第3話「社畜と悪役令嬢と、学院に咲く小さき花の革命」 エピソード①
第3話 「社畜と悪役令嬢と、学院に咲く小さき花の革命」
セレスティア神聖国
王立学院・講堂
――始業前。
朝の講堂には、春の光がやわらかく差し込んでいた。
たっぷりと取られた窓から差し込む陽光は、磨き抜かれた床に反射し――壁のレリーフが淡く光を返す。
窓辺に近い席からは、小鳥のさえずりと、焼きたてのパンの香りが微かに漂っていた。
だが――
そこにいる誰もが、感じていた。
(……静かすぎる)
張り詰めた空気の中――
講堂の扉が、わずかな音を立てて、ゆっくりと開いた。
「……っ」
その瞬間、空気がぴたりと――凍りつく。
誰もが息を呑み、一斉に向けられる無数の視線。
まるで、舞台の幕が音もなく上がるかのように――
扉の奥から、ひとりの少女が現れた。
完璧に整えられた身なり、銀を帯びた金糸の髪は陽光をまとい、やわらかに揺れる。
凛とした歩み。背筋は真っ直ぐに伸び、どこにも隙はない。
けれど、彼女のまとう空気には、どこか物語のような儚さがあった。
誰もが思わず目を奪われた――
“氷の百合”――公爵令嬢、ルナリア・アーデルハイト。
その姿は、気品と美しさが高次元で調和し――
まるで、誰も知らない物語から抜け出してきたような、はっとするほどの“美”。
見る者すべてに、まるで時間が止まったかのような錯覚すら与えるものであった。
けれどその瞳の奥には――
ほんのかすかに、不安と覚悟が揺れていた。
(……今日は、ちゃんと、“わたくし”でいられるかしら)
そんな心の声がかすめたことなど、誰も気づかない。
顔を上げれば、完璧な微笑みがそこにある。
それはまるで、生なき“気高き仮面”に、そっと魂を込めたような表情だった。
少女は、静かに、講堂の前方を歩いてゆく。
そして、講堂の空気が――彼女の歩みに合わせて――ゆっくりと張りつめていく。
その頃、少女の脳内。
『ふわぁっ、この講堂、天井高っ! これぞ学院モノって雰囲気あるわー……。
それに、何あの壁のレリーフ……段々席も高すぎじゃありません? 何階建て!?』
『ていうか、この静けさ……完全に“謝罪会見”の入りじゃないですか!?』
『しかも今……空気清浄機ついてません!?
ルナリアさん専用のやつ! 入った瞬間、空気、グレードアップしましたよ!?』
“異世界で初登校”の興奮で、まひるはすでに“乙女ゲー”モード臨戦態勢に突入していた。
(今朝、お話しましたよね? 少しは静かにしてくださらないかしら?)
”乙女ゲー”スイッチの入ったまひるはと言えば――
今朝の説教も忘れてしまったかのようにおかまいなしである。
『ねーねー、ルナリアさん。すんごい注目度だけど、これっていつもそう?』
(……そうね。視線を浴びるのは、慣れているつもりですわ。
でも――今日のこの空気は……少し、違う)
思った以上の沈黙と視線の圧に、ほんのわずかに足取りが沈みかける――
が、すぐに胸を張り直す。
背筋を伸ばし、音もなく、品格をまとって歩を進める。
『うわっ……さすがは絶世の美少女……』
なんだか自分のことのように嬉しそうなまひるである。
『でもこれ、毎日こんなだったら……
“登校するたび圧迫面接”ですよ!?』
『この静けさと圧力、心折れるやつ! ほんと、精神削られる初登校案件!』
過去の何かを思い出したのか、まひるが勝手に悲鳴を上げる。
『それにしても、歩くだけで“BGM変わった感”ありますね……』
『わたし、今ルナリアさんの中にいるの、なんだか誇らしいです……!』
(……ふふ。少し、褒めすぎですわ)
『いえいえっ! 今の登場ムーブ、悪役令嬢というより、完全に“圧倒的SSRヒロイン”でしたからっ!』
『好感度、もう講堂の天井超えてますよ!』
(ヒロイン……? わたくしがですの……?)
一瞬、ルナリアの目が伏せられる。
『しかも今、講堂の生徒全員が“試験官モード”で見てますよ? もう目が“第一印象満点”って言ってますもん!』
『これ、間違いなく“好感度爆上がりフラグ”立ちましたね♪』
(……試験官って何の話ですの?)
『今、ルナリアさんは“選択肢なしチュートリアルイベント”の真っ最中なんですよ! 乙女ゲー的に!』
(ええ――つまり、今この瞬間も、待ったなしで試されている……そうかもしれませんわね)
ふとルナリアの伸びやかなまつげが、ほんのわずかに伏せられる。
誰にも気づかれない、ほんのひとときの揺らぎ――
けれどそれは、たしかに少女のなかに残っていた。
そしてそのやり取りは、誰にも気づかれない場所で――
まるで友達と交わす内緒話のようで――ほんの少しだけ少女の心を暖かくしていた。
ルナリアは、いつもと変わらぬ涼しい微笑みを崩さず、淡々と歩みを進めた。
だが実際、場の空気は、普段とはまるで別物だった。
――昨日の夜会。
ルナリアが欠席したその夜、王子は聖女セリアを選び、踊った。
"王子の元婚約者"と、"新たな本命"――
ふたりが今、同じ講堂に揃った。
静寂のなか、誰もが思った。
(……これは……始まるぞ)
小さなひそひそ、ざわざわ。
胸の中で高鳴る鼓動を押し殺しながら、皆が静かに見守っていた。
「ねえ、これマジで見ものじゃない? 王子様を奪った聖女vs元婚約者よ?」
「……これでルナリア様、泣いたら、完全に“格下”扱いされちゃうよね……」
「聖女様、気づいてないフリしてる? いや、あれガチで気づいてないのかも……」
「お願い……誰も何も言わないで……今、空気、割れそう……」
張り詰めた空気は、薄氷のように――今にも音を立てて割れそうだった。
そんな中、ルナリアは――
何ひとつ動じず、凛として歩を進める
――わたくしは、わたくしの道を歩むだけ。
誰にも、心を乱させたりはしない。
窓際でゆっくりと向きを変え、上段の貴族席を目指す。
――その瞬間。
金糸の髪が窓から差し込む陽光をたっぷりとはらんで舞い、制服のスカートがふわりと弧を描く。
前列の女子生徒たちが、そろって息を飲む音が聞こえた。
『何、今のターン! ちょっと華麗過ぎやしませんか!?』
『わたしだったら、ここで絶対つまずいてこけるやつ!』
(ふふ……)
けれど――その胸の奥で、たしかに何かがふるえた。
そのまま微笑みを絶やさず、上席へと歩を進める。
場の緊張は、最高潮に達した。
『これは、だいぶ……面倒かもしれませんね……!?』
まひるも空気に飲まれ、思わず固唾を飲んで見守っていた。
まるで嵐の前の静けさのように――。
そして、運命の瞬間。
中段の席から――
ぴょこんと、無邪気に手を振る少女がいた。
“聖女”だけに許された、真っ白な神官衣のような制服に身を包み、天使のような微笑み。
聖女――セリア・ルクレティア。
しかも――屈託なく、思いっきり。
「ルナリア様~!」
呼んだ。
一点の迷いもなく。自然に。まるでいつもそうであるかのように。
その瞬間、講堂に――まるで水面に石を投げ込んだような、静かな衝撃が走った。
『………………』
『………………うそでしょ……』
『今、呼んだ? 呼んだよね? うん、聞き間違いじゃない、絶対呼んだ』
『セリアちゃん!?それ、“役員会議中にタメ口で挨拶”クラスの事故案件だよ!?』
脳内のまひるが絶叫する。
誰もが硬直した。
張り詰めた空気に、唐突に投げ込まれた“無邪気”という爆弾。
全員が、息を飲み、見守った。
そのとき、ルナリアは――
ほんの一瞬だけ、驚いた顔を見せたものの。
すぐに、ふわりと。
誰よりも優雅に、あたたかく、微笑んだ。
その微笑みが、“場の空気”を完全に呑み込んだ。
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
(……まったく。貴女の言った通り、世界はときどき……面倒ですわね)
そして、ごく自然に。
少しだけ手を上げて、セリアに応えた。
「…………え?」
講堂中に、奇妙な間が流れる。
誰もが言葉を失った。
「え、今の笑顔……本気? こっちが恥ずかしくなるくらい、余裕なんだけど……」
「え、待って。あれ、逆に“格が違う”ってやつじゃない……?」
「……すごい。普通なら無視かブチ切れでしょ。あれで笑えるとか……完全に別格……」
「はー……あれが“選ばれてた側”の貫禄ってやつか……次元が違うわ……」
少し大きくざわざわ、ざわざわ。
修羅場を期待していた者たちの心は、ぐしゃりと音を立てて潰れた。
そして、じわじわと広がる、驚きと――
憧れ。
(……ふふ)
ルナリアは、静かに、けれど確かな誇りと――
ほんの少しだけ感謝を込めて、微笑んだ。
(これが――アーデルハイト家の令嬢たるものの、矜持ですわ)
脳内のまひるも、ぽかんと口を開けてから、両手で拍手していた。
そして――まひるは、心の中でルナリアに聞こえないように、ぽつりと呟いた。
(……これ、ルナリアさんの物語が、ほんとに始まった瞬間かもですね)
その言葉に、誰が気づくこともなかったけれど。
たしかにこのとき、講堂にいた誰もが――
“あの瞬間の微笑み”を、忘れることはなかった。
さらに後方に進むと――
例の令嬢三人組が、明らかにムッとした顔で睨んでいる。
『あっこれ……昨日の根回し足りてなかったパターン……完全に火種残ってたやつ……!』
『ルナリアさん、ごめんなさい!!ちょっとやり過ぎちゃったかも』
脳内でまひるは、静かにジャンピング土下座を決めた。
(ふふ……そんなに慌てなくても、わたくしはもう怒ったりしませんわよ。
少なくとも、貴女には……もう十分注意しましたから)
そんなまひるをよそに、ルナリアは黙したまますべてを受け流し――
(……気になさらなくてよろしいのです――
誇りとは、誰かを貶めて得られるものではありませんもの)
そして、ただ静かに、自席へと歩を進めた。
『うぅ……ルナリアさん……やっぱり……神……』
講堂の空気は、確かに変わり始めていた。
一方、ルナリアの脳内のまひるはと言えば――
しおらしかったのも束の間。
『無料10連どころか、初期チュートリアルで出るSSRの貫禄……!』
『はい、これ選択肢も課金も不要の最強ルートです~』
『社畜目線でも、乙女ゲーマー目線でも、もうこれは惚れるしかない!』
『破滅フラグ回避、全力でお供いたします!!』
心の中で、まひるが、誰よりも熱くガッツポーズをとる――
やはり、まひるはまひる、なのであった。
ルナリアは自席にたどりつくと、鞄を静かに机へ置き、
完璧な所作でふわりと腰を下ろす。
――ようやく、“いつもの朝”が始まった。
ふと、まひるがルナリアに語りかけた。
『……ほんと、ルナリアさんって、すごいですよね』
(……?)
『誰にも媚びないのに、ちゃんと礼を尽くしてるというか……
わたしなんて、いつも“嫌われたくない”って顔色ばっか見てたのに』
(……それは、少し意外ですわね)
『でも媚びないからこその悪役令嬢というか……』
(またそれですの?)
『でも……』
『……たまにでいいから……“誰かの努力”が、ちゃんと報われる世界って、悪くないなって……』
『……うん、ほんとに……』
『……って、あれ? なんでこんなこと言ってるんだろ、わたし……』
ルナリアの瞳が、ほんのわずかに伏せられる。
その表情は変わらず、微笑んだまま。
けれど――その胸の奥で、静かに灯るように、その言葉が響き、そっとこだました。
(――わたくしも、“今”、確かにこの世界も悪くないと、そう思えましたわ)
ふと、ルナリアの瞳が窓辺に向けられる。
春の陽が差し込むその先で、小鳥が一羽、枝にとまり、羽をふるわせる。
やわらかな光が木々を抜け、ふと差し込む――
ルナリアの胸元で、月のペンダントがそっとこたえるように、淡くきらめいた。
ただし――この波紋が講堂の片隅に届いた時。
誰かの“勘違い”が、たった今、講堂の片隅で静かに芽吹き、
……とんでもない方向へと花開こうとしていた――。
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