ロバート・ティンバートン 前編
ライリーの兄の話です。
僕の弟はかっこいい。
ロバートは子どもの頃から、ずっとそう思っている。
生まれたときから伯爵家の跡取り息子だとチヤホヤされてきたロバートと違い、放任気味に育てられたのが弟のライリーだ。
彼は物心つく前から言い聞かされていた。
おまえは兄を支えて生きるのだ。この家を継ぐことはできないから、どこか有力な家に婿入りするんだ。その家で、ティンバートンの名に恥じない生き方をしろ。さもなくば己の力で生きる術を探せ。
何も分かっていない顔で、ライリーははい、と元気良く返事をしていた。
そんな赤子のような子どもに何を言っているんだと、ロバートは幼心に思ったものだ。
大丈夫だよ。ライリーはずっと兄上が守ってやるからな。
兄の言葉にも、彼は同じようにはいと言った。
素直なのだ。
ライリーが元気にティンバートン中を走り回る歳になった頃から、ロバートへの教育は厳しくなっていった。
家庭教師の数が増え、人前に出られるだけの作法を身に付けてからは父の仕事に同行させられた。
そんな日々でも、三つ下の弟と遊ぶ時間はなるべく確保してもらった。ロバートの楽しみだったのだ。
幼子特有の天真爛漫な笑顔と、舌足らずに兄上と呼びかけてくる泣き顔、子どもの遊び場には充分過ぎる広さの敷地で身に付けた高い身体能力を持つライリー。
その自由さを妬んだこともある。だがそれ以上に、ロバートにとってのライリーは眩しくて愛おしい、自慢の弟だったのだ。
そんな愛すべき弟は、ずっと守ってやると言った兄の言葉など忘れて、十三の歳に騎士を志して家を出た。
三つ上のロバートですらまだ子ども扱いで親の庇護下にいたというのに、兄弟として共に暮らす日々は十三年で終わってしまった。
ライリーが十一歳になった頃から、真剣に剣の稽古に励む姿を見てきた。彼が十三歳の誕生日を迎える前には、ロバートは弟に武では敵わなくなってしまった。
その頃から予想はできていた。
彼はティンバートンの未子ではなく、キャストリカの騎士ライリーと呼ばれる日が来る。彼はそのための修行に出ていくのだ。
かっこいいじゃないか。
寂しくはあったが、もちろん十六歳の兄がそんなことを言えるわけがない。
辛くなったら帰って来てもいいんだぞ。少年の心を弱らせてしまう優しい言葉はひとつだけにして、まだ小さな背中を叩いて見送った。
それからライリーは、たまの帰省の度に大きくなる姿を見せ、元気な少年から逞しい青年に成長していった。
ロバートが弟が格好いいと思う気持ちに嘘はないが、それは身内の欲目を多分に含んだものである。
客観的に見れば、まあ容姿は十人並みだ。可もあり不可もある。赤毛はあまり一般受けしない色だが、短くしておけば無難な赤褐色に見える。鍛え上げた長身の見栄えはなかなかのものだ。きつめの母親に似た造りの顔なのに、何故かとぼけた印象を持たれがちなところが残念な青年である。
真剣に騎士修行に励むときのきりりとした顔を保てればまた違うのだろうが、彼には無理な相談だ。
そんな弟だから、有名な上流階級の貴婦人が彼を気にしている様子に気づいたとき、ロバートは何かの間違いだろうと思った。
最初はライリーが何か粗相でもしたのかと考えた。だが、そうでもないらしい。
伯爵令息という身分にも関わらず、王立騎士団の従騎士となっていたライリーは、そのとき十七歳。くだんの貴婦人は、噂によるとそれより十ばかり歳を喰っている。
まさかな、とは思ったが、世間話の体で弟のことを話題にするにしても、彼女のその頻度は度を超していた。
しかも一度だけではあるが、ロバートはライリーを見つめる彼女の姿を目撃したことがあった。
彼女は王立騎士団の鍛錬場を、離れた場所から熱心に見ていたのだ。その視線の先には、見間違えようがない赤毛があった。
間違いない。
かの有名な侯爵夫人は、ロバートの弟に恋をしているのだ。
もちろん、そんな話は誰にもできない。ロバートは、自分のなかで達した答えの正誤を本人に確認することなく、弟にも黙っていた。
半信半疑だったということもあるが、叶わぬ恋を胸に秘めた高嶺の花が、憐れに思えたのだ。
ライリーはロバートが伯爵位を継いだのちは、一介の騎士でしかなくなる。侯爵令嬢が恋を実らせるわけにはいかないだろう。
例え彼女が侯爵の姉としてロブフォード家に残り、ライリーを婿に望んだとしても、人々の嘲笑の的になるのは目に見えている。
ロバートがいなければ解決する話だ。
幼い頃から何度もロバートの脳裏をよぎる考えが、再び浮上してきた。
誰からも愛される弟ライリー。ああ見えて責任感の強い彼は、領地を治めることだってできるはずだ。
伯爵となった彼の元に、侯爵令嬢が嫁いでくるなら問題ない。年齢差のある夫婦などいくらでもいる。身分さえ釣り合っていれば、歳の差などさして障害にならないだろう。
ロバートが弟に継嗣の座を譲れば、幸せになる人が増える。
そんな思いに押し潰されるほど、ロバートはもう幼くも脆くもなかった。
彼はずっと、夜会でさりげなく話しかけてくる貴婦人の恋心に気づかない振りをし続けた。頻繁に話をしているふたりの仲を怪しむ友人には、適当に誤魔化して「だったら自慢してるよ!」と残念そうな演技をしてみせた。
あれは確か、ライリーが騎士の叙任式を受ける少し前に、王宮で開かれた舞踏会だったか。
彼はまだ十八歳の従騎士であったが、騎士団の制服を着て背筋を伸ばし、会場の隅に立っていた。
前年は成人して初めての公式行事だったため、ライリーも隊務を休んで、貴族の子息として建国記念祝賀会に参加した。
そのときは、ロバートが侯爵夫人になんと言って弟を紹介しようと考えている間に、ライリーはさっさと姿を消してしまった。
よっぽど居心地が悪かったのか、彼はそれ以来夜会の出席は断固拒否している。
成人した翌年は騎士団の人手が足りなかったのだろう。従騎士の身で苦手な社交場に、出席者ではなく警備兵として配置されるとは。
つくづく複雑な立場の弟だ。上流階級の子息に生まれながら、市井の出身が多い騎士団に配属され、夜会に出席した翌年には警備兵だ。
隊務中のライリーは、正規の騎士のように視線が鋭く、精悍に見える。
ロバートは、凛々しい立ち姿の騎士をちらちらと見ている貴婦人がいることに気づいた。ひとりやふたりではない。幾人もの貴婦人が、あの鈍い弟に秋波を送っているのだ。
あれは僕の弟だ。遠目に見ていたロバートは、鼻が高かった。
(おや、あれは)
警備兵を遠巻きにする貴婦人の隙間を擦り抜けて、ライリーに近づいていく令嬢がいた。
亜麻色の髪を自然に背に流し、小柄な体躯でちょこちょこと歩く姿に見覚えがあった。
ティンバートンの隣に領地を持つ、ブライス伯爵の娘だ。子どもの頃には家族ぐるみで交流があった。
彼女はライリーのひとつ下だったか。祝賀会の参加は今年が初めてのはずだ。まだまだ子どもだと思っていたが、上手いこと可愛らしい令嬢に化けているではないか。
隊務中で周囲をよく見ていたライリーは、声をかけられる前に見知った顔に気がついた。途端にいつもの懐っこい笑顔になる。
ロバートの位置からはその会話までは聞こえないが、大体こんなところだろう。
「ロージーじゃないか! 久しぶりだな。そういえばもう十七か」
「ライリー様は、出席されているわけではないのですね」
「なんだよ今更、様なんて。普通に喋ればいいだろう。俺は仕事中だよ」
ロージーが頬を赤らめてもじもじしているのが、遠くからでも分かる。
なんてことだ。彼女は小さな頃の初恋を、未だに引き摺っているのか。期待に胸を躍らせて初めての舞踏会に参加してみれば、お目当ての男は警備兵になっていたということか。
さて、罪作りな弟はどう対応するのだろう。
ロバートは寸劇でも観ているような心地で、ふたりの様子を見守った。
あれは初心な令嬢の必殺技、察してくれ、だ。頬を染めて上目遣いで男を見上げるあの仕草を、彼女達はどこで会得してくるのか。
侯爵夫人はあの技を使えそうにないな、と頭の片隅でロバートは思った。
さすがの鈍い弟も、幼馴染の少女の物言いたげな様子に気づいたようだ。
「なんだ、踊る相手がいないのか。分かる。大変だよな、舞踏会。よし、俺が相手になってやるよ。ちょっと待ってろよ」
ライリーは目立たないようにその場を動き、近くを通った男をひとり捕まえた。
すわ不審者か、と見ていたロバートは焦った。
数秒後、騎士団の外套を羽織って警備兵の位置に戻ってきたのは、ライリーではなかった。
(何をやっているんだ、あいつは。あとで怒られても知らないぞ)
おそらくあの身代わりになった男は、近衛騎士団の者だ。出席者として通りかかったところを顔見知りのライリーに捕まり、外套だけ交換した。ライリーにロージーのダンスの相手をする間だけ代わってくれと頼まれて、素知らぬ顔で立っているのだ。
下手な芝居よりも面白いな。
ロバートは社交そっちのけで弟達を観察していたが、華やかな空気を纏う貴婦人が近づいてきたことに気づいて、不自然にならないよう視線を少し別のところに移した。
彼女は、ロバートの視線の先に弟がいるのではと思っている。だからロバートは意図的に、彼女の視線を別のところに誘導したのだ。
「ごきげんよう、ロバート様」
「ごきげんよう、侯爵代理。今年もお会いできまして、光栄です」
彼女がライリー達を見たら、きっと傷つくだろう。いくつも歳の離れた男を切ない目で見つめる彼女が涙を流すところなど、見たくないと思った。
弟に恋をしている女性に恋をするような、不毛なことをするつもりはない。
ただ、自分よりいくつも歳上だと思っていた侯爵夫人が、時折同年代の女の子のように見えるときがある。
おこがましい気持ちであることは百も承知だ。だが、秘めた恋心に気づいたあの日から、彼女に対して兄のような優しい気持ちになってしまうのだ。
妹のように思う瞬間があった。だがまさか、本当に彼女が義妹になる日が来るとは想像もしていなかった。
ロバートは困っていた。
婚礼の翌朝、花婿である弟が失踪したのだ。
当然、侯爵夫人改め子爵夫人となったハリエットは落ち込んでいる。
婚礼当日、叶わないはずだった恋を手に入れた花嫁は、輝かんばかりの美しさで微笑んでいた。それまで唯々諾々と父に従ったに過ぎないかに見えていたライリーだったが、当日は妻の美しさに喜びを隠しきれない様子だった。
なんだ、案外うまくいきそうだと、こっそり胸を撫で下ろしていたのにだ。
ロバートの自慢の弟は優しく、忍耐強い男だったはずだ。彼は騎士道精神を学ぶ前から、騎士らしい性格をしていた。それなのに。
(何をやっているんだ、あいつは)
まさか花嫁を放置して逃げ出すような非常識な真似をするとは、思いもよらなかった。
すっかり萎れてしまっているハリエットを前に、ロバートはかける言葉を失ってしまった。
午後のお茶の時間に、母が寝室からハリエットを引っ張り出してきたのだ。
こんなきつい外見の姑とふたりきりだと、怯えさせてしまうでしょう。と、自分をよく分かっている伯爵夫人に、ロバートも無理矢理同席させられているのだ。
気まずい上に、義妹となった彼女が、何故か見知らぬ女性に見える。夜会で会うときの自信に満ちた態度が身を潜めているせいか、せいぜい同年代にしか見えないのだ。
どういうことだ。まさか別人? 侯爵夫人にはよく似た妹でもいたのか?
「さて、ハリエット様。この度はうちの愚息が大変な失礼をしております」
口火を切った伯爵夫人は、謝罪の言葉を使いながらも怖い顔をしていた。
息子であるロバートには分かるが、彼女は別に怒っているわけではない。元から顔の造りがいかつく、燃えるような髪の色の印象が全面に出過ぎているだけだ。
ハリエットは長身の女性だ。だが、四十代の伯爵夫人は更に背が高い。
義妹は細身で女性らしい曲線的な身体の線を持っている。母は骨太で、若い頃鍛えていた名残なのか男性のような直線的な体型だ。
ロバートから見て大叔父にあたる人物から手ほどきを受けた母は、剣を握らなくなった今でも女騎士としてちょっとした近隣の有名人なのである。
今の彼女達をはたから見れば、いかつい姑がか弱い嫁を虐めている図にしか見えないのだ。
嫁姑問題が勃発するならば、間に挟まれるのは夫であるライリーであるべきだ。夫の兄に過ぎないロバートを巻き込まないで欲しい。
「……とんでもありません。わたくしが悪かったのです。ライリー様は何も」
やはりこれは別人か。相手の目を見ず、俯いて喋る侯爵夫人など見たことがない。
「いいえ。こんなときに悪いのは、男のほうだと相場が決まっています」
相場ときたか。我が母ながら、なんという暴論だ。
言われたハリエットも、驚いて顔を上げた。
「そんな」
「もう体調は戻られたのですね。男共には分からないのですよ。婚礼当日の花嫁がどれだけ大変か。当日までにどれだけの努力を重ねてくるのか。あなたは元から可愛らしいお嬢さんでしたけど、昨日は伝説のお父様もかすんでしまうような美しさだったわ」
「……母上にもそんな時代が」
「お黙り」
引き摺り出された茶会で黙っていろとは、これ如何に。
「……あの、わたくし」
「弁解の必要はありません。あなたは昨夜、体調を崩したことを花婿に正直に伝えた。それをあの馬鹿息子が曲解して家出をした。それだけのことでしょう?」
「母上、その言い方だと、ハリエット様は頷きにくいです」
「面倒臭いわね。いいのですよ。わたくしは、いいえ、わたくし達キャストリカの女はみんな、五年前からずっとハリエット様の味方ですよ」
「……おかあさま」
「素敵な響きだわ。あなたに母と呼ばれるなら、わたくしはあの馬鹿息子を捨てたって悔いはありません」
ライリーは今日、何度馬鹿と呼ばれるのだろうか。
ハリエットは困惑している。それはそうだろう。怖い顔をした夫の母親に叱責されるかと思ったら、全肯定されてしまったのだ。
「伯爵夫人をお義母さまとお呼びする資格を、いただけるのでしょうか」
「わたくしはそう願っています。馬鹿息子が馬鹿なことをしてしまいましたが、あの子もそこまで馬鹿ではないはずです。親の欲目と笑われてしまうでしょうけど。少しだけ、あの子に時間をやっていただけないかしら。馬鹿な子どもが大人の男になるために、ほんの少し猶予を与えてやって欲しいのです」
意外と親らしい話を始めた。なるほど、母も母になるときがあるのか。ロバートは気配を消しつつ感心していた。
「あの馬鹿が馬鹿のままなら、わたくしが責任を持って教会に乗り込んで、結婚誓約書を破いてきて差し上げますからね」
「……ハリエット様、この母は本当にやります」
「まあ」
ハリエットは初めて表情を緩めて、微かに笑った。少女のような笑顔だった。
「あなたはまだ若いのですから、馬鹿息子に見切りをつけてもすぐに素敵な方が現れますよ。新しく想う方が現れたら、教えてくださいませね。わたくし達、侯爵代理を応援する会が総力を挙げてその方と添い遂げさせて差し上げます」
なんだそれは。応援する会?
ロバートは怪訝な顔をしたが、ハリエットは泣きそうになってしまっている。
「……やっぱり、すべてご存知だったのですね」
「年の功ですよ。架空の姫君の存在を信じていたのは、若い方々と馬鹿な男だけです。わたくし達はあなたのお父さまに憧れて育った世代ですからね。お父さまのご成婚に泣いた年のことはよく覚えています。あなたはご両親によく似てらっしゃるから、あらぬ疑いを挟む余地もありませんでした」
なんの話をしているのだろう。ロバートには訳が分からなかったが、ハリエットには通じているようだった。
「わたくし、思い上がっていたのですね」
「いいえ。あなたは最初からずっと、とっても素敵な淑女でしたよ。わたくし達上の世代の女が声を上げてこなかったせいで、あなたひとりに苦労をかけてしまいました。だからせめて、影から応援させていただこうと思ったのです」
伯爵夫人は、実の息子にはもう何年も見せていない、慈愛に満ちた目を義理の娘に向けていた。
「お義母さま」
「わたくしは声を上げる度胸がなかったものだから、うだつの上がらない、腹の突き出た婿を取ることになってしまいました」
「……母上、父上も若い頃から腹が出ていたわけでは」
「そうだったかしら。まあそんな昔話はどうでもいいわ」
まだ元気はないものの、ハリエットも少しずつ表情がやわらいできた。
「よろしければ、お義母さま達がご結婚されたときのお話をお聴きしたいです。わたくし、ライリー様と、お義母さま達のようになりたいです」
「…………では、僕はこれで」
顔が怖い母の緩衝材の役目はもう必要無さそうだと判断して、ロバートは席を立った。