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二幕 初めての血潮

 ミミは独断で古都まで足を運んでいた。二年の修学旅行の行き先であり、一年のミミが平日の昼間にいるべき場所ではない。それでも、先輩を追ってここまで来てしまった。

 修学旅行のスケジュールが詳細にまとめられたしおりは入手済みだから、先輩たちの居場所を探し回る必要はない──そう考えていた。


「おっぱいはいるのに、肝心の先輩はどうしていないんだ……」


 おっぱい星人こと朱雀院アイラが知らない人と何かを話している。おそらく行動を共にする班員だろう。そのメンバーには凪々藻先輩も含まれると丸暗記したしおりに記載してあるのに、肝心の先輩だけが欠けていた。

 他の奴らはお気楽な表情をして、あいつだけが焦っているのはどういうことだろう。凪々藻先輩以外に友達がいないと言ってたが、虐められているのだろうか。それなら、ここでおもちゃのスイッチを入れたら面白いものが見られるかもしれない。


 ミミは会話の届く位置まで移動する。ネットワークを介して遠隔操作を可能とした大人のおもちゃのスイッチに指をそえた。


「ですから!」あいつは食ってかかるように口調を強める。「凪々藻さんがいなくなるなんて何かあったとしかッ、アンッ! い、いえ。今のは何でもありませんわ」


 あいつはお腹を押さえながら体をくの字に屈めた。やっぱり、こんな所に来てまで股間にローターを忍ばせていたわけだ。遠隔で動かせる以上、物理的な距離は関係ないわけで、それならあの変態が非日常の中で今かいまかと待たされる快楽を手放すわけがなかった。


「ほ、本当に平気ですか?」世間知らずのお嬢様は突然の喘ぎ声を聞いて体調を心配した。「お手洗いでしたら近くにありますのでお連れいたしますが」

「け、結構ですわ。心配すべきは、わ、わたくしではなく……凪々藻さんです」

「三星さんでしたら仮に何かあったとしても問題ないと思いますが。それより、本当に大丈夫なのですか? とても辛そうに見えますが……」

「何度も何度もくどいですわ。もう結構です。そもそも、あなたたちの許可はいりませんでした。和を乱さないよう凪々藻さんに言われていますが、その本人がいないのですから守る必要もありませんの」


 あいつの話しぶりからして、どうやら凪々藻先輩がいないのは異常事態であると伺える。真面目な顔で他人の心配をしているが、その実スカートの中では変態行為をしているなんて笑える。しかし、今は馬鹿をしている場合ではなかった。とりあえず、あいつに事情を聞いてみよう。

 ミミはスイッチをオフにして、おっぱい星人に背後から近づいた。


「おい……凪々藻先輩に何があったんだ」

「その声はみ、三三さん? どうしてここにいらっしゃるのですか」

「そんなことはどうでもいいだろう。まずは先輩のことだ」

「そ、そうですわね──」


 おっぱい星人によると先輩は班行動の途中でいつの間にかいなくなってしまったのだという。真面目な彼女が自分勝手な行動をするわけないから事件に巻き込まれたのではないかとこいつは考えているようだが、他の班員は凪々藻先輩に限ってそんなはずはないから問題ないと言っていた。

 でも、先輩の様子が最近おかしいことにミミは気づいている。それにみんなが思うほど先輩は完璧な人間じゃないことも知っていた。


「それならミミに任せろ。ミミも先輩と話したいことがあったし、ちょうどいい」

「三三さんなら安心してお任せできますわ。凪々藻さんをお願いいたします」

「こんなクソガキを信用するって……お前どこまで知ってるんだ」

「いえ、何も知りませんし興味もありませんわ。ですが、凪々藻さんの別荘で何かがあって、三三さんが解決してくださったことは聞いています」

「そうか。それを鵜呑みにする気はないが、今はそういうことにしてやる」


 先輩のいない場所に用はない。どうやって居場所を突き止めようか考えながらその場を離れる。


「あつ! 三三さん、お待ちになってください。忘れ物ですわ」


 三三を呼び止めるおっぱい星人は手に持つ和傘を突き出していた。


「天気予報によると午後から雨が降るそうですわ。これを凪々藻さんにお渡しください。ついでにあなたも……つ、使って構いませんわ」

「お前が照れたって可愛くない」


 重くて携帯性の悪い和傘ではあるが、雅な先輩には似合うだろう。ミミは悪態をつきながらも素直に受け取ることにした。






 ネットカフェに移動したミミは仕事用のサーバーを遠隔で起動する。本来なら私用で使うことは禁止されているが、こういう時のために秘密のバックドアを仕込んでおいた。

 街中のいたる所にあるネットワークに繋がったカメラに侵入して、先輩が映っているものを探す。もちろん目視で確認するのでは流石のミミでも切りがないから、そこはシステム任せだ。


「見つけた……」


 先輩はちょうど電車から降りたところだった。事件に巻き込まれた可能性は低そうだから、とりあえずは一安心だった。

 先輩が今いる駅は有名な観光名所の最寄り駅だ。しかし、修学旅行のルート上にはない。何の用があるのかまでは分からないが、とりあえず急いでそこに向かうことにした。






 幾重にも並べられた鳥居をくぐりながら、階段になった山道を登っていく。先輩が上に向かったことは確認済みだった。その先の行方は分からないが、行ける範囲なんて限られているのだから問題ない。

 仮に先輩が道を外れて山の中に入ってしまった場合は問題大ありだけど、その時どうするかはそうなってから考えるとしよう。


「どうしてミミは今、こんな所にいるんだろう」


 ミミの体は組織の所有物である。ミミに人権なんてものは適用されない。ある程度の自由は仕事のパフォーマンスを下げないための飴でしかないのだ。それなのにミミは今、独断で息をしていた。


 単調な道を辿っていると、なぜか余計なことを考えてしまう。これが仕事だったならそんなことにはならないが、どういう心境の変化だろうか。いや……仕事しかなかったこれまでの人生、その中に今の状況と比較できる経験なんてあるだろうか。比較対象がなければ変化なんて計れるはずもなかった。


 凪々藻先輩を想ってここまでするその情熱はどこから来るのだろうか。

 恋するという言葉の意味をミミは知っている。辞書を引ければ誰にだって分かることだ。だけど、意味を知識として持っているからといって、ある一つの感情が恋であると断定できるわけではない。だって、定量的な判断基準を知らないのだから。

 先輩を想うこの気持ちが何であるのか。今まではそれを知識ベースで考えて、恋であると判断していたに過ぎない。だけど、判断と確信は違うのだ。そして、定量的な基準なんてなくたって今なら言える。


「ミミは……やっぱり先輩に恋してる」


 心の中に渦巻く未知の感情が恋であると確信したのはこの時だった。


 その瞬間、下腹部に経験のない痛みがあることを自覚する。刺激のある苦痛とは違って倦怠感を伴うし頭も重い。痛覚をかき立てられることには慣れているのに、これには戸惑いを隠せなかった。

 不運は続けざまに訪れる。この神社の敷地内に到着した時点で空は既に雨模様だったけど、とうとう降ってきてしまった。

 先輩が雨宿りできる場所にいればいいけど、とりあえず今は先を急ごう。階段を駆け上がり、人けの少ない方を選んで先輩を探し回った。






 凪々藻先輩は無人のお社で独り、縁側に腰を下ろしていた。いや、建物の外にあるから濡れ縁だろうか。屋根はあるけど、斜めに降る雨が先輩の膝を濡らしていた。

 近づいてもミミの存在に気づかない。先輩は空を仰いでいるけど、どこも見ていなかった。だから、和傘を広げて雨に当たらないように先輩の視界に差し込む。


「三三さん……」先輩の濁った瞳がミミを見る。「傘を持っているのに、どうしてそんなに濡れているのですか?」


 傘を差しながらだと走れないから──言葉通りには答えず、質問に質問で返す。


「先輩こそもっと奥に座らないと。雨が当たってるよ」

「……そうですね」


 ミミは先輩の隣に腰を下ろして一つの傘に二人で入った。傘を握る手に先輩の手が重なる。


「三三さんはどうしてこちらにいらしてるのですか?」

「先輩を追ってきた。最近全然会ってくれなかったし。それに、先輩がミミを呼んでる気がしたから」

「わたしが三三さんを……自分でも分かりませんが、確かにそうなのかもしれません」

「先輩の方こそどうしてこんな所に。誰かと待ち合わせしてるの?」

「いいえ。特に用事があったわけではありませんが。……どうしてでしょう……逃げたかったのかもしれませんね」

「そうだったんだ。それなら、先輩を追ってくるその何かをミミが代わりに退治してあげる。何を倒せばいい?」

「いえ……そういう問題では……」

「今更隠さなくても、先輩の色んな顔をミミはもう知っちゃったから。それとも、先輩が逃げようとしてるのはミミからだったりする?」

「そ、そんな訳ありません! どうしてわたしがミミさんから逃げる必要があるのですか」

「そんな風に感情をむき出しにしたら、まるで図星みたいに聞こえる。隠さなくてもいいよ。何を言われても傷つかないから。それよりも隠される方が嫌だ。言ってくれないと、ミミには難しくて分からないよ」

「本当に……ミミさんは関係ありません」先輩の声は普段通りの落ち着きを取り戻していた。「これはわたしが自分自身で解決しなくてはならない問題だというだけです」

「ミミは先輩の辛そうな顔も好きだけど、優しい顔の方がもっと好きだから、取り戻すためだったら何でもする。ミミが手伝えることは、それでも何一つないの?」

「そう言っていただけるのはとても嬉しいです。ありがとうございます。ですが……ありません」

「あるかないかはミミが決める。だから、話すだけ話して……ウグッ!」


 取り付く島のない問答に熱が入ってしまったことで力んだせいか、お腹の痛みが増した気がした。それに、股の辺りがジメジメして気持ち悪い。

 感触的に得体のしれない何かが溢れている。手を衣服の中に突っ込んで直接触れる。引き抜いた指の先が血塗られていた。


「どうして血が……? なんだか体が重いし、もしかしてミミ死ぬのかな」

「い、いえ、死にはしません。それより、何も対策してないのですか? 今まではどうしてたのでしょう」

「今までも何もこんなの初めてだから」

「初めてっ! ……なのですか。えっと、つまり初潮ということでしょうか。いえ、それよりも今は綺麗にするのが先ですね」

「へー、これが初潮なんだ。千鶴さんには前に何か渡されてたけど捨てちゃった」

「ご自分で歩けますか? 難しそうならわたしがおぶって行きますが」

「うーん……お願いしたい」

「分かりました。確かここへ来る途中にお手洗いを見かけました。そこへ向かいましょう」


 ミミは多目的トイレの中で股ぐらをさらけ出す。シート越しではあるけど、流石のミミも恥部を先輩にまさぐられるのは恥ずかしかった。だけど、抵抗する気力さえ今のミミにはない。

 血を拭き取ってもらい今の手持ちでできる限りの清潔さを確保する。ナプキンとかいう物を貰って、ついでに使い方も教わった。


「本来ならここまで血の量は多くありませんが、そこは個人差がありますので問題はないと思います。初潮の時期が平均よりずっと遅いので、それが関係してるのかもしれませんね」

「そう……なんだ……。ハア……ハア……問題ないなら……いいんだ……」

「体もとても重そうですね。とりあえず、ここを出て駅へ向かいます。代えの下着をどこかで買いましょう」

「さっきの所に……傘忘れた……かもしれない」

「いえ、持ってきてますよ」


 再び先輩におぶってもらい多目的トイレを出る。


「ごめんなさい……」


 こんなつもりじゃなかったのに、逆にミミが先輩に助けられてしまった。頭の中が申し訳ない気持ちで支配される。


「気にしないでください」

「両手塞がってるから……傘くらいはミミが持つ」

「はい、よろしくお願いしますね」


 先輩に背負われているともうろうとしてくる。それは安心感からくるものか。はたまた体調不良からくるものかは分からない。下山するまでは意識があったのは確かだけど、駅に付く前にミミの意識は落ちていった。


 ピィィィイイイーーー


 辛うじて意識がある中で最後に耳にした音は何かを告げるアラームだった。この音の発信源は先輩の別荘へ行く時に渡されたスマホだろう。仕事の緊急連絡用に設定した着信音だ。何があっても出なくちゃいけない一方的な命令が伝えられる。無視した理由が体調不良だなんて言い訳にもならない。体調管理もできない無能のレッテルを貼られるだけだ。

 なんて最悪のタイミングだろう。いや、ミミが無断でこんな所まで来ているのが既にバレているのは間違いない。ミミが先輩を見つけたように、ミミの手綱を握る組織がミミを監視していたのだ。そして、意図的に最悪のタイミングを選んだとしてもおかしくはなかった。






 ミミはどこかのビジネスホテルの一室でダブルベッドに寝かされていた。

 意識を失ってからどれくらい時間が経っただろう。現在時刻を確認する。およそ二時間前後といったところか。


 テーブルの上に新品の下着と先輩からの置き手紙を発見した。先輩がここまで運んでくれたこと。それから、この部屋は明日のチェックアウト時間まで自由に使っていいことが書かれていた。しかし、置き手紙があるということは先輩がここにはいないことを意味する。おっぱい星人たちと合流したのなら問題ないけど、嫌な予感が拭いきれない。


「そうだ。仕事の電話があったんだった」


 端末を確認すると着信履歴が残っていた。だけど、どういうわけか不在着信とはなってなかった。もうろうとする意識の中で応答ボタンを押したのか。だけど、そうだったら一回しか着信が入っていない説明ができない。


「もしかして、先輩が代わりに出たなんてことはないかな」


 もしも先輩がミミに代わって仕事を引き受けているとすれば──嫌な予感の正体が判明する。


「ミミの予想が外れてるなら別に構わない。だけど、もしも当たっていたなら先輩の命が危ない」


 先輩がいくら優秀だからといって、素人でもどうにかできる仕事なんてミミには割り振られない。いや、何よりも先輩の真っ白な手を犯罪行為で染めたくなかったのかもしれない。


 チェックイン時間は部屋のカードキーを挿んだ紙のケースに書かれていた。今から一時間半前ということは、まだそんなに時間は経ってない。


 まずは先輩が代わりに引き受けた仕事が何なのかを調べる必要があった。通話履歴が保存されるようにスマホを改造してあるから、手始めにそれを確認しよう。


「ナンバー33──お前が無断で出歩いていることは分かっている」それは男の声だった。「本来なら体罰以上のものが必要だが、これから伝える仕事を成功させれば違反行為をなかったことにしよう」


 そこまでの権限があるということは、少なくとも千鶴さんより上の者だろう。


「……おい、返事はどうした。いや、君は誰かな?」

「……わたしは三三さんの友人です。三三さんは今、体調不良で動くことができません。それと、三三さんの事情はある程度の調べがついています。言い触らすなどはしませんのでご安心ください」

「なるほど。しかし、君の言葉を簡単に信用することはできない。そこで君が代わりに仕事を引き受けるというのはどうだろう」

「わたしが……ですか? 素人のわたしに務まるとは思えませんが。それと、代わりを引き受けることと信用とが結びつきません」

「人を殺す必要はないし、手厚いバックアップも付けよう。君の実力的にそれで問題ないと我々は判断している。それと、信用については明確だ。君が我々に協力した──つまり共犯者であるという実績だよ」

「なるほど。ですが、わたしが危険を犯してまであなたからの信用を得るメリットがありません」

「おっしゃる通り──」


 そこで着信音が鳴り始めた。発信源はミミのスマホではなく、通話履歴の中だった。そして、その音を最後に通話は切られてしまう。

 タイミング的に考えて、その着信音は先輩のスマホだろう。会話が記録されているのが筒抜けになっていて、ミミに聞かれないように通話を切り替えたのだろうか。何にしろ依頼内容を調べる当てが外れてしまった。

 多分、千鶴さんは何も知らない。知っていても教えてくれない。


 状況から考えて、やはり先輩はミミの代わりに仕事を引き受けたと考えていい。仮におっぱい星人たちと合流しているのなら、何も問題はないのだから、前提としてそう考えて行動しよう。

 しかし、どうやって先輩に引き受けることを強制させたのだろうか。


「とりあえず依頼内容は無視するとして。先輩を社で見つけた時みたいに、先輩の居場所を探す方針に変更しよう」


 依然として頭もお腹も痛いし体調は万全とは言えないけど、先輩に背負ってもらっていた時よりは幾分増しだった。


 ミミはホテルを後にして、最寄りのネットカフェに急いだ。






 私は今、三三さんの所属する組織の指示に従ってとある薬品工場に来ていた。大きなサーバーが置いてある冷えた暗室に忍び込んでいる。修学旅行のただ中であるのに、こんな所に不法侵入しているなんて、いったい私は何をやっているのでしょう。だけど、三三さんを守るためには私が彼女に代わって任務を遂行させるしかなかった。

 あの組織は平気で人を切り捨てる。たとえ如何な理由があろうとも任務の棄権や失敗は許されない。そういう連中だ。組織の末端にいる三三さんだって例外ではない。体調の優れない彼女はいわば人質だった。私が三三さんの代わりを務めなければ彼女の命はない。任務の内容が犯罪行為であっても、今は目をつむるしかなかった。

 そう考えると、三三さんの境遇はほんの少しだけ私と似ている気がした。


 三星財閥の会長を務める私の父もまた人を駒のように扱う人間だ。不要と判断したものは事業であっても個人であっても簡単に切り捨てる。必要とあらば犯罪すれすれのことも平気で行う。そうすることで、この国一番の巨大財閥を今なお成長できているのは理解できる。きっと不幸になる人の数よりも幸福になる人数の方が多いのでしょう。だけど、私は先祖代々受け継がれてきたそのやり方に楯突いた。三三さんと違って恵まれていたのは反抗できる立場にあることだろうか。

 私は自分の信じたやり方を貫いてきた。そして、ことごとく失敗し続けた。父がそれを容認したのは結果が見えていたからだろうか。私が間違っていたと自ら諦めさせるためだろうか。そして、私は逃げ出した。たとえ逃げることが叶わないとしても、一時的なものであったとしても、私は逃げるままごとをしたかった。

 逃げた先で独り雨に濡れる私に、どこからともなく現れた三三さんが傘を差し伸べてくれた。


「父のやり方にあれだけ反発し続けてきたというのに、三三さんを助けるという大義名分があれば、わたしという人間は犯罪行為すらいとわないのですね」


 たった一人のためか財閥に関わる多くの人のためか──私もまた父と同じ血が流れているのでしょう。


 ローカルネットワーク上にあるデータのコピーが完了する。これで後は無事に帰ることができれば任務完了となる。


 この施設が何をする場所なのか詳しくは聞かされていない。おそらく薬の研究と製造をする施設で、秘密裏に非合法な研究が行われている。その証拠を手に入れることが任務の目的であることまでは想像できた。違法に入手した証拠は常識的には証拠として認められない。しかし、三三さんを飼う組織のバックにいるのは国家そのものだ。ならば、何だってやり様はある。あくまで噂の話ではあるけど。


 サーバールームを出た途端、赤いランプの警報が鳴り響いた。すると、薬品を扱う施設には不釣り合いの、半グレとかゴロツキとかの言葉が思い浮かぶ恰好をした警備員が現れた。不正行為があることの裏付けとなる。

 身の危険を一瞬で判断した私はすぐさま走り出した。この建物の見取り図は頭に叩き込んである。挟み撃ちされて逃げ場を失う可能性の低い脱出ルートを計算した。そして、ゴロツキをまくことに成功した──かのように思えた。


「このルートを選ぶことは分かっていました」道の真ん中に男が一人立っていた。


 他の警備員とは身なりがまるで異なるスーツを着た男だ。詳しくないから分からないけど、いわゆるインテリヤクザという言葉が適切だと思う。一人しかいないから横を突っ切ろうと思えばできたのかもしれないけど、この男に近づくのは危険だと直感が告げる。


「強行突破しないのは懸命な判断です」男は続ける。「どうしてここを通るのが分かったかって? 頭の良い者ならばここを通るしかないと考えるからです。もしここを選ばなければ、追いかけるしか能のない連中に捕まるのが関の山でしょう」

「……解説ありがとうございます」冷静さを失わないように私は静かに返事をした。

「その身なり……どこかのお嬢さまでしょうか。このような場所に忍び込むなんて反抗期にしては行き過ぎだと思いますが、後悔してももう手遅れです。恨むならご自分をお恨みください」


 男が拳銃を構えながらゆっくりと近づいてくる。素人の私では戦うことはできないが、突破口があるとすれば、利用価値のある私を今すぐに殺すつもりはないということでしょうか。だけど、生きてさえいれば何をされても──そう考えられるほど私は強くない。つまり、突破口はない。私はうつむくしかできなかった。


「懸命な判断です」


 男の影が視界に入る。しかし、その影が唐突に傾いた。


「死ぬのは、てめぇだ!」私よりも小さな体の女の子が大の大人を突き飛ばした。


 肩で息をして体の重心も安定していない彼女は余裕のない血走った瞳をしていた。彼女は弾を抜いた拳銃を男の口の中に突き返す。細く尖った物をためらいなく男の喉と、それからこめかみにも突き刺した。男はぴくりとも動かなくなった。

 彼女の衣服には血が至る所についていた。それが返り血なのか自身の血なのかは判断できない。だけど、現在進行形でストッキングの赤い染みだけが広がり続けている。これは紛れもなく彼女自身の血だと分かった。


「先輩──助けに来たよ」三三さんは屈託のない笑顔で、血に染まった手を私に差し伸べた。

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