エイミー・スミス 後編
エイミーの目には、ライリーが王子様に見えた。
いや、違う。騎士様だ。彼は物語のなかにしか存在しないはずだった、本物の騎士様だ。
ハリエットの笑顔が一瞬固まったことにも、それに気づいたスミス夫人が冷や汗をかいたのにも、エイミーはまったく気づかなかった。
エイミーはぶわああっと一気に血が集まった顔を、必死で冷ました。ライリーが出て行ってよかったと思う。そうでなかったら、いつまでも頬の火照りが収まらないところだった。
ハリエットは大人の余裕で、エイミーとケイシーをお茶の用意をした卓に案内した。
出された紅茶は良い香りがして、子どもの舌にも美味しく感じられた。お菓子も心なしか上品な味わいだ。使われているのが可愛らしい菓子器だからだろうか。
ハリエットはスミス夫人と話をしながらも、エイミーとケイシーが退屈しないように細やかに声をかけ、お茶とお菓子を勧めてくれた。
エイミーが聞き耳を立てていたところによると、どうやら隣に住む佳人は長屋での生活に苦労しており、新参者として隣人に助言を求めているようだ。
スミス夫人は、侯爵夫人と呼ばれていたハリエットが、間近に接してみると噂よりもずっと若いことに驚いた。また貴族のお嬢さまだった彼女が慣れない生活に苦労していることに、すっかり同情してしまった。
オリーブオイルから作られた高級な石鹸があるのが当たり前の生活を送っていたハリエットは、洗濯のやり方もまともに知らないようだった。侍女のアンナも似たり寄ったりの有様である。
スミス夫人は、明日の朝、木の灰を使う洗濯のやり方を教える約束をした。
他にも長屋の裏にある小さな庭で野菜やハーブを育てること、それらの使い方など、市井の娘ならば当たり前に知っていることを伝授する。
ハリエットとアンナの主従は、いちいち感心して熱心に聞き入った。
「あの、子爵夫人。差し出がましいようですが、使用人をお雇いにはならないのですか? 必要でしたら、ここでの生活に詳しいひとをご紹介いたしましょうか?」
「まあ、お気遣いありがとうございます。でも、もう少し自分でやってみたいんです。また色々教えていただいてもよろしいですか?」
「それはもちろん。わたくしにできることでしたら、いつでもおっしゃってくださいませ」
エイミーは大人の話の邪魔にならないよう、妹と小声で喋りながらお菓子を食べていた。
だがもちろん、耳はしっかり大人の話を捉えている。
お洗濯なら、あたしにでもできる。お手伝いに行っちゃ駄目かな。
チラチラと母の様子を見るが、彼女が娘を手伝いにやると言い出す気配はない。
エイミーはライリーの上官の娘だ。いくら身分が違うと言っても、そんな娘を雇うわけにはいかないだろう。
(父さんが平の騎士ならよかったのに)
その場合は長屋に住むことはできておらず、ホークラム家の隣人になることもなかったのだが、エイミーは勝手なことを考えた。
「ハリエット様は、なんでライリーと結婚したの?」
怖いもの知らずのケイシーが、突然思いついたように口を挟んだ。
「ケイシー!」
スミス夫人は、貴族の事情に嘴を突っ込むような娘の発言を慌ててたしなめようとした。
「だって父さんは、お姉ちゃんにライリーと結婚しろって言ってたじゃない」
これにはエイミーもぎょっとした。この妹は、なんてことを言うのだ。
エイミーが八歳の頃よりも幼いとは思っていたが、こんな爆弾発言をするほどとは。
「違うんです! 夫は夢を見ていただけで、そんな畏れ多いこと、本気で考えていたわけでは!」
駄目だ、母さん。父さんが発言したことは認めちゃってる。
エイミーは周章狼狽ってこんな感じかな、と母を見ていたら、逆に落ち着いてきた。
「申し訳ありません、子爵夫人。ライリー様はとっても素敵なのにあたし達にも優しくしてくださるから、騎士の家族のなかでも大人気なんです」
王宮の敷地で暮らす少女なら、これくらいの処世術は心得ている。上のひとは、とにかく褒めて持ち上げて誤魔化すのだ。
ハリエットは、大人のような口を利いたエイミーを悪戯っぽい目で見た。
「まあ、そうだったの」
「申し訳ありません」
「あら、謝らないでくださいな。夫を評価してくださったのでしょう。ケイシー、わたしが結婚した理由だったわね? スミス様のご結婚の経緯も教えてくださるなら、わたしも教えて差し上げます」
おや。エイミーは話の流れに驚いた。
これは、恋の話がはじまる合図だ。女の子なら誰でも知っている、みなが大好きな話だ。自称現実主義者のエイミーだって例外じゃない。
「わ、わたくしですか? 夫とは幼馴染だっただけで」
興味津々の娘の目を気にしながらも、スミス夫人は訊かれるがままに答えた。
靴屋の娘と仕立屋の息子は、同じ頃に生まれたご近所さんだった。なんとなく本人達も周りも、そのうち結婚するんだろうと思っていて、仕立屋の息子が騎士になったのを契機に、その通りになった。
あまりにも自然すぎて、求婚された記憶すらない。
スミス夫人はハリエットや娘の質問にときどき焦りながらも、喋っているうちにだんだん楽しくなってきて、最初の緊張もどこかへ行ってしまった。
「では、スミス様も叙任されてすぐにご結婚を? それで特別訓練?」
「ええ。騎士団の伝統なんて馬鹿馬鹿しいとは思いましたけど。甘い新婚生活なんて、全然なかったですよ。ライリー様は今も毎日大変なご様子で」
「そうですね。昨夜なんて、夕食も食べずに気を失うように寝てしまって」
ハリエットは何かを思い出したようにくすくす笑った。
エイミーは憧れの貴婦人が可愛らしく笑う様子を、うっとりと眺めながら話を聞いていた。
「ねえ、それで、ハリエット様のお話は?」
ケイシーが急かしても、もう誰もたしなめなかった。
「わたしはね、ずっとライリー様のことが好きだったの。そのことを知っていた弟が、勝手にライリー様のお家と縁談をまとめてきてしまったのよ。ひどいと思いませんか?」
ハリエットの弟といえば、現在のロブフォード侯爵だ。女子会の流れとはいえ、滅多なことは言えない。
「弟さまも、お姉さまのためにと……」
「そうなんですけど。ライリー様のご意思も確認せずに進めたものだから、こじれてしまって。……あら、このあたりのことは、噂になっていましたか?」
「ええ、まあ。婚礼後から落ち込んでいたライリー様が急に休暇を取られて、帰ってきたときにはこの世の春といったご様子だったとか」
思わずといったように、給仕に徹していたアンナが小さく吹き出した。
「失礼しました。ハリエット様、全部筒抜けだったようですね」
「……そのようね」
「ハリエット様、どうやって仲直りされたのですか?」
エイミーは話の続きをせっついた。
「これ以上噂になってしまったら、夫がどこかへ逃げ出してしまうわ。ここだけの話にできますか?」
スミス母娘は首を揃えて頷いた。
「約束ですよ。ライリー様は実家に帰ったわたしを迎えに来て、改めて求婚してくださったの。もう結婚式も済ませたというのにね。それから婚約者のように通ってくださって、一緒に暮らしはじめたのが、先週の話です」
(なにそれ。素敵)
家同士が決めた結婚相手が、成婚後に誠実な求婚をしてくれるなんて。
騎士道物語の騎士様は存在したんだ。
「やっぱり、ライリー様は膝を突いて求婚されたのですか?」
エイミーの期待に満ちた目に、ハリエットは笑顔で返した。
「ええ。騎士ですもの」
「ライリー様はなんて?」
「これ以上は秘密です」
「ええーー!」
エイミーはケイシーと一緒になって不満の声を上げてしまった。
不作法が過ぎたかとハリエットをそっと見上げるが、彼女は変わらずにこにこしていた。
「ライリー様ったら、引越してきたその日に財布を丸ごと預けてくるんですよ。だからわたし、騎士様の俸給で遣り繰りしなきゃと張り切っているんですが、何も分からなくって。親切な隣人がいてくださってとっても心強いです。これから、色々とよろしくお願いしますね」
「まあまあ。こちらこそ、お隣になれて光栄ですわ」
夢のように楽しい時間は、あっという間に終わってしまった。
そろそろ夕食の用意をしなくてはとスミス夫人が申し出ると、ハリエットはお菓子の残りと茶葉の包みを土産に持たせてくれた。
名残惜しいが仕方がない。お隣さんなのだから、明日もきっと会えるはずだ。
「ハリエット様、約束は絶対に守りますから、他のお話は友達にも教えていいですか?」
「わたしが好きで結婚したという話? いいわよ。これ以上、夫を狙う方が出てきたら困りますからね」
ハリエットは含み笑いでエイミーに許可した。
スミス夫人は恥ずかしさに顔を赤くして俯いたが、その娘は元気に返事した。
「はい! ちゃんと友達にも言っておきますね!」
ハリエットとアンナは終始楽しそうに笑って、玄関先までスミス母娘を見送った。
スミス母娘は手を振って隣家に帰っていき、やがて両家ともの厨房から、食欲をそそる匂いが漂ってくる。
その日のスミス家の夕食時のことである。
いつになく興奮していたエイミーは、今日のお茶会のことを喋り続けていた。
「ハリエット様、すんごく素敵な方なのよ!」
「そうねえ。想像してたよりずっと気さくで、なんだか可愛らしい方だったわ」
「でね、ハリエット様が選んだんだから、やっぱりライリー様も素敵だと思うの!」
女性陣のお喋りに、いつも通り黙って聞き役に徹していたスミスだったが、娘の発言に待ったをかけた。
「エイミー、おまえライリーなんか興味ないって言ってたじゃないか」
「それは今朝までの話。ねえ父さん、今度鍛錬場に見学に行っていい?」
「いいわけないだろう。用もないのに来るんじゃない」
エイミーは父の言葉尻を捉えて、目を光らせた。
「用があればいいのね?」
「……用なんかないだろう」
「今はないけどね。明日みんなに教えてあげようっと。ライリー様は素敵な方だけど、ハリエット様が悲しまないようにあたし達が見ててあげなきゃ」
「なんの話だ。エイミー? 余計なことをするなよ?」
「しないよ。余計なことはね」
スミスは娘がこれから何をしでかすつもりなのか分からず、不安になった。杞憂に終わればいいが、一応ライリーに忠告しておこうと決意する。
だが、なんと言えばいいのだろうか。
用があればいいのだ。用があれば。
友達の、従騎士をしているお兄さんが忘れて行った御守りを届けてあげるのは、立派な用事だ。例えお兄さんがほぼ毎日、わざと忘れているのだとしてもだ。
「そうか。鍛錬場は何が飛んでくるか分からないから、気をつけて」
偶然すれ違えたライリーは、やっぱり本物の騎士様だった。
「はい! ライリー様、ごきげんよう」
みんなだってそう思ってる。だって、ご機嫌よう、なんて挨拶、誰の口からも聞いたことがない。
「ね! だから言ったでしょ!」
「ほんとだ! 気をつけて、なんて声をかけてくれた人、初めて」
「言っとくけど、前にあたしがライリー様に助けてもらった話をしたとき、鼻で笑ったのエイミーだからね」
「ごめんってば。あのときは、あたしも子どもだったからさ」
「……うん、ちなみにエイミー。さっきすれ違ったの、あんたのお気に入りのエベラルド小隊長だったよ」
「それは昔の話! 今は断然ライリー様!」
「じゃあほんとに小隊長から乗り換えて、ライリー様信奉会、やるのね?」
「やるよ! 当然でしょ!」
国の要人が一堂に会する重要な日である。
警備を強化した王立騎士団の尽力により、王宮は今日も平和が保たれている。