アル・ブラウン 中編
ホークラム家で働くようになってしばらくは、従者の仕事はほどほどに、という話になった。
アルの生い立ちを聞いたライリーは、だから小さいのか、とりあえずもう一年成長を待とう、と言って騎士団への随行はさせなかった。
少ない荷物だけ持って、長屋の使用人部屋に引越してきた翌朝から、アルはくるくるとよく働いた。
子爵家での仕事は、毎日幾人もの客を迎え、部屋を整えて食事を出し、出される要望を叶えていた旅籠の仕事よりも、ずっと楽だった。大量の食事を作り、山のような洗濯物と格闘していた騎士団の従者時代とは、もちろん比べ物にならない。
あっという間に家の仕事を片付けてしまったアルは、女主人とその侍女を驚かせ、また大いに喜ばせた。
裏の小さな畑の様子を見てみようかと外に出た彼は、隣家から出て来た娘とばったり会った。
「……あんた誰よ。なんでライリー様の家から出てくるの?」
明るい茶色の髪をふたつに分けて編んだその娘は、大きなつり目でアルを睨んだ。
「ライリー様の従者だよ。昨日からお世話になってる」
気の強そうな少女だ。自分よりも背の低いアルを歳下と思ってのぶっきらぼうな態度なのだろうが、恐らくアルのほうが歳上だ。
あまり関わりになりたくないな、と思ってアルは作業に取り掛かった。
「従者あ? じゃあなんでライリー様について行かないのよ。そもそも、あんた今いくつ?」
この長屋に住んでいるということは、この少女の父親は隊長格以上なのだろう。あまり邪険にしてはライリーの立場が悪くなる。無視するわけにはいかなかった。
「十三。まだ従者見習いみたいなものだから」
「嘘! あたしより歳上? 分かった、ライリー様の従者になりたくてサバ読んだんでしょ。ねえ、あんた名前は? あたしはエイミー」
なんて遠慮のない女だ。アルはむっとしてエイミーを睨んだ。
「アルだよ。もういいだろう。僕は仕事がある」
「アル? アル何? アルバート? アルフレッド?」
「ただのアルだよ。そんな立派な名前じゃない」
思ったよりも大きい声で喋ってしまっていたのだろうか。ハリエットが裏口から顔を出した。
「あら。声がすると思ったら、エイミーだったのね。自己紹介はできたのかしら?」
「ハリエット様!」
エイミーがこれまでとは打って変わった高い声で、女主人の名を呼んだ。あまりの変わり身に、アルはぎょっとしてしまう。
「あとでご挨拶に伺おうと思っていたのよ。エイミー、アルと仲良くしてやってね」
「はい!」
仲良くしてもらう必要はない。アルは心の中だけで呟いた。
「アル、午後からはお勉強にしましょうね。昔弟が使っていた写本を送ってもらったのよ」
「はい、ハリエット様」
畑仕事は明日にまわそう。
羨ましそうな顔をするエイミーを視界の端に捉えながら、アルはハリエットに続いて家に入った。
彼女はきっと、美しい貴婦人のハリエットに憧れているのだろう。
だが、今はアルだけがこの家の子なのだ。無遠慮な隣人の羨望の眼差しなんか、知ったことじゃない。
アルは毎日朝起きて水を汲み、朝食の用意をしてライリーを見送ると、午前中は家の仕事をして過ごした。
すべての家事を引き受けようと思っていたのだが、子どもが働き過ぎるなと時々仕事を取り上げられた。
正直言って、ハリエットもアンナも家事をする手付きが見ていて危なっかしいのだが、ありがたく気持ちを受け取っておくことにする。
たまにハリエットが小遣いを握らせてくれて、実家に顔を出して遊んで来いと城下に出してくれた。アルはそのお金で五歳の弟が好きな菓子を少しだけ買い、残りは小さな箱に貯めておいた。
騎士になれ、と主人が言うのだから、その日のために資金を少しずつ貯めておくのだ。
ライリーが休暇の日には、アルに稽古を付けてくれた。そんなときは、実家の用心棒と過ごした日々を少しだけ思い出した。
指導者がいなくても、素振りだけならひとりでもできる。
アルはライリーの教えに忠実に、毎日長屋の裏で剣を振った。
時々隣家の姉妹がそんなアルの様子を見ていたが、剣を握るアルに声をかけたり近寄ったりすることはなかった。そこらへんは騎士の娘らしくわきまえているらしい、と少しだけ感心した。
御前馬上槍試合でライリーが初勝利を飾った三日後、侍女のアンナがロブフォードに旅立った。
アルはたまに手伝いに来るティンバートン伯爵家の従僕のドットと協力して、アンナの抜けた穴を埋めようとそれまで以上に張り切って働いた。
だが、名門侯爵家の令嬢だったハリエットは長屋での生活にすっかり馴染んでしまっており、お嬢様育ちらしい我儘を言うことのないひとだった。
今は女性の事情であまり体調が良くないようだから、アルは邪魔にならないよう外で素振りをすることにした。
いくらも振らない間に、隣家から怒鳴り声が聞こえてきた。
今日、スミスは非番だったか。エイミーかケイシーか、もしくは姉妹揃って父親に雷を落とされているのかと、アルは他人事として考えた。
王宮に住む家族は、王の品位を落とさぬよう細心の注意を払い、静かに暮らす義務がある。それゆえ物の道理が分からぬ赤子は、王の子を除いて誰ひとりとして立ち入ることは許されない。これ以上大きな声になると、あまりよろしくないんじゃないかな、とは思った。
他人事だったから、アルは気にせず素振りを続けた。
隣家の裏口から勢いよく少女が飛び出てきたときには、ちらりと目を向けるだけのつもりだった。
だが、いつも勝ち気な表情を浮かべているエイミーの顔が歪んでいるのを見て、アルはひどく驚いて狼狽してしまった。
やばい目が合った、とは思ったが、慌ててホークラム家の裏口から中に逃げ込んだ。
「お、どうしたアル。素振りは終わりか」
のんびりと床を磨いていたドットが、目を丸くして問うてくる。
「や、あの、今エイミーが出てきて、なんか泣いてるみたいで」
「ああ、さっき親父さんに叱られてる声が聞こえてきたな。なんだ、それで逃げて来たのか」
「だって」
「そんな情けない顔まで主人の真似をするなよ。慰めてあげてこい、男だろ」
性別は関係ないと思う。大人はすぐに男だろ、のひと言で無理難題を押し付けてくる。男なのは自分も同じなくせに。
ドットは厨房の棚から揚げ菓子をふたつ取り出すと、適当な布と一緒にアルの手に乗せて再び裏口から追い出した。
これはアルが茶菓子用に作っておいたものだ。ドットは勝手過ぎる。
彼は幼少期のライリーを知る人物だ。子どもの頃遊び相手をしていたらしい。時々強引な主人は、ドットの影響を受けたのだろうか。
ドットに背中を強く押されたアルは仕方なくエイミーの真横まで近づくと、恐る恐るしゃがみこんで揚げ菓子と布を差し出した。
彼女は抱えた膝から顔を上げなかったので、アルは無理矢理その手のなかに、持ってきた物を押し込んだ。
「……何これ。どこを拭く布巾よ」
「さあ。ドットさんに持たされただけだから」
エイミーは嫌そうな顔でアルに布巾を突き返し、自身の袖で目元を拭った。鼻を啜り上げて、菓子をひと口齧る。
「……美味しい。これもアルが作ったの?」
「まあね」
「なんでそんなに、なんでもできるのよ。本当はあたしがライリー様のお家で働きたかったのに。あんたがいたら、ますますあたしなんか雇ってもらえないじゃない」
「それは無理だろう。君は中隊長の娘なんだから。ライリー様がうんと言うはずがない」
「分かってるわよ、そんなこと」
エイミーは残りの菓子を一気に口の中に放り込んだ。
アルは苦笑して、自分の分を食べてしまうと、一応といったふうに訊ねた。
「なんで怒られてたの?」
「……騎士団の鍛錬場は遊び場じゃないんだ、だってさ」
それはスミスが正しい。思ったが、アルは口には出さなかった。
「ライリー様を見に行ってるんだろう?」
「それが駄目なんだって。ついこの間まで、ライリー様と結婚しろって言ってたくせに」
「はあ?」
「父さんは勝手なのよ。ライリー様がハリエット様と結婚した途端、掌返してあいつに近づくなって」
それもスミスが正しい。いくら子どもとはいえ、十二にもなる娘が既婚男性に大っぴらに接近するのは世間の目が許さない。
「ふうん」
この騒がしい隣家の娘は、ライリー様信奉会なるものを友人と結成しているらしい。
アルはこの娘は馬鹿じゃなかろうかと思っていた。大半の大人も同様に生ぬるい目で見ていたが、子どものすることだと放置していた。
それでも親であるスミスはそういうわけにはいかないのだろう。なんといっても恥ずかしい。
「……別にいいじゃない。叶わないって分かってても、今だけ、ちょっとだけ、楽しむくらい」
好きなんだもん。
小さな声で、拗ねた口調で呟いた女の子が、アルの目に初めて、ほんの少しだけ可愛く見えた。
「結婚する前に言えば良かったのに。スミス中隊長に頼んでいたら、今頃は君が婚約者だったんじゃないか」
「その頃は父さんが馬鹿言ってるとしか思ってなかった」
ずいぶん勝手な言い草だ。
「ライリー様はかっこいいけどね、ハリエット様と結婚するまでは、もっとぼんやりした普通の平凡な騎士だったらしいよ」
今でもそれなりにうっかりしている主人だが、隊務に向かう姿勢は純粋に尊敬できる。アルの憧れの、目標とする騎士だ。
「何それ」
「ハリエット様のために頑張ってるんだって。君が好きになったのは、ハリエット様と結婚したライリー様だ。きっと、君と婚約したくらいじゃあ、ライリー様はあそこまで張り切ったりしないと思うよ」
頑張る必要がないからだ。
アルの率直な意見に、エイミーは不満気な顔になったが、すぐにまたため息をついた。
「……まあ、そうでしょうよ。ハリエット様と張り合おうなんて畏れ多いこと、考えちゃいないわよ。あたしはハリエット様も大好きだもん」
「他にもかっこいい騎士はいっぱいいるよ。エベラルド小隊長なんて、男前で出世頭だ」
「そんなこと知ってるわよ。あたしが何年騎士の娘やってると思ってんの。エベラルドは駄目だ、あいつには近づくなって、父さん達が言うの。あれ、なんでなの?」
「さあ?」
アルは野営訓練の打ち上げで悪乗りしていたエベラルドを思い出した。多分、あれが理由なのだろう。気軽に女性を部屋に誘う男に娘を近づかせたくない親心は、十三の少年にも理解できる。
「まあいいけどね。お菓子をありがとう。今度作り方を教えてよ」
「分かった」