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エピローグ

 組織を抜け出してから六年が過ぎていた。


 追われ続ける逃亡生活になるんじゃないかと思ってたけど、現実はあっけないものであった。最初こそ身を隠していたものの、国外に逃げた時点で誰も動いていないことに気づく。もちろん油断させる罠の可能性も考えた。だけど、結果としてミミは未だこうして生きているのだから、間違っていなかったのだろう。


「センセー!」厚手の防寒着を着る子どもに呼びかけられる。


 雪降るこの小さな町でミミは孤児たちに先生と呼ばれていた。


 ここはミミの最も古い記憶に登場する雪国──かは分からない。

 誰もミミを追ってないと気づいてからは、他にやることもなかったし記憶の場所を探す旅を始めた。そして、滞在場所を転々とする中でこの町にたどり着いた。それが三年前の話だ。

 記憶の場所に似ていると思った。だけど、結局は答え合わせする手段がない。機械仕掛けの心臓が壊れるタイムリミットが近づいてる気がしたのもあって、ミミはここを正解の場所とすることに決めたのだった。


「あっちで変なの捕まえたー」

「ふーん。よかったじゃん」

「よくはないよ。って、そうじゃなくて、こっち来てって言ってるの!」

「いや、言ってない。一番伝えたい言葉を省くんじゃない」

「ごめんなさい……センセー」

「それで? どこで何を捕まえたんだ」

「こっち、こっち!」


 踏み固められて汚くなった雪の上を進んで敷地の入口がある方へと向かった。


「お前……捕まえたのって、もしかして訪問客じゃないのか。失礼なことしてないだろうな」

「おう! センセーに教えられた通りにしたぞー」

「手遅れか……?」


 門の近くに子どもたちが集まっていた。その中に見慣れない女性が一人、あいつらと遊んでくれている。


 見慣れない? いや、ミミはあの人を知っている。目を疑って何度も確認してしまった。ミミの記憶の姿より少し大人びているけど、確認を何度繰り返しても答えは変わらなかった。あの人は間違いない──。


「……凪々藻センパイ」


 先輩は指を伸ばした両の手を体の前で重ねてお辞儀をする。ミミはきびすを返して逃げ出した。


「待ってください! 話を……させてください」


 孤児たちにとっては外国語で、だからミミにだけ通じる言葉だった。

 ミミは返事を言葉にせず、先輩に背を向けたまま立ち止まる。雪を踏み固める音が一つ近づいてきた。


「三三さん、わたしに顔を見せてください」

「うん……」すぐ後ろまで来ていた先輩に振り向く。「本当に……凪々藻センパイ?」

「はい、凪々藻です」

「よく……ここが分かったね」

「仕事を辞めたら生まれ故郷を探すのもいいかもしれないとおっしゃってましたので。ほら、記憶には雪が降っていたと」

「たしかに探すって言ったかもしれないけど、雪が降るだけじゃごまんとあるでしょ」

「可能性の高い地域から順に。それでも数年かかってしまいましたが」

「なにそれ! 死んでる可能性だってあったわけだよ」

「三三さんがそう簡単に野垂れ死ぬとは思えませんでしたから。だから……間に合ってよかったです」

「それって……」

「あなたの──心臓のことです」


 そっか。やっぱりミミの予想は間違ってなかった。それに、体が全く動かなくなることが最近になって時々起こるようになっていた。もうそろそろ、この機械仕掛けの心臓は停止する。そうなれば、当然ミミは死ぬ。


「それで? 心臓を新しいのに交換してくれるの」

「はい、そのために来ました」

「ふーん。でも、交換条件があるんでしょ」

「………………ありましたが、気が変わりました。とりあえず、二人で話をしませんか」


 気が変わったって、どういうことだ。そもそも先輩がわざわざミミを探し出した意図が全く分からない。


 とりあえず、凪々藻先輩を暖房の効いた客室に通すことにした。使い古されたソファーと机が並べられただけの小汚くて狭い部屋だ。


「今の三三さんのことを聞かせてくれませんか?」

「別に話すようなことは大してないけど」

「構いません。あなたを知りたいのです」

「まあ、いいけど。先輩の言った通り記憶の場所を探す旅を始めたんだけど、この町に来てそれも飽きちゃった。あと数年しか生きられないのも分かってたし」

「それで、この孤児院で先生として働いてるのですね」

「いや、居候してるだけ」

「ですが、子どもたちから先生と呼ばれていませんでしたか?」

「先輩は大人びて綺麗になったね。だけど、この通りミミの姿、昔と何も変わってないでしょ。だから、最初は子どもと間違われて野宿してる所を拾われたんだ。でも、タダ飯というのも良くないから、代わりに用心棒と勉強と、それから生きるすべをあいつらに教えてる」


 人を殺す方法なんかの不要な知識は教えていない。だけど、悪意ある人間から自分の身を守る上で何が必要なのかを知るには、悪意ある人間のすることを理解する必要がある。そういう意味で、理解どころか実際に悪事を重ねてきたミミが適任であると自負していた。


「とても素敵なことです。ここが三三さんの新しい居場所なのですね」

「どうだろう。まあ、そうかな」

「分かりました。……三三さん。一度だけわたしについてきてくれませんか? 心臓の手術をしてほしいのです。これはわたしのお願いですから、交換条件はありません」


 どういうこと? 条件がないんじゃ先輩に何のメリットもない。ミミを見つけるのに数年かかったと言っていたけど、そこまで労力を費やす理由が分からない。

 ミミを始末するための罠だろうか。いや、それなら放っておけばいい話だ。少なくとも居場所を突き止めた時点で、今のミミに延命するすべがないことは分かっているはずだ。リスクを犯してまで接触する必要はない。


「疑っていますよね。まあ……当然の反応だと思います。わたしはいつも、本心を隠してきましたから。言い訳をさせてもらえるなら、本心に気づこうとすることを怠ってきたからなのですが。えっと……ですから……今回は本心をちゃんと伝えようと思います」


 凪々藻先輩は視線を真っ直ぐに向けてくる。


「裏なんてなくて、いたってシンプルな話です。その…………わたしが愛したあなたに、もっと生きてほしいと、そう願ってしまった。ただそれだけのことなんです」

「え……?」今のって告白……だったのかな。


 なんて返事をすればいいんだ? スルーすべきことなのか?

 頭の中がぐしゃぐしゃになって、冷静に考えることができない。こんな感情になったのは高校に通っていた時ぶりだった。

 こういう精神状態の時はどうすべきか。速やかに感情を鎮めることができないなら、撤退に限る。


「センパイ、ごめん。少し考えさせて」ミミは客室を飛び出した。


 扉の向こうでガキたちが盗み聞きしているのは分かっていた。だけど、聞かれちゃいけない話でもなかったし、知らない言葉でほとんど意味も通じないだろうから放置していた。






 先輩から逃げるために自室に引きこもったミミはいつの間にか眠ってしまっていた。ベッドから起き上がって窓の外に目を向けると、空はすっかり日が落ちていた。どうやら数時間寝ていたようだ。

 いつからか、電源を落としたように突然寝てしまうことが時々起きるようになった。無意識にベッドへ向かっているみたいだが全く記憶にない。こういう風に眠るのは、どうやら気絶するのとほとんど変わらないらしい。そして、決まって何かしらの夢を見る。


「はぁ……」心のモヤを払い除けようとため息をつく。


 久しぶりに凪々藻先輩が夢の中に登場した。高校を舞台にした記憶だった。こういう夢を見た後は決まって心にぽっかり穴が開いたような喪失感に襲われる。そして、涙を流している。


 眠れなかった昔に比べたら、気絶だろうと眠れる今の方がもしかしたらいいのかもしれない。なんて、ポジティブに考えてみる。


 ミミは自室を出て、普段通り食卓の手伝いをしに向かった。


「あっ、センセーだ! もしかして寝てたでしょう」今いる子どもたちの中で最年長の女の子が、ミミを見つけるなり詰め寄ってきた。

「うん、寝てたけど。それで?」

「センセーは今日、お手伝いなしだよ」

「ラッキーだ」

「ぜんぜんラッキーじゃない! このままなら、ごはんも抜きだよ」

「よく分からないけど、一食くらい抜いても問題ない」

「一食じゃなく一生だからね!」

「それで? 要求はなに」

「そんなの分かり切ってることでしょ。あの綺麗な人と、ちゃんと話してきて!」

「うるさいな。大きなお世話だ」

「むぅ~!!! ちょっと、こっち来て」


 振り解こうと思えば振り解けたが、これ以上うるさくされてもたまらないし素直に従おう。そして、他のガキたちがいない所まで連れて行かれる。


「あの綺麗な人が、センセーがいつも言ってた人なんでしょ」

「どうして、そう思う」

「だって、あの人、こっちの言葉喋れるよ。ずっとセンセーのこと探してたって言ってたもん」

「なるほど」こうなってしまっては白状するしかなかった。「その通り、あの人がセンパイだよ。すごく綺麗だったでしょ」

「うん! 物語に登場するお姫さまみたいだった」

「はぁ? あんな男に現を抜かすような阿婆擦れどもと一緒にすんな」

「今はそういうのいいよ。ねえ、昼間に応接室で何を言われたの? もしかして、一緒に帰ろうって言われたんじゃないの」

「これだから勘のいいガキは。いや……そんなこと言われてないか」

「でも……何かしら、迷うようなことを言われたんでしょ。センセーにとって、何かと何かを天秤にかけるようなことを。それなら、センセー自身の幸せがどっちなのかで考えてよ」

「お前は何が言いたいんだ。そんな抽象的な言い方されてもミミは汲み取ってあげられないぞ」

「もー! 何でよぅ。えっと……間違ってたら恥ずかしいけど……。私たちのこと置いて行っちゃうことになるから悩んでるんでしょ。もしそうなら、私たちはセンセーを笑って送り出せるよ。少し泣いちゃう子もいるかもしれないけど、センセーの幸せが向こうにあるなら、引き止めたりなんて絶対にしないんだから」


 全くもって見当違いだ──とは言い切れなかった。


「まあ、三十点ってところだな」だけど、本音を言えば背中を押された気がした。「飯はちゃんと用意しておけよ」

「あの人と話する気になったんだね」

「……まあね」

「でも、どこにいるのか知ってるの?」

「センパイを探し出す能力でミミの右に出るやつはいないから何とかする。それとも知ってるのか?」

「うん、知ってるよ。時計塔の見晴台で待たせてるんだ」

「それを先に言え。しかも、こんな寒空の下であんな場所に待たせたら風邪ひくだろ」

「うぅ~。たしかに……。ごめんなさい」

「全速力で行くからいいよ。まあ……なんだ。……ありがとう」


 感謝の言葉をその場に残して、ミミは背を向けて走り出した。






 時計塔の見晴台は平屋ばかりが建ち並ぶこの町で最も高い場所である。この町を見渡すことはできるが、都会のように明かりがそこら中にあるわけじゃないから、夜景といっても大した見応えはない。


「センパイ! ウチの糞ガキのせいで、こんな寒い所に待たせてごめん」

「三三さん。来てくれたのですね。いえ、しっかりと防寒着を着てきたので大丈夫ですよ」


 凪々藻先輩の手元にある手すりには、五匹の雪ウサギが並んでいた。


「隣に来てくれませんか?」先輩に手招きされる。

「うん……」先輩の横に並んで見慣れた町を見下ろす。とくに新しい発見はなかった。

「三三さんが知りたいのは、どうしてわたしがあなたに会いにきたのか──ですよね」

「まあ、そうだけど……」

「一つは……どうしてあの時、ミミさんはわたしを殺すと噓をついたのですか?」

「あの時って最後に話した時のことだよね。別に嘘は言ってない。だって、殺すなんて言ってないから」

「ああ。そういうことですか。やっぱり、髪を切ったのはミミさんだったのですね」

「言わなくていいよ。何か解説されるの嫌だ。そんなどうでもいいこと聞くために来たわけ」

「ち、違います! 全くないわけではありませんが少しだけです。もう一つの理由は三三さんに謝りたいことがあったんです。それに、答えが分かるまで待つと約束したじゃないですか」

「もしかして……手紙読んでない? あの後、学校一度も行ってないなら仕方ないけど」

「いえ、ちゃんと読みました。だけど、あれは本心ではありませんよね。なんて……何年も前の口約束を責めるつもりもありませんが」

「ほんと……今更だよ。あれがどういった感情だったかなんて、もう分からないし。どんな風に答えても白々しく聞こえるだけだと思う。それより、謝るって何のこと? センパイに嫌なことされた記憶なんて一つもないよ」

「少なくても一つはあるじゃないですか。三三さんがわたしに告白してくれた時のことです。わたしは答えることから逃げるために、三三さんの感情を否定しました。それをずっと謝りたかったのです」

「うーん……分かった! センパイのこと許します」

「いえ、今のはなかったことにして下さい。今更謝られても……そんなのわたしの一方的な都合に過ぎませんでした」

「どっちでもいいけど。それで、理由はもう終わり?」

「いえ、昼間に言ったことが最大の理由です。三三さんにもっと生きてもらいたいので、心臓を新しい物に交換してほしいのです。ただ、ここでは移植手術を行えませんので一度こちらに来てもらう必要があります。手術後も数週間は入院が必要でしょうし、その後半年以上はリハビリが必要です。リハビリはどこでも行えると思いますが」

「でも……ミミに」そんな資格あるわけがない。散々、他人の命を奪ってきたこの罪人に。

「資格がないとか考えていませんか? そんなのいりませんからね。一番大事なのは三三さん本人がどうしたいかです。生きられるならもっと生きたいのか。それとも……その逆なのか」

「別にもっと生きたいとか、早く死にたいとか、そんなの考えたことない。どっちでもいいんだ」

「それなら、どうして三三さんは未だにこうして生きているのですか? 手持ちが何もないどころか、深い傷を負った状態で逃亡生活は始まったのでしょう」確かに赤髪の戦闘狂に何とか勝ったものの負傷させられたのは事実だった。「それが今、新しい居場所を見つけているのです。これが生にしがみついている以外の何だっていうんですか!」

「そんなの……何があっても生きてください──なんてセンパイが言うからじゃん! だから、ミミはセンパイの言いつけを守るために、これまで生きてきたんだ!」


 凪々藻先輩は唐突にミミを力いっぱいに抱きしめた。


「それなら……わたしのためにも、もっと生きてください!」先輩は涙声で訴える。


 どうして、先輩はそこまでミミに執着するのだろうか。もちろん、嬉しくない訳がなかった。ずっと蓋をしていた想いが溢れそうになってしまう。さっきは素っ気ない態度を取ったけど、本当は今もずっとミミの気持ちは色あせてなんかいなかった。


 ミミは──期待しちゃっていいのだろうか?


「ねえ、それなら正直に答えて。最初に言ってた交換条件ってなんだったの」

「それは…………えっと。先に言っておきますが、わたしのワガママで三三さんの居場所を奪う気は決してありませんでした。だから、交換条件を取り下げたわけですが……」

「そういうのいいよ。今ならミミの姿、見えないんだから何を言っても大丈夫」


 ミミもまた先輩をぎゅっと抱きしめ返した。


「そう……ですね」先輩が深呼吸するのが、体を密着しているため伝わってくる。


 ──今度はわたしと共に、その手をもう一度、穢してくれませんか?






 ──恋とは何なのか?


 何十億人の中からたった一人を選ぶわけでもなく、人生の中でたまたますれ違った二人が何となく引かれ合って縁を結び、関係を構築していく中で“大切”という気持ちをどんどん積み重ねていく。その始まりからどこかしらまでを恋と呼ぶらしい。


 ミミの“初恋”は、この世のありふれた恋とは違うのかもしれない。


 だけど、よっぽど“恋”という言葉にふさわしいとミミは思っている。


 だから、ミミのこの気持ちは間違いなく──恋なのだと今なら言える。

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