四幕 穢れた手と手
凪々藻先輩の自宅に不法侵入するのは、言うまでもなく容易ではない。正真正銘この国一番のお金持ちの家ともなれば、その広さもさることながら、セキュリティ面にも莫大な費用が投じられていた。
チャンスは一度きり、捕まれば少なくとも先輩に会うことは叶わないと考えていい。つまり、ミミの計画を絶対に成功させるためには入念な侵入計画を立てる必要があった。
ミミは学校をサボって先輩宅の調査を始めた。まずは敷地の周りを一周して、目視で確認できる範囲の情報を集める。それを元に侵入ルートの候補を洗い出す。高い建物から双眼鏡を使って集めた情報と組み合わせればルートの確定が行える。ここまでの準備にはさほど時間はかからない。問題はここからだった。
当然、建物の中の構造までは外から観察しただけでは分からない。しかし、中に入ってからの方が危険度は上がる。ミミのいる組織が持つ情報によると、あの家に仕える使用人の中にはミミと同じ匂いがする者もいるらしい。つまりは先輩の護衛係でもあるわけだ。
先輩の別荘に行った時に世話してくれた執事の女もまた、ミミと戦うだけの力を有しているはずだ。あの時は気にも留めていなかったが、立ち居振る舞いからもそれは見て取れた。もちろん、一対一ならミミが後れを取ることは決してない。
余計なことを考えてしまったが、要するにぶっつけ本番で闇雲に探すのではリスクが高いため最低限の情報がほしい。この作戦の最終ゴール──先輩がいるであろう自室の位置である。
敷地の外からでも唯一建物の中を覗くことのできる箇所がある。そこを監視すれば先輩の自室を割り出すことができるだろう。ここからは根気勝負となる。
ミミは全ての窓を最低限のカメラの数で監視できる位置を計算して、さっそくカメラを設置して回った。
監視を始めてから二晩が過ぎた。思ったよりも早く先輩の自室を割り出すことができたのは運が良かったと言っていいのかもしれない。二階の端に位置する部屋が先輩の寝室である。
これで必要な準備は全て整った。さっそく今晩計画を実行しよう。連日帰ってきていない先輩の父が今日に限って帰宅するなんて不運が起きないことを願う。でも、大丈夫だろう。これでもミミはけっこう運が良いと自負していた。今まで生き延びてこられたのが何よりの証拠だ。
夜の帳は下がり、先輩が寝室へ向かったことを確認する。昨日一昨日と同じなら先輩はまだ就寝せず、部屋の明かりをつけて何かをしているに違いない。
「さて、行きますか」
ミミは凪々藻先輩の家の敷地を隔てるフェンスの前にいた。
「だけどフェンスの下をくぐったら、オシャレしてきたのに服が汚れちゃう……」
せっかく先輩に会いに行くのだから、ミミの可愛い姿を見せたいと思うのは仕方のないことだ。だけど、こういう些細な計画変更が死に繋がることは、同僚の失敗から嫌というほど学んだ。
ミミは地面に這いつくばり、フェンスの下をくぐる。そして、頭にインプットしたルートを辿って大きな建物を目指した。
セキュリティを起動させず、ミミの存在を誰にも悟られることなく建物の中に潜入する。ここからが本番だ。
「思ったよりも……人が少ない」
気をより一層引き締めたのも束の間、あまりの気配のなさに嫌な予感を覚えた。経験則から言えば何かあるのは間違いない。
本当は端の部屋に先輩はいなくて、そこへミミを誘い出すための罠だったりするだろうか。仮にそうであったとして、他に行く宛を持たないミミは罠を踏みにいくしかなかった。
結局、誰一人として遭遇することはなくゴール直前まで来てしまった。
「お久しぶりでございます──草葉様」
目的の部屋の前で待ち構えていたのは見覚えのある執事だった。別荘に行った時に世話してくれた女である。ミミはすかさず武器に手を伸ばした。
「ミミが忍び込んだことバレてたか。流石は万全のセキュリティだ」
「そうではありません。あなた様が来ることを願って……いえ、予想していたに過ぎません」
「仮に偶然だろうとお前が上手だったことは揺るがない。だけど、まだ勝ちが決まったわけじゃないから、無理矢理にでも通させてもらう」
「……申し訳ありません。今のあなたを通すことは立場上できかねます」
「お前の許可は必要ない」ミミは執事の女に接近する。
マイナスドライバーのようなもので喉元とこめかみを穿つ場合、身長の低いミミが相手の高さに合わせるか、相手を跪かせてミミの土俵まで引き寄せるかのどちらかとなる。前者は一撃で仕留められるが失敗したときの隙が大きい。後者は跪かせる手順は増えるが失敗してもケアしやすい。
ミミはふくらはぎに狙いを定めた。
「あなた様とお手合わせしてみたいと、個人的ながら心に思っておりました」女は身をひるがえしてミミの攻撃をかわす。
背中から取り出した棒の束をまっすぐ伸ばせば棍となり、女はためらうことなくミミの眉間を狙って突きつける。
「筋は悪くないけど。棍は格上を相手にするには注意しなきゃ」ミミはその武器を逆手に取って女を組み伏せる。そして、ドライバーをこめかみに突きつけた。比較的脆い側頭骨を穿って脳みそを壊すためだ。
しかし、ミミの手はすんでの所で止まってしまった。それは紛うことなき自分の意志であった。
「どう……して……」躊躇した理由が自分でも分からなかった。
ミミの軽い体は蹴り上げられて床から離れる。呆気に取られたミミは受け身さえ取るのを忘れて頭を床に打ち付けた。
「勝ったとは思いませんが……失礼しますッ!」女は棍を今度こそミミの眉間に叩き込んだ。
「凪々藻お嬢さまのご学友としてお尋ねくだされば、無下にはいたしません」女の声が聞こえた。
先輩と会う。失敗は決して許されない。そう誓ったはずなのにミミは欲張ってしまった。それが思わぬ隙を生んで負けてしまったわけだ。ミミの意識は闇に落ちていった。
ミミは再び凪々藻先輩の自宅の前まで来ていた。だけど、昨日の不法侵入とは打って変わって、お日様がまだ高い位置にある時間帯である。
昨日、意識を失う直前に聞いた女の言葉を思い出す。──凪々藻お嬢さまのご学友としてお尋ねくだされば、無下にはいたしません。
今日の格好はドレスを選んだ。ミミの髪色よりは濃い桃色の、煩わしいひらひらが無数に装飾された格好である。ロリータファッションと呼ぶらしい。明美に言われるがまま買ったのだが、本当にこれはドレスと言えるのだろうかと思わなくもない。自宅からここまで歩いて行く間に何度視線を向けられたことか。
手には菓子折りを入れた紙袋を持っていた。ここへ来る途中、前に一度訪れたことがあるデパートの和菓子屋で一番高額のものを買ってきたのだ。
「どうしてこんな落ち着かないんだ」
ない胸の辺りに施された蝶々結びのリボンを無意識に指でいじっていた。
落ち着かない理由は分かっている。愛用のマイナスドライバーのようなものを家に置いてきたことが理由の一つである。だけど、一番大きな理由は火を見るより明らかだった。
友達の──それも好きな人の家を訪ねるのである。千鶴さん家に行くのとはわけが違う。不法侵入するのとも違う。そんなの緊張しない方がおかしいのだ。
ちなみに、何があってもいいように可愛い下着を身に着けてきたし、換えも用意してきた。
「これ押したら、もう後に引けない。ど、ど、ど……どうしよう……」
インターホンに指を伸ばして押せずにいるまま、十分以上の時間が経過していた。すると、門の向こう側から執事の格好をした女が歩いてきた。昨日対峙したやつである。
「どうしましたか?」女が声をかけてきた。
「あ……えっと……。凪々藻さんに……会いに……来ました。ミミは学校の後輩で……草葉三三と申します」
「凪々藻お嬢さまのご学友でいらっしゃいますね」女は門の横にある扉の施錠を解除して、ミミを敷地内に招き入れる。
「これ……ツマラナイモノデスガ」そう言えばいいと教わった言葉をそのまま口にして、紙袋から取り出した菓子折りを女に渡す。
広い敷地を案内される中、ミミからは何の会話も切り出せずにいた。
「本日はとても可愛らしい格好でいらっしゃいますね」女が話しかけてきた。
「もしかして変だった」
「いえ、そのようなことはございません。とてもお似合いでいらっしゃいます」
「ほんと? 凪々藻先──凪々藻さんも褒めてくれるかな」
「ええ、間違いありません」
まるで昨日の出来事がなかったかのように和やかな雰囲気のまま、建物までの長い道のりを進む。そのおかげか、ミミの機械仕掛けの心臓は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
書斎に通されたミミはついに、それでいて呆気なく凪々藻先輩との再会を果たすことができた。
「三三さん、ようこそおいでくださいました」机に向かったまま、凪々藻先輩は顔を上げた。
「先輩! 見て、これ──」ミミは先輩の側に駆け寄る。だけど、当初の目的を思い出して立ち止まった。「あっ……いや、なんでもない」
先輩と視線が合う。その瞳には疑問符が浮かんでいた。
「今日はね、先輩に謝りに来たんだ。修学旅行のあの日──ミミのせいで先輩にいけないことをさせてしまったこと。そのせいで怖い思いをさせてしまったこと。それから何よりも……先輩にミミの穢れた手を向けてしまったことを謝りたかった。──ごめんなさい」
ミミは視界から先輩がいなくなるくらいまで頭を下げた。
「いえ……」先輩がミミの手をすくい上げて両手で包み込む。「三三さんの手は決して汚れてなどいません」
むしろ謝らなければいけないのはわたしの方なのです。──先輩はそう言った。
「なんで? ミミは別に謝られることされてない」
「修学旅行のあの一件は父の差し金で、初めからわたしにやらせるつもりだったみたいです。つまり、ミミさんは利用されたに過ぎません」
「そんな嘘つかなくても、ミミはいいんだよ」
「いえ、事実なんです。ミミさんのいる組織とわたしの父はどうやらビジネスパートナーの関係にあるようですね」
「仮にそれが本当であったとして、どうしてそんなことさせる必要があるの」
「そうですね。巻き込んでしまった手前、これ以上隠すのはフェアじゃありません。順を追って説明します」
先輩はミミを近くのソファーまで誘導する。ミミたちは向かい合うように腰掛けた。
「わたしの父が率いる組織の規模をご存知でしょうか?」
「具体的な数字は分からないけど、この国最大の財閥だってことは知ってる」
「はい、そう言われていますね。もう少し詳しく説明しますと、グループ全体を含めれば手を出していない業種はないと言っても過言ではありません。そして、このグループに直接関わる人の割合は、子どもなど被扶養者を含めれば人口の三割を超えるそうです。また、間接的な関わりも含めれば、全く関わっていない人はいないそうです」
「そうなんだ。スケールが大き過ぎて想像できないや」
「ええ、わたしも同じ感想です。そのような組織のトップに立つということがどれだけ大変なことか。少なくとも大変であることは想像できますよね」
「うん。どれくらいかは分からないけど」
「その大変なことをする上で欠かせない資質というものがあるそうです。時には非情になることも、手を汚すこともいとわない。常に最善手を選べることこそが“王者の資質”であると。それがずっと続いてきた一族の教えだそうです」
「まあ……そうかもしれない」
「前置きが長くなってしまいましたが──」
ここからが本題になります。──先輩は説明を続けた。
「わたしは非情になることができませんでした。必要な資質を持っていなかったのです。そして、先祖代々続いてきた方針に楯突いて、わたしはわたしのやり方を貫きました。その結果……何一つ上手くいくことはありませんでした」
先輩は気まずそうにミミから視線を外した。
「生まれ持った資質はありませんでしたが……それでも教えに従いさえすれば上手くいってしまうのです」
「つまり、あの一件は矯正の一環だったんだ。先輩のやり方は間違ってるって。親は先輩の手を汚させて、後戻りできなくさせたんだ」
「まあ……平たく言えばそうなります」
「最近、学校に来ないのもそのせい?」
「はい」
「そんな……そんなのって──」
「三三さんの手は決して汚れてなどいませんよ。指示に従う以外の選択肢を持ち合わせていないのですから。──本当に手が穢れているのは指示する側に他なりません。ですから穢れてしまったのは……わたしの手なのです」
先輩は今にも泣き出してしまいそうな表情で自身の震える両手を見詰める。だけど、決して涙をこぼすことはなかった。
「嫌だ! そんなの嫌だ! 凪々藻先輩にそんなことしてほしくない!」
「そう言っていただけるのは嬉しいですが……それで何も成し遂げられないのでは子どものワガママでしかありません」
「ミミたちは所詮まだ子どもなんでしょ。失敗して死ぬわけじゃないなら、それの何がいけないの。大人になるまでに成功できるようになればいいんだ」
「仮に上手くいったとして、綺麗事だけでは小さなことしか成せないのです。ですが、この組織は既に大きく膨れ上がってしまいました」
「邪道を進まなければ成り立たないなら、それは手に余るということなんだ!」
「……三三さんはどうしてそんなにも、わたしに邪道を行かせたくないのですか?」
「それは、だって……。凪々藻先輩のことが」
好きだから──告白することはできなかった。
好きな人には綺麗なままでいてもらいたいと思うことは、別におかしくないはずだ。だけど、当たり前の感情であれば自分のエゴを押し付けていいというわけじゃきっとない。
「………………ううん、何でもない。ただ、ミミはもう邪道から抜け出すことはできない所にいて。だけど、先輩はまだ正道に戻れると思うから。正道を進んでほしいと思ってしまったのかな。初めて会ったあの……ミミの頬をビンタした時みたいに」
「………………」
凪々藻先輩は何も答えなかった。代わりに左目から一雫の涙がこぼれ落ちる。それは宝石なんて比じゃないくらいに綺麗で、ミミが先輩に恋した日の記憶と重なった。
あの日、先輩はミミの罪を暴いた。ミミの頬にビンタして、今と同じように美しい涙を流した。そして、ミミは恋に落ちた。
邪道を行くミミは正道をまっすぐに進む先輩に見惚れてしまったのだろうか。いつか邪道を歩まなければならない先輩は、既に邪道を進むミミが気に障ったのだろうか。
あの時あの場所で出会ったのは運命付けられていたように思えてならなかった。
涙する先輩は今、何を感じているのだろうか。それがどれだけミミの理想から離れていようと、先輩が自分で選んだ道であるならミミはそれを応援しよう。手を貸せることであるなら力になろう。もう、この話を続けるべきじゃない。
「ごめんなさい。ミミが言ったことは全部忘れて。──ミミがここに来た理由は先輩に謝りたかったからなんだ。それで、もし先輩との関係がまだ終わりにならなければ、頼もうと思ってたことがある」
「わたしが手を貸せることであれば構いませんよ」
「やった! ミミは文化祭というものがどんなものか分からなくて。だから、体育祭の時みたいに楽しみ方を教えてほしい。そのためにも、これまで通り学校に来てほしい」
「………………分かりました」先輩は熟考した後、こう答えてくれた。「約束します」
「ほんとう! ありがとう。それじゃあ、目的も果たせたからミミはもう帰るよ。えっと、バイバイ。またね」
「はい……家まで来てくださって嬉しかったです。それと、三三さんのその格好、とても可愛らしくて……好き…………ですよ」
先輩は“好き”の言葉を口にした瞬間、顔を赤らめてそっぽを向いてしまう。だけど、ミミもまた同じ表情をしていたのだろう。
桃色のドレス姿が好きだと言われただけなのは分かってる。だけど、ミミ自身のことを好きだと言ってくれたように思えてしまって、居ても立っても居られなかった。
その日の晩、帰宅したミミは先輩の書斎からこっそりくすねてきたハンカチを使って、いっぱい気持ちいいことをしたのであった。




