四幕 バトンは繋がっていく
「はぁ……はぁ……やっと……学校に着いた……」
任務から解放されたミミはタクシーと電車を乗り継いで、そして最後は全力疾走で学校までやって来た。
深呼吸を一つ、けれど心臓が悲鳴を上げるテンポは落ち着かない。
普段ならこのくらいで息切れすることはないから、多分タイムリミットが近いのかもしれない。
「時間は……っと。うん、予定通りならまだ終わってないはず」
体育祭の閉会式にはまだ少しだけ余裕がある。スケジュールが前倒しになってるならその限りではないけど、まだ一つか二つは種目が残っているはず。
でも、学校に着いてまず先にしなきゃいけないことがある。何日も着る破目になってしまった汚い格好で凪々藻先輩に会うわけにはいかないのだから。
体操着に着替える必要があるし、保健室に向かおう。あそこなら予備の服があることをミミは熟知している。洗濯物が増えるのも面倒で、普段から体育の度に借りているのだ。
ちゃちゃっと着替えを済ませて校庭に出ると、この学校にはこんなに生徒がいるんだと感想を抱くほどの人たちが集まっていた。
全校集会なんて今時リモートだし、入学式もサボったから知らなかった。
「知ってる人はどこにいるかな」
まずは状況を把握する必要がある。そのためには誰かに聞くのが手っ取り早い。ミミが今までいなかったことを把握している人間の方が説明の手間が省けるから尚いい。
「あっ、みーみじゃん! あの人が言ってた通り本当にいる!」
動きやすい体操着を着ておいて運動には不要な装飾品で着飾っている茶髪のギャルが人混みとは逆の方から来て、気安く話しかけてくる。
「モブ子、丁度いいところにいた」
「いや……自分で言うのもアレだけどさ。あたしはモブ美の方だし。メッチャ久しぶりだからって忘れないでよ」
「それより、今は競技どこまで進んでるの」
「えっと、今は短い休憩時間で、次が大トリのクラス対抗リレーだし」
「分かった」
クラス対抗リレーというのは最後に行う種目であると把握している。つまり、残された種目はたった一つしかない。
そして、言うまでもなくミミはリレーの選手なんかじゃない。
だけど、それを言うなら何のために帰ってきたんだって話だ。
参加予定の種目なんて一つだってない。体育祭の参加者リストの中にミミの名前はないのだから。
競技に無理矢理にでも参加するのは簡単だ。同じチームの参加者を怪我させればいい。
でも、そこまでして体育祭に参加して意味があるのだろうか。というよりも、それをして先輩はどんな風に思うのだろうか。
自分の行いが相手にどう映るのかを考えるというのは、ミミにとって新鮮な行動選択の手段だったように思う。
「そのリレーには凪々藻先輩、出る?」
「学年違うし、知ってるわけないじゃん。いや……ちょっと待って。あの人、そういえば出るって言ってたかも」
それなら参加することは諦めて、先輩が懸命に走るその勇姿を目に焼き付けることにしよう。
スポーツブラのせいでおっぱいが踊るようなことにはならなそうなのが残念だけど。
「明美、お待たせしま……三三さん。帰っていらしたのですね。あの方の言っていた通りです」
メガネをかけた影の薄い地味な女が駆け寄ってくる。
「さっちん、そうなのよ。今しがた帰ってきたみたい」
「さっきからあの方とかあの人とか、誰のことを言ってるわけ。千鶴さんのこと?」
「いいえ、三星先輩のことです。今日の午前中、三星先輩が僕たちを訪ねてきました」
「近くで見たらメッチャ綺麗だったよね。あたしたちのことなんて知らないはずなのに、マジで驚いたし」
「それで、先輩はなんて言った」
「三三さんは必ず帰ってくるので、待っててあげて下さいって」
その言葉を聞いた途端、ミミは居ても立っても居られなくなって駆け出していた。
「嬉しい……」
きっと今、ミミの顔は真っ赤になっているに違いない。
リレーの参加者が集まるグラウンドの中央を目指しながら、顔に集まった熱に風を当てて冷まそうとした。
凪々藻先輩の姿を発見したミミは助走をつけて先輩の胸に飛び込んだ。
「せんぱぁぁぁあああい! 帰ってきたよ」
「三三さん!」
「ねえ、ミミもこのリレーに参加したい」
「分かりました。そう仰られると思って準備していました」
先輩はそう言って見知らぬ女生徒の所へ向かうと、少しだけ話をして連れてきた。
「誰? この人」
「リレー参加者の桐谷さんです」
「初めまして、桐谷です。三星さんにお願いされたし、君とメンバー交代するのは構わないんだけど……えーと」
「言いたい事があるなら躊躇わずに言って」
「初対面でこう言うのはよくないけど……本当に足速いの?」
桐谷の視線の動きから言いたいことは分かった。ミミの身長のことを言っているのだろう。
確かにクラスで背の順に並ぶことがもしあれば、ミミは間違いなく先頭になる。手足だってそこまで長くない。
「確実にこの中の誰よりも速いよ」
「でも、肩で呼吸して既に息上がってるよね」
「このくらいハンデにもならないね」
「……分かった。そこまで言うなら交代してあげる。でも、絶対に勝ってよ。リレーで一番になれば優勝できるかもしれないんだから」
「他の人が足引っ張るかもしれないから、それは確約できない。でも、ミミのおかげで勝てることはあっても、ミミのせいで負けることはない」
「陸上部に所属している身として、その自信はちょっと羨ましいわね。それじゃあ、よろしく」
その女は腕に巻いた白色の鉢巻を外してミミに手渡してくる。
これはクラス毎のチームを区別するためのもので、みんなが身につけている。さっき会ったモブたちも白の鉢巻を持っていた。
体操着には着替えたけど、これは保健室になかったから、確かに今のままではミミが先輩と同じ白のチームであることが分からない。
ということで、ミミはその鉢巻を腕に巻きつけた。
それと、これは後で知った話だけど、凪々藻先輩はミミのために頭を下げてリレーのメンバーにミミを加えてくれていたらしい。
そして、そこに元々加わるはずだった生徒が桐谷というわけだ。
程なくして、クラス対抗リレーが開始された。
ミミは四番目の走者で、先輩は五番目の走者だった。
つまり、先輩にバトンを渡すのはミミの役目であるということ。それだけで、このリレーに参加してよかったと思える。
ミミは三番目の走者を待つためのスタートラインで待機する。しかし、他のチームの奴らはほぼ同じタイミングで先に行ってしまうのに、ミミだけが取り残される。
ようやく前の走者が来たかと思えば、その女は涙目で体操着も土で汚れていた。
膝の擦り傷から察するに途中で転んだのだろう。
応援する凪々藻先輩のことしか見てなかったから、その滑稽なシーンを全く見ていなかった。
ミミは泣き顔の女から無表情でバトンを受け取って駆け出した。
ミミの先を走る集団との距離がみるみる縮まっていく。
そして、あっという間に追い抜いて、ミミは先輩の待つ場所を目指して更にピッチを上げた。
先輩が片手を後ろに出してゆっくりと走り出す。ミミはその手にバトンを繋いだ。
その時、ミミの心は何を思ったのだろうか。自分でもよく分からなかった。
走り終えたミミはレーンから抜けると途端に力が入らなくなる。意識もまた朦朧としていった。
気を失う直前に思ったのは、先輩の走る姿をこの目で見られないのは残念だということだ。
そして、ミミの機械仕掛けの心臓は停止した。
目を覚ますと、そこは見慣れた学校の保健室だった。千鶴さんがパソコンに向かって真剣に作業をしている。
「ミミはどれくらい寝てた?」
「三三さん……おはようございます。数時間という所です。既に夕方は過ぎていますが」
「じゃあ、もう帰っていいの?」
「まだダメです。まずは体の方に問題はないですか?」
ベッドから降りて体を一通り動かしてみるけど特に異常はなかった。
「この通り問題なし」
「心臓の充電が尽きかけた状態で動くのはやめてください。今回は先生が近くにいたからよかったものの」
「ごめんなさい……」
普段通りなら心臓の充電は一ヶ月くらい持続する。だけど、仕事の時に消耗の激しい機能を使ったせいで、学校に着いた時にはもうバッテリーが尽きかけていた。
リレーの途中で切れなくてよかったけど。
「それで、もう帰っていいの」
「残念ながらダメです。というより、逃げようとしても無駄ですよ」
「ちぇー、バレたか」
仕事を早く終わらせるために命令違反したのだから、何かしらの処分を下されるはず。
せっかく凪々藻先輩との仲が進展しているのだから、今処分されるのは非常に困る。
「こちらの端末をどうぞ」
千鶴さんにタブレットを渡される。
「貰っていいの?」
「機能削られてるから、貰っても使えませんよ」
「じゃあ、いらない」
「今から使用するんだから突き返しちゃいけません。先生は席を外してるので、そのまま待機していてください」
「分かった」
千鶴さんは生徒が誰も入ってこないように、入り口で待機するのだろう。
ベッドでダラけながら待っていると、タブレットの画面が勝手に付いて、知らないオッサンの顔が映し出される。
「オッサン誰?」
「詮索は不要。33……君のオペレーターの上司だとでも思え」
「それでミミは処分されるわけ?」
「君がまた命令違反を犯すというなら次はない。しかし、私は君の能力を非常に買っている。今回の違反は不測の事態に陥ったことで処理してあげよう」
「……ありがとうございます」
「…………」
「……あれ。もう終わり?」
「連絡は以上。これからも期待以上の働きを頼むよNo.33」
そう言って、ハゲてるかは分からないオッサンは画面から消えてしまう。
「千鶴さん。連絡終わったー」
「はいはい」
保健室の入り口に向かって呼びかけると、すぐさま戻ってきた。
「思ったよりもあっという間だねぇ。何を言われたのかな」
「特には何も。次はないぞって脅されただけ」
「それは良かった。これでも先生、何日も連絡取れなくてすごく心配したんですよ」
「あの程度でミミはやられないから心配ご無用」
「そうかもしれないけど……そういうことではないわねぇ。今日は疲れただろうし、ゆっくりお休み」
「うん。それじゃあまた」
ミミは保健室を後にした。
千鶴さんの言った通り、流石のミミも今日は疲れた。帰ったら何もしないでそのまま寝てしまいたい気分だった。
校門に近づいた所で良い香りが鼻をかすめる。正しくは嗅覚とは別の直感が働いたのかもしれないけど、すぐ近くに凪々藻先輩がいるような気がした。
「三三さん、お疲れさまです」
「うわぁ、本当に先輩いた。お疲れさま」
「今はまずかったですか? それなら今度にしますが」
「ううん、なんか先輩が近くにいる気がしただけ。そこのベンチに座ってお喋りしよう」
先輩はベンチの上にハンカチを二枚並べて片方の上に腰掛ける。
先輩が敷いてくれたハンカチをお尻で潰すのはもったいない思いもあったけれど、ミミも先輩に習うことにした。
「お体の方はもう平気なのですか? 心臓が止まってたかもしれないと桐谷さんが心配していたので」
「確かに止まったけど、この通り生きてるから大丈夫。前にミミの心臓のことを話したでしょ」
「人口の心臓が入っているという話ですよね」
「そう。そのバッテリーが切れちゃった。普段ならそんなことにはならないけど、仕事でちょっと無茶をしたせい。でも、充電したからもう平気」
「……」
凪々藻先輩は何も言わずにミミの小柄な体を抱き寄せる。
今の態勢だと先輩に顔を見られないことをいいことに、ミミの表情はもう緩み切っている。ヨダレも垂れそうになった。
「せんぱーい、結局リレーはどうなったの」
「ミミさんのお陰で勝つことが出来ましたよ。総合優勝もわたしたちの白組が取りました」
「やったねー」
「ミミさんにはお礼をしなくちゃいけませんね」
「何でもいいのー」
「何でもというわけにはいきませんが、可能な範囲でなら」
千鶴さんが前に考えてくれた、先輩と恋仲になるためのロードマップを頭の中で広げる。
その地図が示す体育祭の先は夏休みとなっていた。
「期末テストが終わったら夏休みがあるでしょ。そのどこか空いてる日に、先輩と二人でどこかに旅行したいなー」
「分かりました。わたしの方で予定を立てておきます」
「うん。楽しみに待ってる」
先輩にプライベートの約束を取り付けることができたとなれば、体育祭で親しくなる作戦は大成功という他ない。
自宅に帰って初めて、その実感が湧いてきた。幸せすぎて疲れなんて吹っ飛んでしまう。
帰ったらすぐに寝ようと思ってたけど、興奮し過ぎて寝れるわけがない。こうして、オナニー三昧の長い夜が始まったのだった。
第三章 完




