アル・ブラウン 前編
ライリーの従者の話です。
前中後編に分けました。
アル・ブラウンには実の両親の記憶がない。
育ての親の話によると、生みの母と思われる人物は旅籠の宿泊客で、幼いアルが寝ている間に姿を消したらしい。
それが故意だったのか、もしくは不慮の事故によるものだったのか、今となっては確かめる術はない。
当時結婚して五年が経過していた旅籠の跡取り夫婦には子が無く、これも天の采配だろうと置き去りにされた子を引き取って育てることにした。
母親を求めて幼子が泣く合間に名を訊くが、不明瞭な答えしか返らない。なんとか聞き取れた名の頭の部分がアル、だった。
黒い髪にどことなく異国風の顔立ちの子どもである。母親は自国民のようだったから、おそらく父親が異教の民なのだろう。名の後半部分は聞き慣れないものだったから、アルとだけ呼ぶことにした。
そのアルに歳を訊ねると、よっつ、と言った。
四歳にしては小さいが、受け答えはしっかりしていたから、まあそうなのだろうということにした。
子の無い夫婦の元に現れた親を無くした子どもは、夫婦が引き取ると決めた日を四歳の誕生日と定められた。
アルと呼ばれて元気に返事をする少年はいつまで経っても近所の同じ歳の子よりも小さいままだった。これはあのときふたつかみっつだったのを、子どもながらに見栄を張ったのかと養い親は笑った。
ともかく、アルは養い親に跡取り息子だと大事にされ、そのうち実の親の記憶を無くしてしまうほど幸せに暮らした。
夫婦に子がないことを知っている常連客がその子はどうしたと訊くと、これこれこういう訳で養子にしました、と正直に答える。
すると、そりゃあいいことをした、と善行を誉められる。
そのせいというわけでもないだろうが、アルが来てから旅籠はどんどん規模が大きくなり、目抜き通りに新館を構えるまでになった。
するとますますアルは可愛がられた。
おまえのおかげだ。可愛いアル。おまえが来てから、うちはいいことばかりだ。
幸せな暮らしは、アルが八歳のときに翳りを見せた。
実子を得ることを諦めていた養い親に、子が生まれたのだ。
最初は弟ができたと単純に喜んだアルだったが、長じるにつれて、自分の立ち位置を考えるようになった。
実子が生まれてからも両親は変わらず優しかったけれど、大きくなった店を血の繋がった我が子に継がせたいという気持ちを隠してはくれなかった。
アルは聡い子どもだった。
両親の気持ちに気づいたとき、少しは寂しかったし哀しい気もしたけれど、仕方ないか、と思った。
実の親に捨てられた子より、血を分けた我が子のほうが可愛いのは当然だ。アルはあっさりと両親の気持ちを受け入れ、それからもよく家業を手伝った。
大きくなった旅籠ブラウンでは、常時ニ、三人の用心棒を雇っていた。
そのうちのひとりは、王立騎士団を引退した元騎士だった。彼は少し足を引き摺ってはいたが、アルの知る他の誰よりも強かった。
弟が生まれて少しずつ家に居場所がなくなっていくなか、元騎士の手ほどきを受ける時間はアルの心の支えとなった。
十三歳になったら王立騎士団の従者となろう。騎士になれたなら、育ててくれた両親も喜んでくれる。
実の子が生まれて拾い子が邪魔になったのではなく、騎士になる夢を応援してやったのだと客にも説明できる。
念願叶って従者の試験に合格したアルだったが、騎士団での生活は甘いものではなかった。
体格のいい腕自慢の少年の集まりのなかでアルはひとりだけ小さく、すぐに虐めの標的にされた。
要領のいい彼は、仕事を押し付けられてもさして困りはしなかったが、集団で小突かれ、殴られるのはいただけなかった。
多勢に無勢では、元騎士の用心棒に習った武術も役に立ちはしなかった。とにかくアルは逃げ続けた。
あるときアルは逃げる方向選びに失敗して、王城に近づき過ぎてしまった。当然の結果として、警備をしていた若い騎士に足をかけられ転ばされた。
「いや、転ばして悪かったな。頑張れよ」
アルは名も知らぬ立派な騎士に同情の目で見られ、惨めな気分になった。同じ隊所属の騎士に励まされ、隊に戻されながら泣きたくなった。
彼らには、こんな気持ちは理解できないだろう。国の剣となり盾となる騎士を目指す従者でありながら、子どもの暴力に怯えて逃げまわる。そんな経験などないに違いない。
騎士団の下働きの仕事は苦にならなかった。もちろん大変なものではあったけれど、実家の旅籠でも同じようなことをしていたから、アルが仕事の要領を掴むのは早かった。
特に厨房仕事は、隊長格にも直々に声をかけられるほど喜ばれた。旅籠で客に出す料理には素材からして程遠かったが、少しでも美味しいものをと、下拵えや味付けに少しだけ工夫をしたのだ。
誉められるのは嬉しかった。
ここにいてもいい、と言われている気がした。乱暴な少年達の存在さえ我慢できれば、騎士団に自分の居場所を作れると思った。
だがその気持ちも、野営訓練の夜に脆く崩れ去った。
森での野営訓練の夜、アルは普段関わりのない騎士にこっちへ来いと手招きされ、なんの疑問も持たずについて行った。
他に人のいない天幕に入ると、背中から身体を押さえつけられた。
さいわい、とは言いたくないが、この程度のことは初めてではなかった。声変わりもしていない、少女のような顔をしているアルは、目を付けられやすかった。
自分が何をされているのか、相手がこれから何をしようとしているのか、アルにはすぐに分かった。
この感情は、怒りだろうか。目の前が赤く染まったような錯覚を覚えた。
抵抗する力を弱めると、伸し掛かっていた体重が軽くなった。
力では敵わない。従者が騎士に勝てるわけないんだ。
騎士は、未亡人や孤児、弱者を護るために在る強き者だ。
それをなんだ、こいつは。王の組織たる騎士団で、こんなことが許されていいはずがない。
従者のお仕着せの裾に手が伸びる。アルはその瞬間を逃さず、全身のバネを使って男の顎に頭突きした。実家の用心棒に仕込まれた護身術が見事に決まった。
アルはその身軽さを最大限に活かして、するりと男から離れると頭突きの成果も見ずに走り出した。
男は追って来ない。それはそうだ。闇に紛れて従者に悪戯しようとしたなんて、公にできることではない。半ば公然に行われていることなのだとしても、騒ぎになるのはまずいのだ。
もうやめよう。こんなところ、もう辞めるんだ。僕は騎士になんかなれっこない。もともと、騎士になりたかったわけではない。自分の居場所が欲しかっただけだ。
実家に帰って、血の繋がらない弟の継ぐ旅籠を手伝って生きていこう。働き者のアルを気に入ってくれている商家に婿入りしたっていい。
ああ。いっそ、生まれたのが弟じゃなくて妹だったらな。両親はきっと、養子と実子とを娶せようとしたはずだ。それですべては丸く収まった。
今更考えても詮無いことを思いながら、アルは木の根元で泣きながら丸くなった。
人がいるところに戻るのは怖いが、都会育ちのアルには夜の森も怖い。野営地の最も外側に位置していた天幕の近くで、泣き声を殺して朝を待った。
そのままうとうとしていたが、熟睡してしまう前に起こされた。
「こんなところで何してるんだ」
逃げようとしたが、若い騎士にあっさりと捕まって天幕まで荷物のように運ばれた。
恐怖がアルの全身を襲った。無我夢中で暴れると、騎士はアルから距離を取った。
彼は勝手にしろと言わんばかりな態度で、しかし穏やかな声でアルに中で寝ろと命じると、ひとりでさっさと天幕に入ってしまった。恐る恐る後に続くと、中では複数の男が束の間の休息を取っていた。
それ以上何も喋らなかった騎士の名を、今更ながらアルは思い出した。まだ一年目の新米騎士だというのに、昼間の狩りで先頭に立っていた人物だ。
ライリー・ホークラム。屈強な騎士集団の前で堂々と指揮を執る赤毛の騎士の姿は、アルの目に眩しく映った。
すごい人なのに、優しい。僕とは正反対だ。
ライリーの存在は、騎士団に入ってから日に日に強くなっていくアルの劣等感を更に刺激した。
野営訓練でのライリーの活躍は、アルに騎士に憧れていた幼い頃の気持ちを思い出させた。
ライリーはアルに優しくしてくれた。頭を撫でて誉めてくれた。
それらは同情からくる行動なのだろうと思うと、また惨めな気持ちにはなったが、それでも彼に声をかけられるのは嬉しかった。
存在感のある騎士に分かりやすく目をかけられるアルに、従者仲間の見る目が変わった。野営訓練の間は、仕事を押し付けられることも、影で小突かれることもなくなった。
一日で劇的に変わった環境は、アルから緊張感を奪った。ライリーの姿を目で追うのに夢中になって、うっかり撤退命令に従い損ねてしまい、迷惑をかけてしまったのだ。
だがそれすらもライリーはなんでもないことのように対処して、英雄のような扱いを受けて帰ってきた。
そんな彼に騎士団を辞める気はないのかと訊かれたときは、すっと現実に返ってきた心地がした。
「……他に、行くところがありませんから」
そうだ。冷静になってみれば、やっぱりやめた、などと言って今更帰れるわけがないのだ。どんなに辛くても、どれだけしんどくても、アルは騎士団で生きる道を拓かなければならない。
憧れの騎士に、おまえは向いていない、騎士団から去れと言われたのだと思って、アルはまた泣きたくなった。
だから、その後にライリーが続けた言葉はアルを驚かせ、嬉しさよりも信じられない気持ちが勝った。
こんな幸運なことがあってもいいのだろうか。
アルは朝からずっとどきどきと鳴り止まない心臓と、少ない荷物を抱えて、騎士団の官舎を後にした。
幼い子のように右手を引かれて歩くのは少し恥ずかしかったが、それ以上に大きな手の感触はアルの心を強くしてくれた。
この手が、僕に居場所を作ってくれる。この手に守られている間は、乱暴な少年達に追い回されることも、身体を撫で回されることもないのだ。
今日から誠心誠意、心からこのひとにお仕えしよう。
ライリーは、これは大人の狡い提案だ、と言った。
「アルが優秀で、今のまま騎士団に置いておくのが勿体無いと思ったから、こうして提案してる。だけどな、これがおまえの弱味に付け込んだ、狡い話だってことは俺も分かっているんだ」
騎士団の従者には、僅かではあるが給金が出る。
少年達は騎士の身の周りの世話をし、炊事洗濯掃除の一切を行う。空いた時間には騎士となるための稽古を付けてもらい、勉強もできる。それで更に小遣い程度でも給金が出るのだ。
本気で騎士を目指す気のない少年も、学校代わりに親に送り込まれることもあるくらいだ。
ところが個人の騎士に付く従者は無給であるどころか、逆に主人に礼金を支払うのが一般的だ。貴族の子弟はそうやって大事に育てられ、近衛騎士団に入団していく。
「おまえは騎士になることを諦めるべきじゃない。だけど、それだけの理由でうちに来いなんて言えないのが、我が家の現状だ。おまえの料理の腕を買いたい。周りをよく見て動けるアルに、俺の家に来て助けて欲しい」
もちろん礼金なんて必要無い。働いてもらう代わりに衣食住と教育は約束するが、給金は出せない。それでもよければ、うちに来て欲しい。
ライリーは子どものアルに、正直に誠実に説明してくれた。
騎士団で落ちこぼれた少年に声をかけてくれた理由が分かって、却って素直に喜ぶことができた。
同情などではなく、自分を必要として言ってくれるのだと知って、アルは一も二もなく首肯いた。
「俺の妻にはこの間会っただろう。彼女とアンナのことは姉さんとでも思って、なんでも言うことを聞いてくれよ」
アンナは俺の姉上でもある、怖いが悪いひとじゃない。とライリーは不安にさせるようなことを言うが、アンナのことはアルも知っていた。
騎士団の厨房を手伝ってくれた彼女は手際の悪い自分を自覚していて、歳下のアルの助言に素直に頷くようなひとだった。怖いことはないと思う。
「勉強はハリエットが見てくれる。読み書きと算術、地理は得意だと聞いてるぞ。外国語もいくらか喋れるとか」
「実家の旅籠で、必要にかられて」
「勉強はしておいたほうがいい。今回、なんで他の先輩騎士を差し置いて俺が昇格するのか、疑問だったんだけどな」
伯爵令息なのだから優遇されるのは当然だと考えないあたりが、このひとらしい。
アルは黙って主人を見上げた。
「計算ができないといけないらしい。格上の四人の敵に三人ずつ、更にふたりずつ弓矢班が必要、だから十二人と八人残れって戦闘中に指示を出せないと困るんだと聞いた」
腕は立つが、指示出しができない騎士というのは珍しくないらしい。
あっちへ行け、そっちの敵を適当に倒しとけと戦場で叫ぶ指揮官がいたら、配下が混乱するのだ。
「俺も誉められた幼少時代ではなかったが、ある程度は机に縛り付けられる時間もあったからな」
文字通り椅子に縛り付けてくれた母親に感謝すべきなのかな。とライリーがなんでもないことのように付け足した言葉は、聞こえなかったことにした。
「あの、ライリー様。僕、本当に小間使いでもいいです。貴族の方に、そんなによくしていただくわけには」
「アルは騎士になろうと思って入団したんだろう? なら諦める必要は無い。俺だって、エベラルド小隊長に何度も助けられてここまでやってきたんだ。人の手を借りて辛い時期を乗り切るのは悪いことじゃないし、恥じる必要もない」
ライリーはアルの手を引いて、家まで連れて行ってくれた。
そこには美しい貴婦人と、一見怖いが有能な侍女が待っていて、アルを温かく迎えてくれた。
今日からここが、このひと達の元が、アルの帰る場所になるのだ。