あなたと蜂蜜酒を 後編
俺のほうが楽しみにしていた。
その夜ライリーは何度も同じ場面を反芻して、なかなか寝付けずにいた。
固い床の上でしつこく寝返りを打つ主人に、アルが小声で話しかける。
「……あの、ライリー様。僕、旅籠の息子だから慣れてます。気にせずおふたりで寝台を使ってください」
「……何を言ってるんだ」
「疲れてるからもうすぐ寝ちゃいそうですし。気にしませんからどうぞお気遣いなく」
「俺が気にする」
アルは暗闇のなかで少しばかり思案顔になり、大真面目に提案した。
「僕、馬小屋で寝ましょうか」
ライリーは右手を伸ばして、アルの頬をつねり上げた。
「子どもが、そういう、気の使い方を、するな?」
先を急いだ旅路では、危惧していたような事件も事故も起きることはなかった。
二日目の宿ではハリエットは頑として足を洗われることを拒んだが、その他は初日と同じように過ごした。
そうして子爵一行は予定通り、出発から三日目の午過ぎにはホークラムの地を踏むことができた。
ライリーがホークラムを訪れるのは、従者になる前、十二歳のとき以来だ。全体的に改修された屋敷は、彼の記憶よりも小綺麗になっていた。
ティンバートンの屋敷よりもこぢんまりとしている。昔は領主である父伯爵が年に数回しか訪れていなかったせいもあり、古びた印象しかなかった屋敷だ。
元の造りがしっかりしているため、今回手を加えたのは見た目の部分だけだ。外壁を塗り直し、内装は何箇所か古くなった部品を交換したと聞いている。
情けない話ではあるが、この改修に主であるライリーはまったくと言っていいほど関わっていない。父伯爵の指示で兄のロバートが手配をし、費用はハリエットの持参金を充てた。
ライリーはたまに届く希望を訊ねる手紙に適当な返事をしただけだ。婚約成立と同時に計画が始まり、王宮内の長屋に部屋を借りて間もなくの頃に完成報告が届いた。
人任せにした新居ではあるが、これからハリエットとふたり、新しい家庭を築く家なのだと思うと胸がいっぱいになった。
ライリーはデールとモリーという管理人夫婦の案内で、寝室までハリエットを抱えるようにして連れて行った。
モリーにハリエットの世話を任せて、ライリーとアルは出掛ける準備を始める。
「ハリエットは夕食まで休んでいてください。何かあればモリーに」
「ライリーは?」
「俺はそこら辺を見てまわってきます」
結局最後まで走り続けた夫の体力が、ハリエットには信じられない。
「……特別訓練は、三日走り続けるよりも辛いものだったのですか?」
ライリーは遠い目になって虚ろな笑い方をした。
「あれをもう一回やるくらいなら、四日で王都とホークラムを走って往復しろと言われたほうがマシです」
この三日間の旅程は、ライリーにとってはだいぶ余裕のある日程だった。
今夜は疲れている妻にあまり負担をかけないようにと思うと、もう少し体力を発散させてくる必要があった。彼にとっては切実な問題である。
「アルは休んでいてもいいんだぞ? あまり無理をするなよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
短期間ではあったが、騎士団で従者として鍛えられていたアルも元気なものだった。
「じゃあ、少しそのへんを歩いてみるか。王都育ちだと、田舎は珍しいだろう」
子爵邸は森を背にして建っており、門扉から真っ直ぐに進めば村がある。デールとモリーも、普段はそこから通っているのだ。
ホークラムは緑豊かな土地だ。
キャストリカは小さな国だから、国の端から端まで行っても気候が変わることはない。標高差で動植物の生態が多少違ってくることもあるが、平地はどこも似たような植生だ。
ティンバートンもここと同じような風景だし、遠く離れたハリエットの故郷にも、ライリーのよく知る昆虫がいたという話だ。
(ハリエットがここを気に入ってくれるといい)
ライリーは、明日はハリエットと一緒に外を歩こうと心に決めた。妻に所領に愛着を持ってもらえるよう、夫として努力すべきだ。
植生と同じく、土地の子どももティンバートンと似たようなものだった。
ライリーは遠巻きにこちらを見ている少年達に手を振った。
「村の子か? こっちへおいで」
「……新しい領主さま?」
アルよりも少し小さいくらいの少年が代表しておずおずと口を開いた。
「そうだ。ライリー・ホークラムだよ。こっちは従者のアル」
「ロバート様じゃないの?」
「ロバートは兄上だ。これからは俺がここに来ることになったんだ。アル、この辺りを案内してもらって来いよ。田舎の遊びを教えてもらえばいい」
アルは不満を顔に表した。三人の少年達が全員、まだ十歳かそこらにしか見えないからだ。歳下の子に遊んでもらえとはひどいじゃないかと主人を見上げた。
「田舎を舐めるなよ。明日試験をするからな。心して遊んで来い」
「……はい」
休暇は十五日。移動に六日かかるから、滞在期間は長くても九日間だけだ。
ライリーは兄からの領地経営指南書もどきを思い出しながら歩いた。
今日はこれから全体を見て、明日からは農地の視察をして、ああそうだ、澄んだ湧き水が飲める泉はまだ枯れてないかな。蜂蜜酒を作らなくては。
用意してきた蜂蜜酒は少量だ。残りは蜂蜜のまま持って来た。あれに綺麗な水を混ぜておけば、休暇の後半には蜂蜜酒が出来上がっているはずだ。
ハリエットは酒に関しては底無しだが、普段から大量に飲むわけではない。毎晩一杯だけ飲めればいいのだ。要は気持ちの問題だ。
今夜から毎晩、蜂蜜のような髪の毛を背に流したハリエットと、蜜蠟で作られた小さな灯りの下で蜂蜜酒を飲むのだ。
(…………よし。走って来よう)
すぐに同じところに戻ってくる自分の思考に見切りをつけて、ライリーは自分の領地のなかを走りだした。
屋敷の厨房でスープの匂いが漂いはじめた頃、ライリーとアルの主従は帰ってきた。
「何をなさってきたのですか」
使用人の使う裏口から入ってきたふたりを、ハリエットは呆れ混じりに笑って出迎えた。
ふたりはずぶ濡れで、上衣をすべて脱いでしまっていた。外は気持ちのいい陽気だが、水浴びにはまだ早い季節だ。
「アル達が川で遊んでいるのを見かけて、つい」
「村の子に魚の捕り方を教えてやると言われたのですが、途中からライリー様が来てこんなことに」
ふたりはさりげなくお互いに責任をなすりつけ合った。いつの間にかアルは、ライリーの呼吸を読むのが随分と巧くなっている。
「何をなさっているのですか。すぐにお湯を用意してもらいましょう」
「大丈夫です。ついでに旅の埃も落としてきましたから。モリー、拭く物と着替えだけ頼むよ」
ハリエットは確信犯であることを自ら暴露した夫に笑うしかなかった。
「つまり、わざと水に入ってきたわけですね」
「ええ、まあ。アルは子分ができたらしいですよ」
「……喧嘩を売られただけです」
「小さい子達を守ったんだろう? 相手はアルより大きい子がふたりだったんですよ」
「同じ十三歳です。後からライリー様が現れて、恐れをなしてしまったんです」
何故彼らはこんなに自慢気なのか。ハリエットには理解できない。
「……幼い頃の弟の行動には驚かされてばかりでしたが、あなた方はそれ以上です」
「明日、一緒にやりますか」
「遠慮しておきます」
主人の不在期間が長かった屋敷が一気に賑やかになり、また美しい奥方のおかげで華やかになった。親の代から屋敷の管理を任されてきた夫婦は、新しい領主夫妻を迎えられたことを喜んだ。
その日は、ライリーとハリエットふたりで向かい合って食卓を囲んだ。
久しぶりの貴族的な晩餐である。食堂の長い卓の端と端だと寂しいと、ライリーは当主の席に座らず、ハリエットの近くまで自ら椅子を運んで座った。
前菜から始まって一品ずつ運ばれてくる料理を堪能し、ゆったりと会話を楽しんだ。
アルはこの機会に給仕の仕事の練習だ。旅籠で料理を運ぶのとは作法が違うから、他に従者を持たないライリーが直接教えてやる必要があった。
「明日から、少しずつ視察に行ってみましょうか」
「ええ。到着してすぐに休ませてもらったので、もう元気になりましたし」
なごやかな食卓に、デールが恐る恐るといったふうに現れた。
「あの、ライリー坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろ」
「……旦那様に謝罪をしたいと言っている者が来たのですが、どうしましょうか」
「どんな人物だ」
「村の親子です。息子が手の付けられない乱暴者で親も手を焼いているのですが。何故かしおらしい顔をして両親と現れました」
「ああ。また明日にでも話を聞くと言って帰してくれ」
頭を下げて退出したデールを見送って、ハリエットは本日何度目かの台詞を口にした。
「何をなさったのですか」
ライリーは肩をすくめて答えた。
「つい隊務のノリで、喧嘩の仲裁を」
いつもの喧嘩に、正規の騎士に割って入られた少年は驚いたことだろう。軽くあしらわれて驚愕したに違いない。
「初日から精力的に働かれてきたようですね」
「呆れていますか」
「驚いています。わたし、これまで頑丈なほうだと思っていたのですが、勘違いだったみたいです」
夜会に出て領地経営をして、と忙しい日々を送っていたハリエットだ。並の女性と比べると丈夫にできているのだろう。
「それはまあ、俺は体力勝負の職業ですから。……もしかして、今回は非常識な日程を組んでしまっていましたか」
「そうですね。片道五日はかかるだろう、それなら五日間しか滞在できない、とは思っていました」
三日もあれば充分だ、と考えた根拠はなんだったか。
馬だ。ついいつもの習慣で、騎士にとって最も大事にしなければならない馬の体力しか計算していなかったのだ。
ハリエットが疲れているのは分かっていた。だがそれは慣れない長距離の移動のせいであって、無理な行程が原因だとは気づかなかった。
ライリーは食事中でなければ頭を抱えたくなった。
やっぱりアンナが必要だ。彼女がいれば、暖かい陽射しなどお構い無しにライリーを凍りつかせる一瞥をくれたに違いない。
「……申し訳ありません。もっと早くに言ってくださればよかったのに」
「ちゃんと三日で着いたのですから、びっくりしました。これからも同じ日程で大丈夫ですよ。体力をつけるために、わたしもアルと一緒に鍛えてもらおうかしら」
「やってみますか?」
「どうぞお手柔らかにお願いします」
ふたりの遣り取りに、後ろに控えていたアルが笑いを堪えられなくなってしまった。
ライリーは厳しく注意しようとしたが、まあ初日くらいはいいかと、つい甘くしてしまう。
美しい妻と、育てがいのある従者、姉のような侍女がこの場にいないのは残念だが、次に来るときはきっと一緒だ。
ライリー達ホークラム一家は、これからここを帰る場所として生きていくのだ。
なかなか帰って来れないかもしれないが、確かにこの地に彼らの家があることが、目で見て実感できた。
ライリーはずっと、騎士として王都の官舎で生活し、仮に家族を持っても小さな部屋を借りて一生を過ごすものと思って生きてきた。
ハリエットと出逢って、彼の運命は変わった。
侯爵家の令嬢を迎えるならば家の縮小も止む無しと、父から子爵位を譲り受けた。本来であれば、すべて兄が継ぐべきものだった。
それで良かったのか、ライリーには今でも分からない。彼は幸せを掴んだが、継嗣としての努力を一切しないまま兄のものを奪ったという意識が無くならないのだ。
そんなライリーに今できることは、自分の所領と誠実に向き合う術を学ぶことくらいだ。
幸い、良き師となってくれる妻が、常に傍らにいてくれる。
「明日、一緒に綺麗な湧き水を汲みに行きませんか」
ライリーは燭台の灯をひとつだけ残してすべて消し、夜に相応しいささやき声でハリエットを誘った。
「そんなところがあるのですね。楽しみです」
ハリエットは手渡された蜂蜜酒を半分だけ飲んで、ライリーに杯を返した。
ライリーはひと口で残りを飲み干して、最後の灯を落とす。
「持って来た蜂蜜の半分を厨房に置いてきてしまったので、ふたりで一杯になってしまいますが。毎晩飲めるように蜂蜜酒を作っておきましょう」
「上手に作れるかしら」
「大丈夫でしょう。古代の人々も作ってきたものだ」
蜜月に飲む酒は、その名から想像されるほど甘くなかった。明日子ども達に配る菓子に使う残り半分の蜂蜜のほうが、よっぽど有効活用できたように思える。
でもやっぱり、蜜月には蜂蜜酒を飲まなくてはならないのだ。
ライリーは婚礼からの変則的だった日々を想った。
こうして蜜月を迎えられたのは、なんて幸運な奇跡だろうと思う。
これからは少しずつでも普通の夫婦に近づけるように、幸せを願う慣習に則ったことをハリエットと共にしていきたい。
いつまでもこのひとと共に在りたいと願いを込めて、ふたりは婚礼の儀式のように静かなくちづけを交わした。
考えなければいけないこと、やらなければならないことはたくさんある。
だが今はふたりの蜜月だ。
今だけはお互いのことだけを見て、お互いのことだけを想っていよう。
それがゆるされるのが蜜月だ。
「こうしてあなたと蜂蜜酒を飲める日がくるなんて、夢みたいです」