あなたと蜂蜜酒を 前編
蛇足感が怖くて本編に入れられなかった、本編直後の主人公夫婦の話です。
長くなったので前中後編とします。
御前試合の前日のことである。
槍試合の練習を終えて帰るライリーを捕まえて、エベラルドは苦々しげに告げた。
「奥方に伝えとけ。御前試合の十日後から十五日間、お約束の休暇を差し上げます、とな」
「え、あれ本気だったんですか?」
御前試合が終われば、王都に集まった貴族達が次々と領地へ帰って行くことになる。
人口が減れば治安維持が容易になり、警備の人数も少なくてすむ。
騎士団の繁忙期も終わるわけだから、順番にまとまった休みを取るのが例年の習わしだった。
と言ってもせいぜい十日程度のもので、しかもライリーは四か月前に婚礼のための休暇を取ったばかりだ。建国記念日以降は不定期の出勤だったこともあり、半月の休暇の話は酒の席での戯言で終わると思っていた。
「女に負けた上に約束も反故にした、なんて不名誉な噂を流されるわけにはいかないだろう」
「はあ」
格好悪い小隊長の姿は珍しかったな、とライリーが思い出していると、エベラルドに額を鷲掴みにされた。
「痛い痛い! 食い込んでます!」
「二度とてめえの女房とは飲まねえ」
「俺は最初から反対してましたよ!」
騒がしいふたりの横を、隊務後の騎士が笑いながら通って行く。
「気にするなよ、ライリー。エベラルドは団長命令で仕方なく言ってるだけだ」
「賭けたのはおまえだ。足りない分の五日はおまえの休暇を回してやれ、ってな」
エベラルドの休暇は五日だけになったわけだ。
それなら別にいいのか。ライリーは止めたのに、エベラルドが勝手にハリエットに乗せられたのだ。
「余計なこと言うんじゃねえ」
不機嫌なエべラルドをよそに、騎士のひとりが軽い口調でライリーを誘った。
「ライリー、特別講習が必要だろ。御前試合が終わったら、ひと晩時間作って官舎に飲みに来いよ」
「? なんの講習ですか」
「なんのって、夫人が勝ち取った休暇は、蜂蜜酒を飲んで過ごすんだろ」
「え、……あっ、え?」
怪訝な顔をしたライリーだったが、言われた言葉の意味を飲み込むとひとりで焦って赤くなった。
蜂蜜酒は婚礼後の飲み物とされている。蜂の多産にあやかる意味と、蜂蜜の強壮作用を期待しての慣習だ。
ライリーとハリエットが結婚式を挙げてから四か月が経つが、共に暮らし始めてからは二か月にもならない。しかもそのほとんどを特別訓練に費やしたために、甘い新婚生活などないも同然だった。
この休暇で、半月間の蜜月が約束されるということか。
「何今更赤くなってんだよ」
エベラルドが面倒臭そうに鼻を鳴らす。
「えっだって。そうなるんですか?」
ハリエットはライリーと蜜月を過ごす時間が欲しくて、エベラルドを煽ったのだろうか。
だとしたら嬉しい。非常に嬉しい。
「知るかよ」
「とりあえず予習は必要だろ。夫人をがっかりさせたくなかったら、先輩の言う事を聞いときなさいって」
「はいっ行きます!」
元気良く返事をしたライリーは、翌日の槍試合でなんとか一試合目を辛勝した。
彼は勝ちが決まった直後、追突の衝撃に耐えきれなくなって落馬してしまい、騎士団内に新たな笑いを提供することとなる。
御前試合の翌日は、負傷した騎士は揃って非番とされた。
落馬したライリーは仲間に担がれて裏に下げられたが、しばらく休むと何事もなかったかのように動き出した。念のため一日休んでおけと言われて、自宅で大人しくしている。
てきぱきと家内で動いているのは、従者のアルだ。つい最近、ホークラム家の一員となった。
よく働き、気の利くアルをハリエットもアンナも気に入って、すっかり馴染んでしまっている。
ライリーは朝から水汲みをしたくらいで、あとは書斎で休暇の予定を考えていた。そこに昼食の支度ができたと、アルが呼びに来る。
「ああ、ありがとう。まだ始めたばかりなんだ。あんまり張り切るなよ」
「はい。でも大丈夫です。頑張りたいです」
ライリーは健気な笑顔を見せるアルの頭を撫でた。
最近はだいぶその機会がなくなったが、少し前まで実兄やエベラルドによくこうやって頭を掻き回されていた。
末っ子のライリーには新鮮な感覚だ。多分、弟がいたらこんな感じなのだろう。
従者を持つということは、親の代わりにその教育に責任を持つということだ。
まだ十九のライリーには、親の気持ちになるのは難しい。周りにたくさんいる兄分を参考にして、アルの兄のようにその成長を見守っていこうと思う。
食堂に行くと、四人分の食事が並べられていた。騎士団式に一度にすべての料理を並べるため、給仕はあまり必要ない。
今後使用人が増えることになればまた考えなければならないだろうが、今はまだ全員で食卓を囲もうと、夫婦で話し合って決めたのだ。
「ライリー、見て。アルったらすごいのよ。食事の用意を任せたら、ほとんどひとりでこんなに」
ハリエットが興奮気味に食卓を示す。
そこには、これまで子爵家の食卓に並ぶことがなかった種類の料理が並べられていた。
(かわいい)
確かにアルの料理の腕はすごいのだが、それ以上にはしゃぐハリエットが可愛い。
「本当だ。やっぱりアルに来てもらって正解だったな」
これまでまともに家事をする機会のないまま大人になった三人に尊敬の眼差しを向けられて、アルは恐縮しながらも嬉しそうな顔をした。
「ほらアンナ、アルがいるから大丈夫よ。ライリー、ウィルが明後日にでもロブフォードに帰るそうなの。そのときにアンナも同行させてもらおうと思って。構いませんよね?」
「ええ、もちろん。アンナもたまには里帰りしてくるといい」
「……では、お言葉に甘えて」
「アンナにはずっと甘えっぱなしだったからな。母上はハリエットの乳母殿だったんだろう? 今も侯爵家に?」
「はい。今は侍女頭としてお仕えしております」
「娘が帰ってきたら喜ぶだろう」
「いえ、今回は夫のところに行こうと思っています」
「夫? 結婚していないと言ってなかったか?」
「やはりしていることにしようかと」
ライリーは不可解な顔になった。
「……どういうことですか」
「さあ。わたしにも教えてくれなくて」
主夫妻の視線もどこ吹く風と、アンナは食事を続けた。
「旦那様の従者を使って申し訳ありませんが、細々としたことはアルに引き継いで行きます。ライリー様にもお話ししたいことがあるのですが、出発までに少しお時間をいただけますか?」
「分かった。食事が終わったら書斎で聞こう」
アンナの言動には疑問が残るが、彼女は何があってもハリエットのためにならないことはしないと信頼できる。ライリーの疑問など瑣末なことだ。
「アンナも一緒にホークラムの領地へ行けないのは残念だけど、また次があるわね」
「そうですね。これからはちょくちょく様子を見に行かないと」
子爵邸の修繕が終わったと連絡が来て、もうだいぶ経つ。これからはそこがライリーとハリエットの本宅になるわけだ。
隊務のあるライリーは長期間王都を離れるわけにはいかないが、今後子どもが生まれたらハリエットは領地で子育てをすることになる。
明るい未来の想像しかない新居を訪れるのを、ライリーは楽しみにしていた。
「エベラルド様は律儀な方ですね。お酒の席の戯言を忘れないでいてくださるなんて」
「団長に釘を刺されたらしいですよ。……でももう、酒はほどほどにしてくださいね。ふたりとも」
遠慮して黙って食べていたアルが、思わずといったように吹き出した。
それまで緊張が解けていなかった少年の笑いに、大人達は安心して微笑んだ。
「アルだって驚いただろう? アンナが酔っ払うのを初めて見たし、ハリエットがまったく酔わないのにもびっくりしました」
アンナは珍しく何も言えなくなって、無表情を貫いている。これはライリーにも作った無表情だと分かる。視線が横に流れてしまっているのだ。
「あら、わたしは騎士様方が意外とだらしないので拍子抜けしましたよ」
ハリエットが澄ました顔で開き直る。
「それ、連中の前では言わないでくださいよ。再戦の申し込みで家の前に列ができます」
「受けて立ちましょう」
「……年に一回までにしてください。休暇ばかりで隊務に就けなくなる」
「年に一回はいいんですね」
小声で呟いたアルに、ライリーはにやりと笑った。
「だって楽しかっただろう?」
格好悪いエベラルド、寛いだ様子の意外と大人気ないアドルフ、貴婦人に向ける崇拝ではなく、尊敬の眼差しをハリエットに向ける騎士達。
どれもこれもなかなか見られない光景ばかりだった。
しょっちゅうだったらライリーの身が持たないが、年に一回くらいなら、あんな無茶苦茶な宴席があったっていい。
辛いばかりだった騎士団で、最後にいい思い出ができたとアルも頷いた。
「はい。楽しかったです」
「さて、旦那様」
ライリーが書斎に現れたアンナに椅子を勧めると、彼女は座ってすぐに話を切り出した。
これまで、厳しい姉のような侍女とふたりで話す機会はあまりなかった。ライリーはつい上官に対するように姿勢を正してしまう。
「はい」
「今回は私の我儘でご迷惑をおかけします。私がお暇をいただいている間の、ハリエット様の身の回りのことについてですが」
「ああ。ハリエットは代わりの侍女は必要ないと言っているが、本当に大丈夫かな」
アンナはライリーの休暇が終わる頃には戻ってくる予定だという。領地に行けば地元の人間が手伝いに来るから、問題はアンナが出発してから、領地に到着するまでの間だ。
侯爵家で生まれ育ったハリエットが、侍女の手を借りることなく生活ができるものなのか。女性の生態について疎く、鈍いという自覚のあるライリーには不安しかない。
「ハリエット様は日常のことはご自分でできますので、アルがいれば問題ないと思います。ライリー様には、アルには頼めないことをお願いしたく」
「なんでも言ってくれ」
「ライリー様は、女性には毎月血を流す期間があることをご存知ですか」
そこからか。想像より重いところから始まって、早速ライリーは怯んだ。
「一応。多分」
知識に自信がないため、どうしても返事があやふやになってしまう。
自慢ではないがお坊ちゃん育ちなのだ。伯爵家で十三年、なんなら従者時代も箱入り扱いで、十五の歳まで女性に関する知識からは遠ざけられてきた。保護者の目を掻い潜るような熱意も持たず、ぼんやりしたまま騎士団に入って苦労したのだ。
当時は同じ歳の従騎士も歳下の従者も、そういう意味ではずっと大人だった。ライリーはというと、妻を得た今でも苦手分野だ。
「今は詳しい知識までは求めません。今月は三日後から始まって、六日間ほど続くと思われます。対処はご自分でなさいますので、ライリー様がするのは、気遣うことです」
「気遣う」
また難しい話になった。
アンナは真剣に眉を寄せる主人を、呆れ顔で見た。
「予定はあくまで予定です。始まったことを察知されたら、夜のお務めは強要なさらないでください」
「あ、はい」
「ハリエット様はそこまで大変なほうではありませんが、どうしても普段よりは不調を感じやすくなります。無理をしないよう気遣って、必要なら腹部を温めるものを用意して差し上げてください」
「はい」
「困ったときには、スミス夫人にご助力いただけるよう頼んでおきます。エイミーさんでも構いません。お歳の割に物事の道理をよく分かってらっしゃいます。ライリー様の上役のご息女でなければ、侍女に推薦したいくらいです」
少しばかり暴走するきらいはありますが、とアンナは小声で付け足した。
「分かった。……ところで、察知とはどうやって」
「察してください」
「え、はい」
素直に侍女の言うことを聞く主人に、アンナは表情を緩めた。
「ライリー様がハリエット様の旦那様でよかったです」
「そうか」
「私などが申し上げるのもおこがましいことですが、ライリー様には感謝しております。ハリエット様を幸せにできるのは、ライリー様しかいないと思っております」
「姉上に言われると心強いな」
真っ直ぐに向けられた言葉に照れてしまい、ライリーは思わず混ぜっ返した。
この話はこれでお終い、の合図に苦笑して、アンナは退去の礼をした。
「気負う必要はありません。旦那さまはいつも通り、奥さまを大事にして差し上げてくださいませ」
「心得た。……ああ、近いうちに一度官舎に泊まりに行きたいんだ。アンナがいる間がいいな。明日行ってくるから、留守を頼む」
「承知しました」