夜明けをあなたに 前編
番外編というより外伝のつもりです。
外伝として独立させようかとも思いましたが、順番が分からなくなりそうだったので、まとめて番外編集に入れてしまうことにしました。
エベラルドは今も、あの夜に囚われている。
繰り返し繰り返し、あの夜の悪夢は彼を苛んだ。
何度も何度も、彼の目の前で、彼女の命は奪われた。
彼は今も暗い夜のなかを彷徨っていて、夜明けを見つけられずにいる。
まだ従騎士だった十六歳の頃の話だ。
エベラルドは興味本位で、城で働く女官の誘いに乗った。
部屋に招ばれて、ほとんど女の言いなりにその身体を抱いた。
その夜は、夢を見なかった。柔らかい肌に触れたまま眠り、彼女の部屋で朝を迎えた。
その経験は、一時の快楽以上にエベラルドを虜にした。
それからはひどいものだ。
相手を選びはしたものの、大抵の場合は誘いに乗って部屋まで行った。
将来は語らない、縛るつもりも縛られるつもりもない、二日以上先の約束はしない。身体を重ねるのは、それに頷いた女だけだ。
幸い、そんなクズな男でも、面の皮一枚が好みだと寄ってくる女には事欠かなかった。
当然のように、騎士団内で色情狂呼ばわりされた。
それでも構わなかった。
悪夢を見ずに済むならば、これ以上エベラルドの前で彼女が死ぬことはなくなるのだ。
アデライダの朝は、羊の世話から始まる。
仕事と言えるほど数は多くない。八年かけて少しずつ増やして、やっと九頭になったところだ。
それでもその毛から、一年に三枚分の冬服を作ることができるのだ。家で使ってもいいし、街に持って行って売ることだってできる。
羊乳や羊肉は栄養があるから、食料にだってなる。
子どものお遊びにしては上等だとよく褒められるのだ。
柵を開けて羊を草っ原に放してやり、それぞれの体調を慎重に観察する。問題がなければそのまま自由に草を食べさせておいて、羊達を横目に見ながら井戸で水を汲む。
もう冬はとうに終わって雪もすべて溶けてしまっているが、春の朝はまだ寒い。
アデライダは寒さに強いけれど、冷たい井戸水が手にかかったときには小さく悲鳴をあげてしまう。
キャストリカの西の国境は山中にあって、アデライダの住むマルコスはその麓にある小さな村だ。
国境の山は急峻で、山向こうの国が攻めてきたことは一度もない。
だから国境の村にしてはのんびりしていて、アデライダも十二歳になる今までのんびりと育ってきた。
彼女の父親は領主と呼ばれてはいるが、本当の領主はちゃんと爵位を持つ貴族だ。マルコス村は他の村や街からぽつんと離れた場所にあるため、ウッド家が代々領主のような役割を任されているだけだ。村長と名乗っても間違いではない。
まあそんなだから、村で一番大きな家に住んではいるが、暮らし振りは農家とそう変わらない。
家長のウッドは毎日畑に出かけるし、その妻である母親も農繁期には男達に混ざって働く。
この頃では、アデライダも母親と同じとまでは言えないが、彼女の手が空かないときには代わりを務めるくらいには立派な労働力になっていた。
(にいさん、帰ってこないかな)
ずっと前、顔を忘れてしまうくらい昔に出て行ったきりの兄にも、成長した姿を見て欲しい。
八つ歳上のエベラルドは、二十歳になっているはず。もう大人だ。
最後に会った十三歳の兄の顔なんて、とうに忘れてしまった。
大好きだった。その気持ちだけしか覚えていない。
まだ五歳だったのだ。
母が言うには、アデライダは毎晩エベラルドと一緒でないと眠らなくて、幼児と同じ時刻に布団に入らされる兄は、朝誰よりも早く目覚めていたらしい。
彼は騎士になるのだと言って、遠い王都に向けてひとりで旅立ってしまった。それきり一度も帰ってこない。
今でも時々、手紙は届く。
元気にしているか、とか従騎士に昇格した、とかいった内容で、エベラルドがどんな大人になったのか想像することは難しかった。
アデライダは兄に手紙の返事を書くため、字を書く練習も頑張った。
上の兄が結婚するよ、とか羊が仔を産んだよ、とか、本当は会って直接話したいことを全部書いて送った。
兄さんはどうしてるの、と書いても、毎日仕事をしているよ、としか返ってこない。
「よいっしょっと」
水を桶に移して、掛け声とともに持ち上げた。
「よう」
羊のほうばっかり気にしていたせいで、遠くの街に続く荒れ放題の道のほうは見ていなかった。
聞き覚えのない低い声に驚いてアデライダが振り返ると、そこには男の人が立っていた。
色素は薄いがきらきらしていない、狼みたいな灰褐色の髪。綺麗な線を描く額と鼻筋、少し頑固そうな顎には、髪より少し濃い色の無精髭。
薄めの唇を歪める笑い方をする人を、アデライダは知らない。
だけど、その夏の空を写したような瞳は知っている。
知っていたはずだ。
「にいさん……?」
綺麗な顔の男の人が、破顔した。
(この笑い顔は知ってる!)
「大きくなったな、アデラ」
「兄さん!」
アデライダは足をもつらせながら走り、エベラルドの胸に飛び込んだ。本当は首にかじりつきたかったけど、そこまで手が届かなかった。
「にいさん、兄さん! エベラルド兄さん!」
エベラルドはアデライダが全身でぶつかっても、びくともしなかった。
彼は妹をぎゅうっと抱きしめてから、脇の下に手を入れて持ち上げた。
「おお? 少しは重くなったか?」
「重くもなるよ! もう十二歳だよ!」
「へええ? おまえもう十二か!」
エベラルドはまったく重くなさそうに、アデライダを高く掲げたままその場でぐるぐる回った。
きゃああと高い声ではしゃぐアデライダに気づいて、ウッド夫婦が家から出てきた。
「……まさかエベラルドか」
「伯父さん。ただ」
「ああ! 駄目! おかえり、おかえりなさい、兄さん!」
「ああ? なんだよアデライダ。ただいま」
急な大声にビクッとしながらも、エベラルドは他の誰より先にアデライダにただいまを言ってくれた。
満足げなアデライダに呆れ顔になりながら、ウッド夫婦は順番にエベラルドを抱きしめた。
「おかえり、エベラルド。立派になって」
「ただいま、伯母さん。俺、この休暇が終わったら騎士になるよ」
「! そうか、とうとうか。力になってやれなくて悪かったな」
ウッドが泣きそうな顔になった。
「そんなことない。無理して送金してくれたんだろう。おかげで予定が早まった」
「頑張ったなあ。よくぞここまで」
「おいおい、泣くなよ。伯父さんも歳取ったな」
「当たり前だ。もう七年だぞ」
涙ぐむウッドの背中をさすって、エベラルドは再びアデライダを抱き上げた。
「おまえは元気にしてたか、って訊くまでもないな」
小さな頃のぼんやりした記憶が、急に鮮やかな色彩をまとってよみがえった。
そうだ。この顔だ。本当はもっとずっと幼い顔だったのだろうけど、髭なんて生えていなかったけど、五歳のアデライダには、今のエベラルドくらい大人に見えていた。
七年振りに会う兄におでこ同士をこつんとぶつけられた。間近に見た整った顔に、アデライダはどきどきしてしまった。
彼女は慌ててエベラルドの腕から滑り降りて、さっきまで自分を抱き上げていた大きくて硬い手を引っ張った。
「兄さん、お腹空いてない? 今日はあたしがご飯作ってあげる」
「へえ。おまえもうそんなことできるのか」
「当たり前だよ。もう十二歳だよ」
「何言ってんだいアデラ。もう朝食の準備は終わってるよ。さあさ、とにかく中に入って。ああ、その前に水でも浴びておいで。きったないったらないよ」
「仕方ないだろ。王都から四日もかかるんだぞ」
エベラルドは顔をしかめて髭をさすりながらも、素直に井戸に向かった。
両親は家の中に戻ったが、アデライダは井戸までくっついて行った。
エベラルドは着ていた物をぽいぽいと彼女に投げて寄越すと、釣瓶を井戸に投げ入れた。
「……ちょっと! 女の子の前でそこまで脱がないでよ!」
全裸になったエベラルドに背を向けて、アデライダは文句を言った。
彼は妹の動揺など意に介すことなく、豪快に水を被っている。
「なんだ、そんなこと気にするようになったか」
「もう五歳じゃないの!」
頭をぽんと叩かれて振り返ると、腰に布を巻いただけのエベラルドがアデライダを見下ろしていた。
「……もうっ。兄さんもお父さんとおんなじじゃない」
「俺ぁまだ二十だぞ」
もう、だ。彼はもう二十歳になったのだ。
他に頼るもののない妹を置いて、十四歳のときも十五歳のときも顔のひとつも見せてくれず、ひとりで勝手に大人になってしまった。
六歳のアデライダも七歳のアデライダも、兄が恋しくて泣いていたのに。
大人になったエベラルドの身体は鎧みたいな筋肉に覆われていて、その背にも腹にも、治りきらない無数の傷が走っていた。
七年の歳月が流れたのだ。
この七年間、彼はどんなふうに生きてきたのだろう。こんなに傷だらけになるまで、何をしてきたのだろう。
「……帰ってくるのが遅すぎるよ。ばか。兄さんの馬鹿」
「悪かったよ。これからはなるべく毎年帰るようにする」
「本当?」
「……多分な」
「出た! 多分! 男の多分は信じちゃ駄目だって、おばさん達がいつも言ってるよ!」
ぶはっとエベラルドは、また昔みたいに顔全部を使って笑った。
「そうか。そうかもな。でも俺はもう騎士になるから、命令が下ったら休暇なんか無かったことになって、どこへでも行かなきゃいけないんだ」
「騎士になんかならなくたっていいじゃない。もうやめようよ。ここでずっと一緒に暮らそう?」
アデライダは騎士なんて嫌いだ。大好きな兄に、あんな奴らみたいになって欲しくない。
エベラルドは困った顔をして妹を見下ろした。そして優しく彼女の頭を撫でると、唇を歪める笑い方をした。
「そういうわけにはいかない。今更引き返すことなんかできないんだよ」
「引き返さなくったっていいよ。ここで立ち止まってればいいじゃない」
アデライダの言葉に、エベラルドは虚をつかれたように立ち止まった。
何か変なことを言っただろうか。思いつきをすぐに口にするなって、母にいつも言われているのに。またやってしまったのか。
「……おまえ、賢いこと言うな」
「あたしは昔から賢いよ」
「そうだったな」
エベラルドは、がしがしと音が出るほど強くアデライダの頭を撫でた。
「さすがに寒いし、腹が減ったな。早く帰るぞ」
その日、エベラルドはずっと前から一緒に住んでいるような顔をして、ウッドの畑仕事を手伝って過ごしていた。
村の男達は、騎士になるという彼を囲んで大騒ぎし、未婚の、時々既婚の女達までもが、エベラルドを見てひそひそ話をしていた。アデライダがこっそり聞き耳を立ててみたところ、予想通り彼女達は、見目の良いエベラルドに誰が一番に声をかけるか、争っているのだった。
他の女に兄の時間を取られてはかなわない。
アデライダは歳上のおねえさん達の睨む目を無視して、エベラルドの腕に一日中ぶら下がって離れなかった。
休暇が終われば、彼はまた旅立ってしまうのだ。他のひとのところになんか、行かないで欲しい。
夜もアデライダは自室で寝たふりをして、居間の暖炉を囲んで酒を飲んでいるエベラルドが階段を上がってくるのを待ち伏せていた。
その日の夜は近所の男達も集まって、エベラルドと父は遅くまで飲んで騒いでいた。これでは眠ろうと思っても眠れやしない。
まさか朝まで飲むつもりか、とアデライダがあきらめかけたところで、廊下の床が軋む音がした。
扉が開いて閉じる音を聞いてから、アデライダは自分の寝台から降りて、ついさっき開閉されたばかりの扉の中に身体をすべりこませた。
階下からは、まだ話し声が聞こえる。両親に見つかったら叱られるのは目に見えていたから、こっそり動いているのだ。
見つかったら、きっとこう言われる。
おまえはもう十二歳なんだぞ!
別にいいじゃないか。まだ十二歳なのだ。五歳のときからの七年分兄に甘えたって、許されてもいい歳だ。
「……何やってんだ。ここは厠じゃないぞ」
寝台の上から、エベラルドが呆れ顔を向けてくる。
「兄さんと一緒に寝るの」
「……おまえいくつになった」
「いいじゃない。ちっちゃいときに一緒にいてくれなかったんだからっ」
エベラルドはアデライダを上から下まで眺めると、ため息をひとつだけついて、一度脱いだ肌着を再び着こんだ。
「…………まあいいか。間違えようも無さそうだしな」
「誰と?」
「誰でもねえよ。気にするな」
アデライダは、エベラルドが空けてくれた寝台の半分に飛び込んだ。
「へへっ」
「今日だけだぞ」
「やだ。明日も」
「あああ、もう……」
エベラルドは苦笑いで左肘をついて頭を支えると、右手でアデライダに毛布をかけてくれた。
「兄さんお酒臭い」
「うるせえ。当たり前だろ、飲んでたんだから」
「王都でもいつも飲んでるの?」
「たまにな」
「一緒にお酒を飲む友達がいるの?」
エベラルドは一瞬黙って、アデライダを見た。
「……ああ、そうだな。あいつらは友達か」
「……そう」
アデライダは暗がりのなかで、額にキスをしてくれる優しい顔を見ていた。無精髭を剃ったエベラルドは、朝見たときよりも若くて綺麗だった。
「もう寝ろよ。子守唄が必要か?」
「いらない。妹がいくつだと思ってんのよ」
「ガキなのかそうじゃないのか、どっちかにしとけよ、このやろう」




