幕間:選択の時
兎のイナバの視点です。
薄暗い部屋の中。僕はいつも通りにサクラさんのベッドに潜りこんでいた。
最初はアリスさんと一緒に寝ていたのだけど、サクラさんが僕のことをとても気に入っているようで、離れたくないという願いをアリスさんが聞き入れ、こうしてサクラさんに預けられることになったのである。
日中も、サクラさんは僕のことを抱いて移動していて、決して拠点に留守番と言うことをさせなかった。
それほどまでに気に入っていたのか、それとも下手に拠点に一人きりにして何かされるのが嫌なのか。サクラさんの様子を見る限り前者だと思うけど、おかげでサクラさんの胸元は僕の定位置になってしまった。
兎に戻ってから結構経った。この生活にも、だいぶ慣れてきたように思える。
僕の役目は特にない。ただただ、愛玩動物として愛でられているだけで、美味しいご飯が出てくるし、いっぱい可愛がってもらえる。
何も知らない人と違って、サクラさんは僕のことを元々は人間だと理解しているから、変に動物扱いしすぎるということもない。
まさに理想郷。僕は今、とても幸せだった。
「きゅっ……?」
そうして、いつも通りの日常を送り、眠りにつこうとしていた時、ふと見知った気配を感じ取った。
この感覚には覚えがある。神出鬼没で、ふとした時に背後に立っているような謎の多い人物。
ベッドの傍らには、いつの間にか団長の姿があった。
「やあ、イナバ君。腹を出して寝ているなんて、幸せそうで何よりだよ」
団長の表情は見えない。けれど、恐らく笑っているんだろうなと言う気配が感じ取れた。
最後に会ったのは一年くらい前だろうか。しばらく考える時間を与えると言って、去っていったっきり、何の連絡もなかった。
アリスさん達も団長の行方は気にしていたみたいだけど、今は色々やることも多いようで、捨て置かれている状況である。
アリスさんには僕が団長と会っていたってことは言ってないけど、言った方がよかっただろうか。
「あれからしばらく経った。そろそろ、方向性を決められたんじゃないかと思ってきたわけだけど、その様子だともう戻る気はないってところかな?」
「きゅ、きゅぅ!」
「なに、怒ってはいないさ。言っただろう、必要経費だと」
僕は選択を迫られていた。
このままアリスさん達の下で暮らすか、それとも団長の元に戻ってサーカスの動物として暮らすか。
どちらも環境的には悪くないだろう。サクラさんは僕のことをとても気に入っていて、大事に扱ってくれる。団長も、人を見下す時も多いけど、身内には優しい方だ。
どちらに転んでも、僕は満足いく生活を送ることができるだろう。まあ、人間として扱ってくれるか否かの違いはあるだろうけど。
僕の今の考えは、このままサクラさんの下で暮らす方に傾いている。
団長への恩を忘れたわけではないが、今の生活はあまりにも心地いいのだ。
一度楽を覚えてしまうと、なかなか前の水準には戻れない。以前ならば、何もしていないのに世話をされることに忌避感を持っていたかもしれないが、今はもう、それが当たり前になってしまっている。
サーカスの動物として働けと言われたらそりゃやるけど、前のように楽しめないんじゃないかと思っていた。
ただ、その選択が確実に正しいとも言い切れない。
僕は団長に負い目がある。事情があったとはいえ、先に契約を放棄したのはこちらの方だ。それに、僕は団長に気に入られていたという自負もあった。
それなのに、いくら団長自身が慈悲を出してくれているとはいえ、安直にそれに乗っかるのがいいのかは未だにわかっていない。
僕は、この気持ちを素直に伝えてもいいのだろうか?
「一応もう一度言っておこうか。私は君がこのまま私の下を離れたとしても、怒ることはない。今回の件はこちらの落ち度であり、君は被害者でもある。だから、君が望むのなら、必要経費として手放しても構わない。しかし、もしその気があるなら、再びサーカスの一員として雇い入れる用意はある」
「きゅぅ……」
「どちらの選択をとっても、私は君に危害を加えるつもりはない。もちろん、そこで寝ているエルフのお嬢ちゃんにもね。それを踏まえた上で、君はどっちの選択を取るかな?」
相変わらず表情は読めない。
団長の言葉は真実だろう。確かに飄々とした人ではあるが、身内に対して嘘は言わない。
まあ、すでに僕のことを他人として見ているならわからないけど、恐らくまだ身内として見られているはずである。
団長の慈悲。僕にとっては願ってもないことではあるけど、どうしたものか。
……いや、今悩んでもしょうがないか。元々、考える時間を与えると言って、一年もの時間を用意してくれたのだ。それなのに、未だに迷っているようでは団長に失礼だろう。
だから僕は、率直な思いをぶつけることにした。
「きゅっ」
「エルフのお嬢ちゃんを指さしたということは、このまま彼女らに飼われていたいってことかな?」
「きゅぅ」
「なるほど、わかった」
何もしないでも幸せな生活を送ることができるというのは魅力的だ。
もちろん、そんな好待遇を受けている以上は、何かしら恩を返したいとは思うけど、兎の体でできることなど知れている。せいぜい、愛玩動物として愛でられるくらいなものだろう。
でも、それでも、僕はサクラさん達と離れるのを良しとしない。団長には感謝しているけど、僕はこっちにいたいのだ。
「ならば、正式にイナバ君をサーカス団から除籍することにしよう。これで君は、正式に王族のペットと言うわけだ」
「きゅぅ……」
ペット、まあ、確かにそうなるのかな。
いくら人間扱いしてくれるとは言っても、所詮は兎である。愛玩動物として愛でられることが仕事のペットと言われても仕方がない。
そう考えると、サーカス団の一員として捉えられていたあの頃の方が人間扱いされていたのかなと思わなくもないけど、もう決定してしまったことだ。今更覆すことはできないだろう。
「サーカス団の団長として、君に言うことはもうない。だから、ここからは一人の友として、君に頼みたいことがある」
「きゅっ?」
友として、なんて言葉が団長の口からこぼれるとは思わなかった。
確かに、僕は団長に気に入られていた自信があった。けれど、まさかそれが友達と言えるほどのものだとは思っていなかった。
あまりに予想外の言葉に困惑していると、団長は人差し指を立てながら、優し気な口調で囁いてきた。
「私は君の主人に興味がある。誰にも目をかけられなかった寂れた村を発見するに至るまでには立派な冒険者のようだ。だから、君は彼女を見守っていてほしい」
「きゅぅ?」
「そうだね、まあ、彼女の日頃の様子でも聞かせてもらえればそれでいいよ。今はまだ、ね」
それはつまり、アリスさんやサクラさんの様子を伝えればいいってことかな?
果たして、そんなことする必要があるんだろうか。
そりゃあ、興味があるというなら気になりはしているんだろうけど、団長ならそんなことしなくても知れそうなものだけどな。
実際、寂れた村を発見したっていうのも知っているみたいだし。
いったいどうやっているかは知らないけど、日常までは見られないってことかな。
まあ、団長がそうしたいっていうなら断る理由はない。せっかく友達だと認めてもらえたのだ、こちらの生活を選んだ薄情者の僕に対して、友達だと言ってくれた。であるなら、少しくらい恩を返して行ってもいいだろう。
「きゅっ」
「頼んだよ。さて、それじゃあ、今日はこの辺でおさらばしよう。またしばらく経ったら来るからね」
そう言って、団長はその場から姿を消した。
何なら今伝えてもよかったんだけど、忙しかったのだろうか。
まあ、別にいつだってかまわないか。
僕は次に団長が来る時までに、アリスさん達のエピソードをまとめておこうと思った。
感想ありがとうございます。




