第1話「社畜と悪役令嬢と、月が見ていたふたりの始まり」 エピソード①
第1話 「社畜と悪役令嬢と、月が見ていたふたりの始まり」
―転生社畜、悪役令嬢の中で目覚めました―
その夜、少女は密かに願った――
「……明日なんて来なければいいのに」
誰もが羨む王子の婚約者。
神聖国きっての名門に生まれ、気高くあれと教えられた彼女は、
教えのとおり、高潔に振る舞ってきた。
けれど今夜だけは、気高さも矜持も置き去りにして。
月の光の下、ただ静かに立ち尽くしていた。
――どのみち、あのまなざしが、もう自分に向けられることがないのなら。
祈りにも似たその言葉は、世界に小さな波紋を落とした。
そしてその夜――
彼女の魂は、深く、静かに、眠りにつき――
……その空白に、滑り込むようにして。
別の世界で命を燃やし尽くしたひとつの魂が、
ぽとり、と落ちた。
***
異世界“アルフェリア”
神聖歴999年
セレスティア神聖国
聖都 “セレスティア”
サクラ・プリッシマ・アルバ・セレスティア
「天上に捧げられし、最も清らかなる白の聖都」
――セレスティア神聖国・王立学院
その敷地の奥深く、誰も訪れない夜の中庭には、香り高き薔薇が咲き誇っていた。
淡い銀の光をたたえる三つの月が、静かに空に浮かんでいる。
それぞれ異なる輝きを放ちながら、まるで少女の運命を見守るように――。
冷えた風が葉を撫で、水面のように薔薇の花弁を揺らした。
その中心に、ひとりの少女がいた。
「……明日が、来なければいいのに」
ルナリア・アーデルハイト。
セレスティア神聖国の五大公爵家のひとつ――
アーデルハイト家の令嬢。
そして――神聖国王太子ラファエルの、婚約者。
名門の誇りと、高貴な血統。彼女の存在そのものが、学院内でも常に注目の的だった。 だがその内側に、誰も知らぬ想いがあった。
「いえ、違うわ。そんな弱音を吐くなんて、妃になる者のすることではないわね」
ルナリアは自分の唇を噛み、わずかに顔を伏せた。
その時、彼女の指先が自然と胸元へと伸びる――。
ナイトガウンの襟元から、淡い銀色の小さなペンダントがそっと姿を覗かせた。
それは、アーデルハイト家に代々伝わる“守護の証”――《暁光のペンダント》。
月を象ったそのデザインは、どこか不完全。
まるで欠けた光輪に、かつて“もうひとつ”の存在が寄り添っていたかのような、儚い輪郭を描いている。
ルナリアは、幼い頃から肌身離さず身につけてきたそのペンダントに、そっと指を添えた。
幼い頃、母が微笑みながら言った言葉が、ふと脳裏をよぎる。
『ルナリア、このペンダントはアーデルハイト家の誇りと、あなた自身の“祈り”を繋ぐものよ。
困難な時こそ、これに手を添えて――きっと道を照らしてくれるわ』
だが、今のルナリアは、そんな言葉を信じるほど無邪気ではなかった。
「……これに奇跡を求めるなんて、笑われてしまうわね」
そう呟きながらも、指先は離れない。冷たい銀の感触だけが、わずかな支えだった。
彼女は知っていた。明日の晩餐会――舞踏会で、婚約者であるラファエルから『婚約破棄』を言い渡されるに違いないことを。
最近の王子の視線は、聖女セリアに向けられていることも。
聖女 セリア・ルクレティア。
星詠みの日の試練を乗り越え、つい先日、正式に聖女となった娘――
千年に一度の未曾有の苦難を救うとされる七つの魂の一柱…。
名門の誇りや、高貴な血統なんかあったって、
そんな特別な“魂”を持つ女性に自分なんかが敵うわけがない。
――私は、“選ばれた存在”じゃない。
そして、ここ数年、王子の、自分への視線にはどこか距離があった。
「私が……
間違っていたのかしら」
傲慢であれと言われた。
高潔であれ、気高くあれ、妃とは“そういうもの”だと教えられた。
それに従ってきた。 だから、笑うことを忘れてきた。
優しくするよりも、強くあることを選んできた。
だが、それが間違っていたのだとしたら。
ルナリアはそっと三つの月を見上げる。
「たぶん私は、明日……捨てられます」
どこか笑うような声だった。
でもその瞳は、誰にも見せたことのない弱さをたたえていた。
「それでもいいの。私のせいなら、それでいい」
けれど、どうか。
「……このまま、誰にも何も届かずに終わってしまうのは、嫌」
誰かに赦してほしかった。
間違っていても、過ちがあったとしても。
それでも、少しだけ、誰かのために何かをしたかった。
「神様……アルフェリス様」
「……もし、あなたが、ほんの少しだけでも私のことを見ていてくださるなら――」
ルナリアはそっとペンダントを握りしめ、三つの月を見上げる。
――お願い。
「せめて、誰かひとりにでも、この想いが届く奇跡を……」
――その祈りは、夜空へと溶けていった――。
その瞬間、銀のペンダントが月光を受け、わずかに淡い光を放ち、
それに応えるように――
三つの月の一つが淡く瞬いた。
風が、花を撫でるように通り過ぎる。
だがルナリアは、その小さな輝きに気づくことなく、静かに踵を返す。
……静寂だけが、中庭を包む。
その背に、空からひとつの光が降りてくるとも知らずに。
――月の光が、ひときわ強く差し込んだ夜。
その瞬間、
ルナリア・アーデルハイトの魂が、深く――
静かに、眠りについた。
そして、
その空白に滑り込むようにして、
運命に導かれた、もうひとつの魂がこの地に降り立った。
***
深い闇の中。夢とも現実ともつかぬ場所。
誰かが呼んでいる気がする…。
「せめて、誰かひとりにでも、この想いが届く奇跡を……」
遠くから誰かが呼んでいるような声が聞こえる。
せつなくて、悲しくて…でも――なんだか、あたたかい。
――誰……?
ふわり、と浮かぶ意識。
(……ん?)
ぽやんとした意識のまま、私は瞼を開けた。
視界に広がるのは――高い天蓋付きのベッド。
光沢のある薄紫のカーテンと、繊細なレースの装飾。
白いリネンの肌触りも、ふわふわの枕も……
(え……なにここ、高級ホテル?)
(出張規定で泊まれるレベルじゃないんだけど……)
ぼんやりしたまま身を起こし、ベッドサイドの鏡を覗き込む。
「……っ!? な、なにこの美少女……!! 私!?」
「いや、待って、寝不足で幻覚……?」
反射的に口から声が漏れた。
鏡の中には、見たこともないほど整った顔立ちの少女。
透き通るような白い肌、淡い銀に近い金の巻き髪、大きな紫の瞳。小ぶりな唇、整った鼻筋、
その瞬間――
かちん。
乙女ゲー脳のスイッチが入る。
(やば、これ、ゲームの立ち絵より美人じゃない!?)
すると、だんだんと思考がクリアになってくる。
(待って、えーと、私は……
佐倉まひる、27歳、社畜歴3年目。三徹残業……帰り道でよろけて、……)
電柱にぶつかった。
(……うん、ここまで思い出せたら十分頑張ったよね、私)
(――で、目が覚めたら、もしかして“乙女ゲー”世界!?)
一瞬、胸の奥がすうっと冷たくなる。
(つまりはその、私は死……でも、不思議と怖くない。なんでだろう)
あまりの展開に混乱する頭を抱える。
もう一度、鏡に見入る。
銀に近い金糸の髪が、ふわりと胸元に落ち、鏡の中には――
やっぱり、絵画のように整った美少女の姿。
「転生……? あ、これって……異世界……だよね……?」
(……うん、待って。冷静に思い出そう)
(“転生保険”……あー、そういえば。会社の先輩にノリで勧められて、深夜テンションで電子署名……)
(はい、“クーリングオフ“する間もなく発動してるね、これ……)
(てことは――ヒロイン転生、確定案件?)
(しかも……この雰囲気、この内装……まさか――)
ドキドキと胸が高鳴る。
(私が大学時代に夜な夜なプレイしてた、推し攻略ルートだけで全EDコンプした、あの《七つの聖環》(セブンスリングス)……!?)
(落ち着け、まひる……社畜魂はこういう時のためにある……はず……)
ふらふらとベッドに戻りながら、思考がゆるく途切れていく。
(ま、いっか……細かいことは明日考えよ……今日はもう、無理……)
(たぶん……目覚めたら、“幼なじみ系攻略対象”が……迎えに来るはず……)
(でも……せっかく転生したのに……初日からシナリオ進行とか……元社畜にはキツいんだけどなぁ……)
……考えるより早く、瞼が落ちた。
「あ、やば、寝不足三徹の反動……ね、眠……う……」
スイッチオフ。
ベッドにぱたんと倒れこみ、即・熟睡モード突入。
社畜の魂(?)は、この瞬間、容赦なく限界を迎えた。
ふんわりとした寝息が、静かな部屋に溶けていった。
……社畜、転生初日に寝落ち。
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