながら、本当は不器用で、やさしくて、誰かのために泣くような“君”を」
夜風が、ふたりの髪をやさしく揺らした。
「……わたくしは、そんなに持ち上げられるような女ではありませんの……。
昔も今も同じ。わたくしがしたいことを、ただしているだけ――
ただの、高慢で冷たい“氷の百合”ですわ」
「いいや、違うさ。君はただ、心から、誰かを守りたいと願っている――
君の行動はいつも、誰かのための行動だった。
高慢でも冷たくもない。むしろやさしくて、あたたかい。
でも、本当は誰かに助けてほしいとも、強く願っている。
大切にしないと壊れてしまう、“氷の百合”さ」
(今日のルナリアはいつもの夜と少し違う……)
一拍を置いてラファエルは続けた。
「だから、僕が……聞きたいのは、君の“本当の声”だ」
ルナリアの瞳が、かすかに揺れた。彼女の指先が、マントの端をぎゅっと握る。
「君が誰かを守りたいと思う気持ち、僕は否定しない。
でも、君のことも――誰かが守らなきゃいけないと、そう思うんだ」
指先が触れない間合いに、微かな体温だけが行き来する。
月光が二人のあいだに薄い金の糸を張り、張りつめた呼吸がその糸をふるわせた。
けれど、そこにはただの躊躇ではなく、彼なりの誠実さがあった。
無理に触れずとも、想いだけは、確かに届いてほしいと願うように。
「わたくしは、一人でも――」
ラファエルは、ルナリアの少し震える声を、やさしくさえぎった。
「君は、誰かを救う“覚悟”を持っている。
でも僕は――守りたいなんて、きれいごとじゃない。
君の手を、この手で掴めなくなる未来だけは――想像したくないんだ」
君を守りたい。奪いたい。触れたい。でも、壊したくない――
そんな矛盾のすべてが、彼の伸ばしかけた手に宿っていた。
けれど、そんな想いは、ルナリアにはまだ届いていない。
ぱりん。
その瞬間、ルナリアの中で、何かが小さく音を立てた。
――彼女はまひるではなく、ルナリアだった。
何を今さら?
そう思った瞬間、身体の奥から熱いものがこみ上げた。
そして――
アルフォンスの横顔が脳裏をよぎり、握った手のぬくもりを思い出す。
けれど――。
彼女はゆっくりと背を向け、回廊の階段へ足を下ろす。
背を向けたままのルナリアの声が庭園の静寂に響く――
「もう結構です。知っております。
あなたにあるのは、王太子としての体面――ただそれだけ」
振り向いたルナリアの瞳に映る夜空が紫色に輝く。
「もし殿下が体面を盾にわたくしを縛るおつもりなら――ここで線を引きましょう。
王太子の栄誉とアーデルハイト家の名誉、どちらを傷つけずに済むか――
わたくしの方から、きれいに手を引いてさしあげてもよろしくてよ?」
胸に手を当て、一息つくと、彼女は目を上げ、ラファエルの瞳をまっすぐ貫いた。
「もし、あなたからこの婚約を破棄なさらないなら――
わたくしから――」
言葉は夜気に溶け、月光の下で揺れた。
続きを告げるより早く、風がふたりの間を切り裂いて――。
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