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一幕 修学旅行のしおり

「ミミはもしかしたら、変態になってしまったのかもしれない」


 悩んで悩んで、それでも答えが分からなかった疑問をミミは打ち明ける。

 それは夏休みが明けて久しぶりの、千鶴さんによるカウンセリングでのことだった。


 見慣れた保健室にミミたち二人以外は誰もいない。だけど、ドアの鍵をかけるのは逆に不自然ということで締まってもいない。

 これまた見慣れたカルテを抱える千鶴さんが、いつも通り疑問を解消してくれると期待してのカミングアウトだったのに、その答えはミミが期待したものとはまるっきり違うものであった。


「ほぅ……。まあ、安心してください。それは元々だと思いますので」

「元々ってなんで。ミミがあいつと同類だなんて、そんなわけがないだろ」


 おっぱい星人こと朱雀院アイラと同じ変態だなんて絶対にあってはならない。


「あいつ……というのが誰を指すのか少し気になるところですが、それは置いといて。えーと、三三さんはどうしてそう思ったのですか?」

「……されて嬉しかったから」

「何をされたのですか? あっ、いえ。何を、誰に(・・)されて嬉しかったのですか?」

「凪々藻先輩が命令してくれたとき」

「命令って、もしかしなくても別荘にお邪魔した時の話ですよね」


 もちろん、誘拐された明美と幸子を助けに行くように言われた時の話だ。説明しなくても正しく認識してくれる千鶴さんにこくんと小さくうなずいた。


「うんうん。いやぁ〜、嬉しいやねぇ〜。先生、泣けてきちゃいました」


 千鶴さんは笑いながら袖を目頭に当てる。

 どうして馬鹿にされなくちゃいけないのか。ちっとも面白くなかった。


「いや、馬鹿にしてるわけではありませんよ。三三さんのその感情が、とても喜ばしいのです」

「意味がわからない」

「結論を先に言いますと、三三さんのそれは変なんかじゃありません。むしろ、当たり前の感情と言えます」


 この世界は変態こそが基準であるということか。それは知らなかった。


「一人で納得した顔をしていますがおそらく違いますからね……。話を続けると、三三さんは仕事で命令されたとき、少なくとも嬉しいなんて思わない。ですが、凪々藻さんにお願いされるのは嬉しい。その違いは何なんだろうと疑問に思っているわけです」

「そう、それ」

「その違いは簡単です。相手が好きだからです。好きな人に頼られる。必要だと思われる。それはつまり、その人が三三さんを代わりの利かない個であると認識してくれている──かは実際のところ分かりませんが、ミミさん自身はそう思われてると感じるからです」


 ただし、好きな人からの命令が無条件で嬉しいというわけではないらしい。


 やりたくないなら、やらなくてもいいけど──頼み事の最後にこう付ければ、代わりの利かない個ではなくただの人数合わせに思えてくる。

 何でもかんでも頼まれれば、いいように利用されているだけに思えてしまう。


 些細なことで感じ方が変わってしまうのは感情の面倒臭いところだと千鶴さんは付け加えた。


「ふーん。なんとなく理解した。でも、それなら何でさっきミミのこと馬鹿にしたわけ」

「だから馬鹿にしたわけではありませんって。先生は三三さんがまた一つ“当たり前”を経験できたことが嬉しいのです」


 それがこの人にとってどんな得があるのだろうか。

 無言で考え出すミミに千鶴さんは付け加える。


「学校に通うことを提案した責任とでも思ってください」

「責任感があって大変よろしい」


 ミミの返答に千鶴さんは笑う。


 そういえば、学校に通うことになったのは千鶴さんに勧められたからだったなと思い出す。


 学校なんてこれまで、ほとんど通ったことがなかった。

 小学校、中学校と籍だけはあったけど、中学に至っては一回も登校した記憶がない。なんなら去年の春に入学したばかりだから卒業すらしていない。


 色々と偽装しているわけだけど、何を隠そうミミはクラスのみんなより少なくとも二つ年下なのである。


 この高校に通っているのは言わば褒美だった。

 組織の実働部隊として優秀なミミは超絶難しい任務を単独で成功させ報酬を手にした。


 その内容は望むものなら何でも与えられるという権利である。

 何でもとか言っておきながら、ルールがガチガチに縛られているんだけど。


 例えば組織を抜けたいとか、遊んで暮らせるほどの金がほしいとかは無理だ。


 お金くらいしか思いつかなかったミミはつまり、受理してくれる希望を一つも挙げることができなかった。


 そんなミミに提案したのがオペレーターの千鶴さんだった。


 学校に通いたい。


 提出期限ギリギリの用紙にそう書いたのは、何も書かないのがもったいないと思ったからに過ぎなかった。


 どうして中学ではなく高校、しかもこの貴族が通う高校が選ばれたのかといえば、組織的に何かが動いてるから利用しやすいというわけだ。それに学力的にも問題ない。


 少なくともミミがこの学校に通う理由はそれだけである。

 ミミたちの正体を知ってしまった凪々藻先輩がどんな想像を膨らませているのかは分からないけど、ミミ自身にもったいぶるほどの秘密は隠されていない。組織の事情というのだってミミが知る由もなかった。






 カウンセリングを終えて保健室を後にしたミミは、足音を立てず気配を消して廊下を歩いていた。癖ないし職業病というやつである。


「あっ! そういえば引っ越ししたいって話するの忘れてた」


 保健室に引き返そうかと悩んだけど、一瞬で面倒臭さが上回る。この話を千鶴さんにするのはまた今度にしよう。


 何一つ私物がなかったミミの狭い家は今、洋服やコスメで溢れかえっている。使い道がなくて溜まっていた貯金を散財して買い漁った結果である。


 正直、こんなにも欲にまみれるなんて、少し前のミミは想像もしなかっただろう。だけど、これは少しでも可愛くなって凪々藻先輩に振り向いてもらうために必要なことだ。


 考え事をしていても、前方から誰かが歩いてくるのに気づかないミミではない。


 足音からして、これは凪々藻先輩のものではないだろう。どうして分かるのかって、ミミは足音を聞いてそれが先輩のものか判断するのには自信があるのだ。


 しかし、ミミの判断は誤っていた。前から歩いてくるのは紛れもなく愛しの先輩だったのである。


「あっ……」


 ミミは声かけようとするけど、それをためらってしまった。

 先輩がいつもの先輩ではなかったからである。このミミをちゅうちょさせるほどに。


 普段の先輩が白と黒のコントラストだとすれば、今は黒がほとんどを占めている感じだろうか。

 人前では凛としている先輩だけど、本当は誰よりも繊細で陰を隠し持ってることは知っている。その陰を今の先輩は隠す余裕すら持っていなかった。


 先輩はミミを無視してすぐ横を通り過ぎて行く。

 気配を隠していたせいで、先輩はミミに見られていることに気づいてすらいなかった。


 だけど、ミミは先輩のことを認識している。ということは、ミミの方から声をかけなければミミが先輩を無視したことになってしまうのではないだろうか。


 先輩の後ろ姿に手を伸ばす。だけど、名前を呼ぶことがどういうわけかできない。


 何がミミの行動を阻害しているのだろう。少なくとも分かるのは、さっきとは原因が異なるということ。先輩のいつもと違う雰囲気に気圧されたわけではない。


 結局、伸ばされた手が何かを掴むことはなかった。






 次の日、使われていない暗室におっぱい星人を緊急招集させた。


「呼ばれた理由は分かるな」

「ええ、もちろんですわ」

「それじゃ、言ってみろ」

「最近ご無沙汰でしたので、何か新しいことをしていただけるのではありませんか」

「……全く違う。そもそも、最近のお前は変態行為にかまけて何一つ成果を上げてないだろ。それで、どうして褒美を貰えると思う」

「な……何も言い返せませんわ……」

「そろそろ本題に入るぞ。凪々藻先輩の様子が最近おかしいんだけど、何か知ってることがあれば教えろ」

「凪々藻さんがおかしい……ですって? わたくしにはいつも通りに見えましたわ」

「何も知らないのかよ。使えねぇな。それならもう用はない。教室で何か気づいたことがあれば報告しろよ」

「わ、分かりましたわ……」

「なんだ、その物欲しそうな目は。報酬の前払いなんてあるわけないだろ」


 隙あらば服を脱ごうとするおっぱい星人を放置して、ミミは暗室を後にした。






「先輩の様子がおかしいんだけど、お前らは何か心当たりある?」


 同じ質問を明美たちにもしてみる。

 おっぱい星人よりも遥かに常識のある二人の方が、直接的な解答は得られないまでも、答えに近づく道標を示してくれる可能性が高いと踏んだからだ。


「心当たりはありませんね。ちなみに、具体的にはどのようにおかしかったのですか?」


 幸子がスマホから顔を上げた。


「具体的には無視された。廊下で暗い表情の先輩が前から歩いてきたんだけど、ミミがいることに気づかないで、そのまま通り過ぎて行った」

「単純に体調が悪かったのではないですか?」

「というか、本当に気づかなかったんじゃないの。みーみ、いつの間に後ろ来たんだって時あるし」と明美が別の意見を述べる。

「確かに気づかれないようにやり過ごすくらいならできるけど、認知されずに真横を通り過ぎるのは流石に無理」

「じゃあ、やっぱ体調悪かったんだし」

「……うまく言えないけど、それは何か違う気がする。ミミの分析に基づく勘はよく当たるんだから」

「三三さんがそこまで言うなら体調不良の線はなさそうですね」

「だから、そう言ったじゃん。例えば……近い内に何か起こるとか、思いつくことがあれば何でもいいんだ」

「それなら二年生は今度、修学旅行があるそうですよ」

「修学旅行! それって先輩と一緒に旅行できる行事のやつだ!」

「いえ。二年生だけですので、僕たちには関係ありませんよ」

「なにそれ。意味が分からない。……いや、待てよ」


 凪々藻先輩の様子がおかしい理由が分かったかもしれない。


「何か分かった感じ?」と明美が言う。

「よくぞ聞いてくれた。先輩が落ち込んでる理由が分かった。修学旅行に行ってる間、ミミと会えなくなることが寂しいからに間違いない」

「いや、それは絶対に違うし! だって、夏休み別荘にお邪魔してから会ってないでしょ。その期間の方が長いじゃん」

「あ?」

「こ、怖い顔しないで。いや、みーみの言うことを否定してるんじゃないよ。それも気分が沈む理由の一つかもしれないけど、もっと大きな別の要因があるんじゃないかなって思っただけだし」


 明美の言うことも一理ある。だけど、それなら正解は何だっていうんだ。別の要因なんて一つも思い浮かばない。


「というかさ。先輩本人に聞けばいいじゃん。みーみならその方が効率的って考えそうだし」

「それは……」


 言われてみれば、どうしてだろう。本人を尋ねずおっぱい星人やこの二人に相談して、及び腰になって外堀から埋めようとしていた。


 ミミは何かを恐れている? それはなんだ。


「あっ、ごめん。まあ、みーみだって本人には流石に聞けないよね」


 考え込むミミに明美が謝る。その口振りは正体不明の感情を知っているように聞こえた。しかも、それがさも当たり前であるかのように。

 ミミは何も言っていないのに、どういうことなんだ。


「なんで聞けない? ミミは何かを恐れてる気がする。それはなんだ?」

「そんなの、だって好きな人に無視されるのはショックじゃん……えっと、つまり……」


 説明に詰まる明美に代わって幸子がミミの疑問に答える。


「また無視される可能性を恐れているのではないですか」

「そう、それ! 嫌われたんじゃないかって思っちゃうと、なんでもないはずの一歩がメッチャ重くなるし」


 それだ……。ミミは自分が先輩に嫌われてしまった可能性を恐れているんだ。もう一度無視されてしまうことが怖いんだ。


「……」


 一つの感情にミミの意思が支配されるなんてことがあるなんて。

 仕事でも全く恐怖を抱かないということはない。だけど、それが程よい緊張感を生み、常に冷静な判断をするための安定剤となっていた。

 そのバランスが崩れるのは由々しき事態なように思えるが、二人の口振りからすると当たり前なのだろうか。

 仮にだけど既に嫌われてるとする。そうなれば声をかけるかどうかで結果が変わるわけではない。つまるところ、声をかけられず立ち止まったことは全くもって合理的ではない。


「ほら。ウチのみーみ、もうマジ可愛いでしょ」


 明美が分かり切ったことを言って、馴れ馴れしく頬擦りを仕掛けてくる。


「や、やめろ!」

「物怖じしないでアタックしまくってたみーみが、こんなにしおらしくなっちゃうなんて」

「だから、やめろって言ってるだろ!」

「仕方ないにゃ〜。まあ、でも……大丈夫だし。みーみが嫌われてるなんてありえないでしょ」

「ふん。そんなの言われなくても分かってる」


 分かってるんだ。物怖じする必要も、遠慮する必要もない。凪々藻先輩から直接原因を確かめてやる。それが何よりも合理的だ。


 ミミは早速、行動を開始することにした。


「さっちん、さっきの見た? 今までだったら抱きついたら即行で殴られてたのに、あたしから離れるまで何も抵抗されなかったし」


 この後二人がどんな会話をしたのか、教室を後にしたミミは知る由もない。






 結論から先に話すと、ミミは凪々藻先輩に直接話を聞くことができなかった。


 先輩を前にして足踏みしたわけではない。二度も怖気づくなんてミミにはありえない。


 話すことができなかったのは、会うことすら叶わなかったのは、先輩がミミのことを避けたからだった。


 先輩のいる教室まで行っても先輩は不在だった。トイレの個室に入っていくのを尾行しても、個室の中にいたのはおっぱい星人だった。

 その行動は明らかにミミと接触するのを避けているものである。


 ミミの追跡をことごとくかいくぐるなんて、流石は先輩という他ない。これでもミミはこの道のプロであるのだ。


 いよいよ本当に嫌われてしまった可能性が濃厚になってくる。

 だけど、嫌われたのなら何度だってまた仲良くなればいいだけだ。


 惨敗を喫したミミは先輩との接触を諦めていた。諦めたというより、中断していたという方が正しいだろうか。


 手段を選ばなければ先輩に会うことなんて容易だろう。だけど、それは本質を見誤った行動だ。なぜなら、会うことが目的ではないからである。


 身を引いて数日が経ち、いよいよ二年生の修学旅行の日がやってくる。一年生のミミにはもちろん無関係な行事だ。

 つまり、凪々藻先輩はミミがいないと考えて油断する。それを利用しない手はない。


 ミミはこの修学旅行に勝手に着いていくことに決めていて、ここ数日はその下調べを行っていたのである。

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