五幕 普通がいちばん充電減る
機械仕掛けの心臓が踊る。体を置いて先走ろうとするものだから、ミミは学校の廊下を全力疾走するしかなかった。
廊下を走ろうものなら先生に雷を落とされる──それが世間一般の常識であることは漫画から学んだ。しかし、そんなの見たことないから、この学校においては当てはまらないのだろう。
いや、そもそも廊下を走る生徒を見たことがあっただろうか。
影が差す廊下を抜けて中庭に出る。ミミは一度立ち止まる。視界が開けると光があった。
「せんぱぁぁぁいッ!」ミミは駆け出していた。「本当に学校に来てる! 約束、守ってくれたんだ」
「はい。まあ……」テラス席にいる凪々藻先輩が歯切れ悪く言う。「なんとか来ることができました」
先輩の自宅まで押しかけた日から約一週間ぶりの再会だった。
ミミは駆け寄る勢いで先輩に抱きつこうとしたが、悩んだ挙げ句やらなかった。自分は無邪気なフリをしてるだけなのだろうか。ふと疑問が浮かんだ。
昼食の準備に紅茶を入れていた先輩は手に持つティーポットをテーブルに置く。ミミに向かって両手を広げた。きっと、ミミが立ち止まった理由が手元の食器にあると勘違いしたのだろう。
ミミは先輩の顔を見ずに小股で歩み寄って、先輩の胸の辺りにひたいを押し当てた。
「正直に言うと、あの日した口約束はあくまで口だけだったんじゃないかって思った」
「ご心配おかけしました。ですが、決してそのようなつもりで言ったわけではありません」
「うん。よかった」
先輩の腕がミミの頭をそっと抱擁する。そのまま先輩の側から離れずに、再会できた感動の余韻に浸った。
「わたくしの存在をお忘れではなくって」
すぐ近くからおっぱい星人ことアイラの耳障りな声がして、先輩は咄嗟にミミから離れた。
「……いや、忘れてないけど」ミミは不機嫌を隠さず声色に乗せる。「そもそもお前の存在に気づいてなかったんだから」
「初めから凪々藻さんと同じテーブルにいましてよ。それなのに気づかないなんてこと、ありえませんの」
「お前は河原を歩いてて、視界に入る石ころ一つひとつを認識するのか?」
「なッッ! ……まあ、過ぎたことはいいですわ。凪々藻さんも、わたくしがいますのにイチャイチャして破廉恥ですわ」
「すみません。アイラさんがいること、完全に失念していました」
「凪々藻さんまで! わたくしがいることを忘れるなんて、流石にショックで──あんッ!」
アイラは突然、体をくの字に曲げて何かを堪えるようにけいれんする。この変態を黙らせるためにオモチャの電源を入れてやったのだ。
「破廉恥なのはどう考えてもお前だろ。凪々藻先輩、こいつのことは気にしないでいいから。早く席について食べよう」
「平気そうには見えませんが……」
「いえ………………この通りもう大丈夫ですの」
アイラは何事もなかったかのようにお辞儀する。その立ち居振る舞いには腐ってもお嬢さまであると再認識させられた。だからといって、この変態に対するミミの評価が変わるわけではない。
昼食の準備が整い、一つのテーブルを囲ってミミたち三人は席につく。
「さっそく文化祭のことだけど」ミミは先輩とした約束の話を切り出した。「文化祭って何のためにあるの? 去年の内容調べたけど遊んでるのと変わらないじゃん」
「まあ、日頃の学習や活動の成果を発表する行事という位置付けではありますが、たしかに実態として目的に則しているとは言えませんね。一応は自発性や協調性などを養うというのが建前なのでしょう」
「建前なんだ」
「はい、建前です。深くは考えずに楽しむくらいの心構えでいいのではないでしょうか」
「ふーん、そうなんだ。なら、先輩と一緒のことしたい」
「クラス単位ですので、流石に学年が違うとなると合同でやるのは通らないかと。それに今はどの部活にも所属していませんし……」
「申請枠があったのではなくて?」アイラが口を挿む。「凪々藻さんも去年はその枠でピアノを演奏していたではありませんの」
「ですが、あれはステージで披露する方々のための枠です。去年は人数合わせのために頼まれて協力しましたが」
「そうでしたか。でしたら、やはり問題ないではありませんの」
「こいつの言う通り問題ない。ミミやる。先輩とピアノ弾く」
「そう……ですね。前向きに検討しておきます」
「やったー。じゃあ、この話はもういいや」
「い、いえ。待ってください。ただ……ですね。練習の時間を取れるかどうか。現段階ではまだ参加を確約することはできません。それに、文化祭のメインは何といってもクラスの出し物だと思います」
「クラスの出し物ってのは何をすればいい?」
「それを決めるのは三三さん含む、同級生の方々です」
「それもそうか。先輩が言うならやってみる。だけど、何かアドバイスくらいはほしい」
「アドバイスですか。それなら、まあ……“普通”にやることです」
「それ、ミミにとって一番難しいやつだ」
「それを言いましたら、わたくしたち全員が苦手とすることですわ」
「はあ? お前のそれはミミたちと次元がちげぇんだよ」
放課後のホームルームでは早速、文化祭の出し物を決めることとなった。
クラス委員長が教卓に立って指揮を取っているが、意見がいくつかに分かれて対立を起こしている様子だ。
どの派閥にも属さない者は今の議題と関係のない話で盛り上がっていた。聞こえてくる会話の中に気になる話をする者がいた。
「ねえ、知ってる? この学校の文化祭、最後に打ち上げ花火をするんだよ。夏祭りみたいに本格的なやつ。花火師を呼んでるみたい。私、毎年見に来てるんだよね」
「へー、流石この学校というほかないね。好きな人と一緒に見てさ。それで告白なんてされちゃったらどうしよう」
「いつまで受け身なの。いい加減、あなたの方から告っちゃいなよ。この機会を逃したら行事なんてないのよ」
「ま、まだ……卒業式があるから」
「残念だけど、卒業式は別の会場でやるし、在校生は基本参加しないわよ」
「そうなの! えー。じゃあ、本当に文化祭が最後なの?」
「だから、そう言ってるじゃない」
ミミは名前も顔も知らない女生徒の話を盗み聞きしていた。
やっぱり、凪々藻先輩に告白するなら文化祭がいいんだ。
二年生の先輩はまだあと一年間はこの学校に在籍するだろうけど、逆にミミの方が今後どうなるか分からない。この機会が最後になる可能性は大いにある。
それにどうだ。先輩の家に行ったとき、本当は先輩に好きだと言おうとしたのに、その言葉を声にすることができなかったではないか。きっと、絶対にこの日に告白するって誓いを立てないと、いつまで経っても今の居心地のいい関係を続けてしまう気がする。
そういえば、文化祭で告白といえば──幸子から借りた漫画で花火が打ち上がる中、告白をするというシーンがあったのを思い出す。ヒロインはその前からずっと花火を見たいと言ってたのに、いざそれを前にして見ないのかよと思った。よく分からないけど、きっと言葉通りの意味ではなかったのだろう。そして、花火というのは“普通”の人ならば誰にとっても特別な魔力を秘めているのではないだろうか。
「いいこと思いついた!」
「何を思いついたし?」明美が話しかけてくる。
「詳細は教えられない。だけど、言える範囲で言うなら今回もミミ実行委員になる」
「みーみ、めっちゃやる気じゃん。いいね」
「いいだろ。もうミミは決めること決めたし帰る」
「えっ! 出し物決めた後に委員も決めるらしいよ」
「うん、知ってる」
ミミはカバンを持って席を立つ。黒板に向かうとクラス全員の目がミミに向いた。もちろん、それは意図した結果だ。
黒板に書かれた実行委員の文字、その隣にある空白にミミは自分の名前を書く。そして、ミミを見る全員のことを見渡してから教室を出ようとした。
「あ、待ってください」
クラス委員長が帰ろうとするミミを引き止める。有無を言わせないつもりであったが、予想外の反撃であった。
「なんか文句ある」
「い、いえ。そ、そういうわけでは……ありません。あの、これ……」
「なにこの紙」
「あ、はい。実行委員になる方に配布する、案内のプリントです。あの、初回のミーティングの時間と場所が記載されてますので」
「ふーん」
その時、どういうわけか先輩の言った言葉を思い出していた。──“普通”にやることです。
「うん、了解。ありがとう」
ミミは委員長にお礼を言ってプリントを受け取る。そのまま教室を後にした。
実行委員の集会一回目がある日、ミミはその会場に向かって一人で歩いていた。
そういえば、先輩も実行委員になったのかな。
会場となる教室の中を覗いてみるが、凪々藻先輩の姿はどこにも見当たらなかった。
時間がないと言ってたし、やっぱり忙しいのかもしれない。結局、舞台でピアノを一緒に演奏する件もまだ返事はなかった。
教室に入ろうとすると、目が合った見ず知らずの男があからさまに嫌そうな顔をした。
「なんか言いたいことでもあるのか」
「ヒィ〜……滅相もございません。草葉さんに対してボクが意見するなんて」
「お前、なんでミミの名前知ってるんだよ。見かけたことないし、同じクラスでもないよな」
「わ、忘れてしまわれたのですか。ボク、深田ですよ」
「はぁ? だから誰だよ、お前。てか、普通に喋れよ。気持ち悪い」
「ご、ごめん……」
「それで、新手のナンパか? それともオレオレ詐欺か?」
「いや、違うよ。そもそも初対面じゃないんだって。連絡先だって知られてる仲だよ。一方的に君が知ってるだけだけど」
「知らない。そもそも、野郎の連絡先なんて一件も登録してない。最近スマホに変えた時も、連絡先一つもなかったから引き継いですらないし」
「どうやって管理してたかまでは分からないよ」
「お前ウザいから、初対面じゃないこと証明できないなら、痴漢されたって先生に言うね」
「そ、それだけはやめて! でも、証明って言ったって…………あー、もう分かったよ。だから──ボクは浅田だよ。前に君が奴隷にした」
「えっ……いくらミミに近づきたいからって、流石のミミもそれは引く。──だが、自ら奴隷を志願するのはいい心がけだ。お前を駒として使ってやろう。喜べ」
「ボクは……自分でなにを言ってるんだ……ハハッ……」
ほどなくして集会は始まるが、結局のところ凪々藻先輩が来ることはなかった。集会の議題は役割を決めるというもので、ミミは狙い通りに花火を手配する係となった。そして、初対面で奴隷を志願した浅田とかいう男にはスケジュール係に就いてもらった。
凪々藻先輩に最高のシチュエーションで告白するのなら、この二つの係は押さえておく必要があるのだ。
文化祭の実行委員は思ったよりも面倒くさい。純粋な裏方作業である体育祭と比べるべきじゃない。もちろん、裏方の作業もある。ミミの場合は花火の手配だ。それと、名前も忘れた奴隷の男を通してタイムスケジュールを組む係にも間接的に関わっている。
ただ、文化祭の場合はそれだけではなかった。後で知ったのだが、クラスの出し物を準備する上での指揮官の役割もあるらしい。ミミはクラスメートに仕事を割り振ったり、事務的な分からないことを教えたり、個人で用意するのが難しい物の手配をしたりと、話したこともなかったモブキャラと会話をする機会が増えていた。
最初はミミのことを怖がってた癖に、どうしてこうなってしまったのか。それもひとえに明美と幸子がミミに頼れば簡単に解決すると触れ回ったせいだ。これじゃ、ミミがいいように使われる便利屋みたいじゃないか。それとも、これが先輩の言っていた“普通”なのか。
「もう……充電が切れそう……」ミミは独り言を呟く。女生徒が出し物について何かを尋ねてくるが、その内容が一切頭に入って来なかった。
「スマホの充電、ですか? 同じ端子のなら貸せますけど使います?」
「いらない……。質問はまた今度にして……」
精神的に疲れ切ったミミは足を引きずりながらトボトボとその場を離れる。目的があるわけでもなく、どこかへ向かって歩いた。
「──さん、──三さん……三三さん!」ミミを呼ぶ声は凪々藻先輩のものに聞こえた。
「あれぇ……? 本当に先輩だったぁ。こんなところでどうしたの?」
「こんなところも何も、ここは二年生の教室の前ですよ。それより心配なのは三三さんです。とても体調が優れないようにお見受けしますが」
「ああ、うん……“普通”ってのが凄い疲れるんだぁ。そのせいで心の充電が切れそう。ねぇ、先輩。充電させて」
「心の充電──それって三三さんのあの……心臓の話ですか! 千鶴先生に頼めばいいのですよね。今すぐ保健室へ向かいましょう。わたしが連れていきます」
「いやだぁ……千鶴さんなんかじゃ充電できない……先輩がいい」ミミは抱っこを所望するように両手を先輩に伸ばす。
「えっと……こ、こうですか?」先輩の透き通った細腕がミミの小さい体を持ち上げる。
「おぉー……やっぱり先輩といるのが一番落ち着く。もう、ミミ疲れちゃった……」
「ふふ、今日の三三さんは甘えん坊さんですね。まるで小さい子みたいです」
「そうだよ……ミミまだ小学校卒業して……そんなに経ってないょ……」
「えっ……?」
「ミミ最近、けっこう“普通”ができてると思うけど……どうかな」
「はい。多くの同級生から頼られているところを見かけましたよ。とても凄いです」
「そんなの……先輩のおかげだよ……」
「そこで、どうしてわたしが出てくるのですか。全く関係ありませんよ。全部、三三さん自身の力です。何だか自分のことのように、とても誇らしく思いますよ」
「へへぇ……」
三三を抱えながら人目のない小部屋へ移動した先輩は歩みを止める。
「そういえば」先輩は部屋にあるピアノの鍵盤を指で弾く。「ステージでピアノ演奏する件ですが、三日間だけなら放課後に少しですが合同練習の時間が取れそうです」
「おおぉ! 三日もあれば十分かは分からないけど、やれないよりはずっといい」
「ただ、少し条件があります。私個人の練習時間が取れないというのもありまして、メインを三三さんが弾くピアノにしようと考えています。楽曲はみなさんが知ってる最近流行りの曲から自由に選んでください。それから、わたしはピアノではなくバイオリンです。ピアノとバイオリンのデュオ──というのはどうでしょうか?」
「この文化祭で先輩と一つのことをできるなら何だって構わない。よし! ミミの充電、先輩のおかげで満タンになった」
「それならよかったです。心臓の件のことかと思って、とても心配しました」
「機械の心臓のこと? それなら平気だよ。よっぽど心臓を酷使しないと体育祭の時みたいなことにはならないから」
心の充電が完了して気づいたことがある。本当に充電が必要なのは凪々藻先輩の方だったのではないだろうか──と。
先輩の顔色は疲れ切っているのにそれを隠そうとしている、そんな印象を受けた。しかし、この時のミミは浮かれていて深く考えることをしなかった。
後になって考えてみれば、本当は学校に来るのも精一杯だったのではないだろうか。ミミのために開けてくれた三日間の練習時間もまた、かなりの無理をしていたに違いない。




