一幕 初恋はビンタから始まった
──パシンッ!
ミミの頬を叩く乾いた音が四階の廊下を突き抜けた後、この世界が一瞬だけ時間を止めてしまったかのように静寂が校舎を支配した。
「えっ……?」
叩かれたことに驚いたのではなかった。
正直に言えば避けることだってできた。ましてや、もっとずっと痛い教育の数々をこの身に受けてきたミミにとって、こんなのは屁でもない痛みだった。
それなら、どうして驚いたのか。それはミミの頬を叩いたその人が理由の分からない涙を流していたからである。
彼女の持つ美しさは、この世のものとは到底思えなかった。
他のどんな芸術にも劣ることは決してない。どんなに高価な物でさえ隣に並べれば、それがくすんで見えてしまうことだろう。
「あなたのやったことは決して許されないことです」
手を出した直後に発せられる言葉には感情が分かりやすく表に出るものである。
だけど、彼女の美しい声色には理性があった。
それなら、彼女は何を思ってミミの頬を叩いたのだろうか。
目の前にいる彼女の姿を眺めながら、それを考えてみる。
ただし、決して視線を動かさないように気をつけながら。
開け放たれた窓から流れる風が彼女の純白の長髪をなびかせる。
ミミのことを射抜くように見詰めるその真紅の瞳は、蛍光灯の光を猫の目のように反射して輝いて見えた。
あり得ないほど整った顔立ちの上を一雫の涙が流れ落ちる。
髪も瞳も涙さえも、その全てが宝石のようだった。正直、宝石程度の美しさでは例えとして圧倒的に力不足だけど、ミミにはこれ以上に適切な表現が思いつかなかった。
あまりの美しさに思わず視線を逸らしそうになってしまう。
だけど、それは絶対にやってはいけない。
お互いに目と目を見て対峙している状況で先に目を背けるのは、ミミにとって負けを認めたのと同じであるから。
彼女の表情から感情をくもうと試みる。悲しそうな顔をしていた。だけど、それだけじゃない気もした。彼女の胸の内を知ることはちっとも叶わなかった。
彼女の行動原理は何なのか。一つだけ分かったことがある。
それはミミのこれまでの経験の中に、類似するものが一つもないということだ。
──ドクンッ!
その瞬間、心臓が破裂しそうなほど強く脈打つのを感じた。
この気持ちは一体何なのだろう……。
胸がぽかぽかと温かいような。それでいて苦しいような。
飴と鞭が交互にやってくるのではなくて、同時に押し寄せる感覚だった。
子宮の辺りがキュッと締め付けられるような感覚もある。
実は初潮すら来ていないミミには実際のところよく分からないんだけど。
この人に触れてみたい──これだけはミミにも理解できた。
ミミの頬を叩いた彼女の手の甲に触れようと手を伸ばす。
そして、指先が軽く触れた瞬間、そこを起点に電気が体を包み込むように流れる感覚があった。
ミミは鳥肌を立たせながら息を呑んでいた。
なにこれ。すごい。とにかくすごい。
言葉に表せない思いが、胸の中で張り裂けそうなほど溢れてくる。
彼女が目の前で何かを話しているけど、鼓動の音があまりにもうるさくて、一つも聞き取ることができなかった。
「ごめんなさい……」
興奮さめやらぬ中でやっと聞き取れたのは、彼女がこの場から立ち去る直前に発した謝罪の言葉だった。
「凪々藻先輩……」
一人取り残されたミミは叩かれた頬を愛おしく触りながら、彼女の名前を静かにこぼした。
草葉 三三の初恋はビンタから始まったのである。
凪々藻先輩との直接の面識はこれまで一度もなかった。だけど、学校一の有名人であるから、少なくともミミは一方的に知っていた。
学年はミミの一つ上の二年生で、名前は三星 凪々藻という。
学力は学年トップ、掛け持ちで所属している部活動でも数々の優秀な成績を収めている。文武両道を地で行く人だと聞いた。
そして、あの圧倒的な美しさを兼ね備えるのだから、まさに才色兼備と言う他ない。
極め付けに親は三星財閥という、この国でその名を知らない人はいないであろう巨大財閥の会長だ。
いわば、親ガチャで正真正銘の最高レアリティを引き当てたというわけだ。
不思議なことに、そこまで行けば誰も嫉妬の感情すら湧かないらしい。学校柄も関係しているのかも知れないけど。
とにかく、人当たりもよく飾らない性格から、男女問わず人気の高い存在である。
「よっこらせっと」
先輩が来る前に校舎の下を覗くため開けた窓から、ミミは身を乗り出した。
この窓から飛び出せば、今なら空だって飛べる気がする。
気がするだけなのは分かっているけど、とにかく体がうずうずしてじっとしていられないのだった。
入学式の時点ではまだミミの髪色のように可憐な色の花を付けていた桜の木が、すっかり色褪せてしまっていた。
高校という神聖な場所を警官の格好をした穢らわしい大人たちが荒らしているのが見える。
そして、学校の敷地内から出発した救急車がサイレンを鳴らして遠ざかっていった。
下に集まっていた生徒たちが解散していくのが見える。
その野次馬たちの表情を一つ一つ観察すると、おおむねは気分が優れないみたいに顔を歪ませていた。
少なくとも笑っている生徒は一人もいない。
それもそうだろう。生徒が一人、身近な場所で飛び降り自殺を図ったのだから。
救急車で運ばれたのを見るにまだ息はあるのかもしれないけど、ハッキリ言ってまず助からないだろう。
身近で起きた死を冒涜するかのように笑える奴が仮にいるとするならば、そいつの脳みそはどうしようもなく狂っている。
ミミはコンクリートに広がる赤黒い血をこの場から覗き込んだ。
桜とはほど遠い色の花ではあるけど、とても綺麗だった。
死というのは一瞬で、だからこそ美しいのである。
それはたった一瞬の季節で人々を魅了する桜の木と同じこと。
血飛沫はいわば花の開花なのだ。
だけど、死や桜なんかよりもっと圧倒的に美しいものをミミは知ってしまった。
そう──凪々藻先輩である。
「なんかパンツが気持ち悪い……」
どうせこの場には誰もいないしここで確認しよう。
パンツを下ろすと、粘り気のある変な液体が少し股から滲み出ていた。
「これっておりものってやつ? それとも愛液かな」
知識がないからよく分からない。
とりあえず、保健室に行って千鶴さんに報告してこよう。
何やかんやあってミミは校長室に連れて来られる。
もちろん、隣に付き添いの保護者は誰もいない。
そして、二週間の謹慎処分が言い渡されたのであった。
なんでミミが? ハッキリ言って訳が分からない。
校長のおっさん曰く、今回の痛ましい事件と直接の因果関係は認められなかったけど、少し前にいくつかの問題行動があったからだとか。
そう言うなら問題となる行動をしたその時に罰せればいい話なのに、何で今更処分を下されなくちゃいけないのか。
でも、正直に言えば理由なんてどうでもよかった。
むしろ、初恋という未知の感情を冷静になってじっくり分析する時間が与えられたのだから。
しかし結局のところ、学校をサボれる間は仕事を入れられてしまったため、ゆっくり考える時間が与えられることはなかった。
それに謹慎期間最後の三日間は学校に登校させられていた。
一学期の中間試験を受けるためである。ただし、他の生徒と会うことはなかった。
試験は小さな部屋に生徒が一人に対して先生が一人という人件費の無駄遣い。
その先生というのがミミのクラスの副担任なんだけど、見るからにヤンキーみたいな見た目をしているのである。
こんな先生を雇うこと自体が無駄なように思えてならなかったが、つまらない先生よりはずっといい。
「ミカちゃん先生! 聞きたいことあるんだけど」
「あっ? お前にだけはその呼び方されたくねぇんだよ。それに今はテスト中だろう?」
「もう終わったし、答案用紙あげるー」
「たく、どうせ白紙だろ? ……って、お前……もしかして勉強はできるのか。で、聞きたいことってのは何だ?」
「先生の初恋の相手はどんな人だった?」
「は、初恋だぁ? そ、そうだな。ありゃ幼稚園児の時だ──」
先生は顔を赤くしながら、テレビで観た格闘家の話を始める。
「はぁ〜」
先生の思い出話を遮ってわざとらしくため息をつく。
「んだよ」
「そんなのは初恋にカウントしねぇんですよ。もしかして先生、誰かに恋したことないの〜?」
「あっ? 初恋が何かは俺が決めることだろうがよ。それに恋くらい……腐るほど……してきたつーの……」
先生は視線を泳がしながら、語尾が小さくなっていった。
「うーん、先生って処女なの……?」
「ばっ、テメェ! わ……悪いかよ……」
ヤンキーという人種は性に乱れてるのかと思ってたけど、もしかしてそんなことないのだろうか。
「お前、今ヤンキーのくせにとか思ったろ。言っとくけど、俺はヤンキーじゃねぇからな」
「え……ミカちゃん先生ってヤンキーじゃないんだ……ショック」
「何がショックだよ。まあいいけどよ。そ、それで……お前の方はどうなんだ」
「どうって、ミミは処女だよ。なんなら初潮だってまだだし」
「マジかよ……。だって、お前高校生だぞ。何かの病気とかなのか? あっ、嫌……すまん。失言だった」
「病気じゃないし気にしてないけど。千鶴さんに聞いたら稀にあるらしいし」
「そうなのか。保健の先生が言うなら間違いねぇな。まあ、何だ。……困ったことがあったら言ってくれ」
「いや、別にいい。ミカちゃん先生に恋の相談しても意味なさそうだし」
「んだゴラァ!」
テスト期間も今日で終わる。そして、来週からはやっと謹慎が解ける。
晴れて通常の登校が許されるわけだ。
それはつまり、初恋を成就させるための行動を取ることができるということ。
「よーし、待っててください。凪々藻先輩」
「いや、男じゃなくて女かよ。それに凪々藻って三星んとこのだろ。そりゃいくらなんでも釣り合わねぇよ」
「テスト中なのに、さっきからブツブツうるさいんだけど」
「答案もう出しただろ!」
人を好きになるってどういうことだろう──少女は恋というものを考えながら一歩一歩進んでいく。
こうして、少しおかしな少女の恋の挑戦が幕を開けたのだった。