第3話「社畜と悪役令嬢と、学院に咲く小さき花の革命」 エピソード④
王立学院・白亜の回廊
――昼下がり。
講義を終えた生徒たちの姿もまばらな、静謐な放課後。
遠くで聞こえる鳥のさえずりと、風に揺れる木々の葉擦れが、
ゆるやかに、時間の流れを縁取っていた。
ひとりの少女が、午後の陽光を纏いながら、静かに回廊を歩いている。
銀を混ぜた金糸のような長い髪が、淡い光を弾きながらふわりと揺れ、
制服の裾が風を孕んで舞うたび、
まるで空気の中に花弁が散るようだった。
睫毛の影が頬に落ちるたび、
その横顔に、かすかな陰影が描かれる。
(……今日も、ちゃんと
“完璧なルナリア・アーデルハイト”を演じなくてはなりませんわね)
(誰にも悟らせずに、気高く、美しく。
そうでなければ、“視線”はすぐに――突き刺さる)
(けれど……時々、ふと思ってしまうのです)
(この“完璧”は、いったい誰のためなのかしら、と――)
指先まで凛と整えられた姿は、
まさに“気高き令嬢”そのもの。
公爵令嬢、ルナリア・アーデルハイト。
誰もが一目で視線を奪われる、“完璧”の象徴。
けれど、その透き通る紫の瞳の奥には――
朝の講堂で交わされた無数の視線と、
食堂で広がった“波紋”のようなさざめきが、
静かに、沈んでいた。
(……わたくしは、何もしていない)
(どちらもただ、席に着いただけですのに――)
スカートの裾が揺れ、
かすかに、ため息が漏れる。
花弁のような唇が、微かにきゅっと引き結ばれた。
そして――
そのまなざしは、どこか遠くを見つめていた。
その時。
柔らかな春の風が、回廊の隅を吹き抜ける。
「……ルナリア」
その一言が、風よりもそっと、彼女の心を揺らした。
呼ばれた瞬間、時間がひとつ、静かに巻き戻る。
胸の奥を、懐かしさと痛みが、ほんのすこしだけ掠めていく。
それは――
忘れかけていた春の庭で、
一緒に花を育てていた少女の名を――
十歳の少年が呼んだ、その響きと同じだった。
少女の足が止まる。
はっとしたように顔を上げると、
やわらかな光を背に――
風に揺れる金髪と、少し影を帯びた瞳を持つ青年が、そこにいた。
王太子
ラファエル・エリディウス・セレスティア。
少年のままの迷いと、
王子としての決意。
その狭間で、彼はただ、少女を見つめている。
白亜の床に、落ちる影がふたつ。
ルナリアもまた、その視線を受け止め――
けれど、すぐに逸らした。
そして、ふわりと髪を揺らし、
完璧な優雅さで一礼する。
「ごきげんよう、ラファエル殿下」
澄んだその声とは裏腹に、
伏せられた睫毛が、わずかに震えていた。
再び歩き出そうとした、その瞬間。
回廊に落ちる二つの影が重なった刹那――
――バサリ、と風が吹いた。
制服の裾が揺れ、髪がふわりと舞い上がる。
その一瞬。
「待って」
囁くような声とともに、
ルナリアの腕に、ぬくもりが触れた。
世界が、ほんの一瞬だけ、音を失う。
その繊細な指先よりも先に――
まるで“想い”が、溢れて掴んでしまったかのように。
紫の瞳が、驚きにわずかに揺れ、
頬が淡く染まり――
風に舞う金の髪の向こうで、視線が絡んだ。
鼓動が、ひとつ、高鳴る。
ルナリアの表情が、一瞬だけ揺らぐ。
見開かれた瞳と、震える睫毛が、午後の光を受けて儚くきらめいた。
「――離して……いただけますか?」
それは、息を吐くような声だった。
震えてはいない。
けれど、呼吸が、わずかに浅くなる。
向けられた碧の瞳は、澄んでいながら――
どこか、悲しみを湛えていた。
ラファエルの金色の睫毛が、
瞬きのたびに影を落とし、少女の心をかすかに乱す。
二人の距離は、
吐息が、かすかに触れるほど近い。
ラファエルは、掴んだ手を包み込むようにしながら、
静かに口を開いた。
「……君が舞踏会に来なかった理由は、知らされていない」
「ただ――
何をしていたかだけは、耳にした」
「猫を助け、老婦人を背負い、
花壇の草を抜いていたと」
ルナリアは、伏せたまま、何も言わない。
金の睫毛に縁どられた瞳を閉じ、
唇を引き結んだまま。
袖が風に揺れ、
沈黙が、二人の距離を際立たせる。
数拍の静寂。
「……君は、なぜそんなことを?」
「……それが、君の“意思”だったのか?」
その瞬間、
ルナリアのまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
そこに宿る光は、
いつもの淡いものではなかった。
揺れる心の奥底から、
確かに立ち上がる、強い光。
(……確かにそれは、
わたくし自身の“意思”ではありませんでした)
(ですが――
わたくしは、彼女を止めなかったかもしれません)
紫の瞳が、彼の碧をまっすぐ捉える。
「ええ、わたくしが選びましたわ」
きっぱりと。
低く、静かな声で。
(だからこそ――
あの結果を“借り物”だったなどと、
言い訳したくはありません)
けれど、その瞬間。
胸の奥に沈めていたものが――
波紋のように、静かに広がった。
(……今さら、理由だけを聞かれても)
(殿下は、一度でも――
“わたくしの心”を、
覗こうとしてくださったことがありまして?)
無意識に浮かんだその問いは、
わたくし自身を裁く言葉のように思えた。
だから――
「――でも、
何も見ておられなかった殿下に……」
「何が、わかりますの!?」
震えた声が、
白亜の回廊に響き、こだました。
崩れたことのない声音が、
怒りと悲しみに、かすれる。
「毎日、品位と教養を求められて、
“未来の妃”として振る舞って……!」
「殿下は――一度でも、
婚約者でも、公爵令嬢でもない……」
「“ルナリア・アーデルハイト”を、
見ようとしたことがあって!?」
見上げた瞳には、
もはや抑えきれない感情が溢れていた。
「あの夜だけは……
“わたくしの意思”で、
動きたかったのです……!」
「“どうして”とか、
“どうしてそうしたのか”なんて――」
一度、言葉を呑み込むように、視線を伏せる。
「……聞かれたくなかったのです」
横顔に、午後の光が落ち、
長い睫毛の下で、瞳が静かに揺れる。
「誰かに笑われても、かまいませんの」
「けれど……
殿下にだけは、そんなふうに……!」
声が、震える。
それは恐れではなく、
涙を堪えた――誇り。
ラファエルは、一歩も退かず、
その言葉を、まっすぐ受け止めていた。
「……知らなかった」
かすれるような呟きが、春の風に溶ける。
「いや……
知ろうともしなかった」
「僕は――
君を、ずっと“枠の中”でしか
見ていなかったのかもしれない」
睫毛が影を落とし、
拳が、胸元で握られる。
その言葉に、
ルナリアの瞳が、わずかに揺れた。
けれど――
「……そうですのね」
(……今になって気づかれても、遅いのです)
(どれほど笑い、振る舞い、
誰の前でも“完璧”であろうとしたか)
(それでも――
誰ひとりとして、
“わたくし自身”を、見てはくれなかった)
沈めていた痛みが、
静かに、しかし確かに、こぼれ落ちる。
「いつも……
いつもそうやって……!」
言葉が、唇から零れた。
「“優しく”諭して、
“立場”を理解して、
“未来のために”って……」
「けれど、わたくしにだって、
感情があるのですわ!」
「わたくしは、“置物”ではありません!」
「――殿下の傍に飾られて、
黙って微笑んでいるだけの、
“理想の妃”などではないのです!」
「――わたくしは、“人間”です!」
その叫びは、風に乗り――
午後の学院の静けさを、鋭く裂いた。
回廊に、沈黙が落ちる。
ラファエルは、すぐには言葉を紡がなかった。
その沈黙は、否定でも肯定でもなく――
遅すぎた自覚だったのかもしれない。
けれど――その沈黙に、耐えきれなかったのは、
むしろ、わたくし自身だった。
そして、言葉が零れ落ちる。
「そんなに置物がお好きでしたら――」
その言葉が自分の口から出た瞬間、
空気が変わったのが分かった。
(いけない……)
けれど、もう止められなかった。
「……それなら、あの純真無垢な“聖女様”とでもご一緒になれば――
きっと、お気持ちも通じ合うのではなくて?」
言い終えたその瞬間、ルナリアははっとした表情を浮かべ、瞳が揺れた。
その瞳に――感情に任せて放ってしまった言葉への後悔と動揺が滲んでいた。
――食堂での聖女セリアの屈託のない笑顔を思い出す……。
たった一言、言ってはいけないことを言った気がした。
けれど、それでも彼女は、自分の心を偽りたくなかった――それだけ。
彼女の言葉は、まるで嵐のように激しく――
しかし、確かな意志をもってラファエルの胸に届いたのだった。
――ラファエルの手が一瞬だけ硬直し、
そして、静かに、けれど未練を残すように離れた。
ルナリアは胸のあたりで手首をおさえた。
その手首には、未だにラファエルの熱の余韻が残っていた。
それが、温もりだったのか、痛みだったのか――
彼女には、まだ分からなかった。
しばらくの静寂――。
「……昔の君を思い出したよ」
ラファエルがぽつりと呟く。
どこか遠くを見るような眼差しで。
「……ずっと、君は“変わってしまった”と思っていた」
「けれど――ようやく気づいた。
変わったのは、君じゃなくて、“君を見ようとしなかった僕”だった」
ルナリアは、そっと背を向ける。
銀を含んだ金髪が肩越しにふわりと流れ、スカートの裾が弧を描く。
「次の授業がありますので……失礼いたしますわ」
「ルナリア」
再び名を呼ぶ声に、彼女の肩がわずかに揺れる。
背を向けたまま、ルナリアは立ち止まった。
「……君の選んだ道が、これからどこへ向かおうと……。
僕は――これからは、君を見ていたいと思っている。
昔の君じゃなくて、“今の君”を」
ルナリアの背が、わずかに震える。
(子供の頃のままのあなたが――
今も少しだけ残っているみたいで……ずるい方ですわね)
そして――ほんの少しだけ振り返ると、顔を見せないまま、ごく控えめに、ひとつ、優雅に頭を下げた。
(……わたくしは、過去をなぞるのではなく、
“今”を歩くと決めたのですから)
「……ごきげんよう、ラファエル殿下」
そして、ふたたび歩き出し、二つの影が離れていく。
彼女の足取りは、気高く――
けれど、ほんの少しだけ、さっきよりも軽やかだった。
ラファエルはその背を、呼び止めることなく、ただ黙って見つめ続けた。
回廊には、ぽつんと一つだけの影。
ふと、手を見つめた――
彼の手には、もう何も残っていない。
けれど、胸の内には確かに、何かが芽吹いていた。
(……もう一度、君のことを知ろう)
それは、赦しでも恋でもない。
過去の想いに触れるための、最初の一歩。
――まだ、何も終わっていない。
まだ、何も始まってすらいない。
けれど、だからこそ。
静けさの中で――ふたりの物語が、長い時を経てようやく“再開”されたのだ。
まるで、止まっていた時計の針が、静かに音も立てずに動き始めたように。
***
『ぷはーっ、苦しかった~~!!
ガチで窒息するとこでした!!』
ラファエルと別れ、回廊を曲がった瞬間。
脳裏に弾けるような声が響く。
(黙っていてくださったのね……。
少し意外ですけど)
『……いやもう、空気読むのは社畜の本能ですんで。
上司の空気読まないと即”死亡フラグ”ですから』
『ただし、自分の気持ちには基本ノータッチです。
自己感情のマニュアル、未実装なんで……』
『てか、あそこでしゃべってたら間違いなく刺される雰囲気でしたよっ!?』
(……刺しません)
そして、珍しくまひるは少しだけ真面目な口調になった。
『……いや、なんか悪いことしちゃったなって』
(何のこと、ですの?)
『……ほら、舞踏会の日……。
ちょっと舞い上がって、勝手に……その……。』
(あら? あなたにしては珍しく、殊勝ですわね)
『えへ……。でもまぁ、やっちゃう時はやっちゃうんですけどね!』
『破滅フラグ回避のためなら、多少の暴走は仕様です!』
(……仕様で済ませていいものかしら)
『……でも、さっきのルナリアさん……なんか、ちょっとだけ……』
まひるが言い淀んだまま、しばらく言葉を探すように沈黙する。
『……うまく言えないんですけど……。
さっきのルナリアさんの言葉、ちょっとだけ……
“自分の言葉”だった気がしました』
ルナリアの睫毛がわずかに揺れる。
(……)
『……あ、いや! それがダメとかじゃなくてっ』
『いつも完璧ですし、そこがすごく素敵なんですけど……』
『でも、今のは、誰かのためじゃなくて、
ルナリアさん“自身”の言葉だった、みたいな』
(……そう、ですわね。
あれは――確かに、わたくし“自身”の言葉でしたわ)
そして次の瞬間――まひるの声が唐突に弾けた。
『あ、でも!
それはそれとして! やっぱアウトですっ!』
(今度は何ですの……?)
『「聖女様とでもご一緒に」は、それもう、戦線布告レベルですからっ!』
(……言ってしまってから、後悔はしておりましたけれど)
『うんうん、それは良き反省です。
でも! まだ取り返せます!
破滅フラグ、起動したばかりですから!』
(破滅フラグって、そんなに早く起動しますの……?)
『無意識に“察して回避”するのが社畜の生存戦略ですからっ!
社畜生活もそれなりに命懸けでしたし!』
(それは……ほんとうにお疲れさまでしたわね)
ルナリアは、目を伏せて、風の中に立ち止まる。
(……ありがとう。
でも、きっと……まだ言葉にできないことも、たくさんあるのです)
まひるは、それ以上は何も言わなかった。
けれど――空気の向こうで、彼女がそっと微笑んでいた気がした。
そして、金糸の髪と制服の裾が、風にひらりと舞い上がる――
ルナリアは、ほんの一歩だけ前を向いた。
(……いつか、言葉にできたら……。
その時は、聞いてくださるかしら)
『もちろんですともっ。
まひるリスナー、24時間営業です!』
(……気が早すぎますわ)
(でも……そうですわね。
今を生きると決めたのなら――言葉にする日も、きっと来るはず)
そして、まひるに聞こえないよう心の奥底でそっと呟いた。
完璧であることよりも――
自ら選んでそうあることに、意味がある。
それに気付かせてくれたのは、あなた。
きっと、あなたが私の中に舞い降りたのは――
わたくしが変わることを女神様が望まれたから……。
いえ、わたくし自身が望んだから――
なのかもしれませんわね。
と、まひるの能天気な声がルナリアの思考を中断する。
『ああ! そうだ!!』
(まひるさん、何……ですの?)
『ルナリアさん、晩御飯どこで頂くんです?
異世界に来て初めての晩御飯! 滅茶苦茶楽しみなんですけどっ!
やっぱ貴族の晩餐って豪華なんですよね?
キャビア? フォアグラ? トリュフ?』
(……。普通です。わたくしのお部屋で頂きますわ)
『えーっ! やだやだ! せめてお肉食べましょう、お肉!』
(やっぱり煩い……。女神様に返却出来ないものかしら?)
『あ、今、酷いこと言いましたよね?
石の上にも三年。社畜と同居も三年ですよっ!?』
(……それ、まひるさんの世界の名言ですの?)
『いいえ、わたしの名言ですっ!』
ルナリアは、あきれ顔で小さくため息をつく。
けれど、その顔はほんの少しだけ、微笑んでいた。
風が通り抜ける午後の学院の空の下。
“ふたつの心”は、まだ完全には重ならない。
けれど――その歩幅は、ほんの少しだけ近づいていた。
*
――終業時間~夕方
やがて鐘の音が鳴り、学院の一日が静かに終わりを告げる。
金色の太陽がゆっくりと傾き、寄宿舎の窓に、三つの月が映り始める頃――
ルナリアの胸の奥には、まだ言葉にならない想いが、そっと残されていた。
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