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王国挿話  作者: 真中けい
15/24

あなたの手巾は 後編

「父さん!」

「エイミー!」

 感動の再会をしている親子を間に挟んで、エベラルドがその場を仕切った。

「念のため、ここで待っていましょう。後続組にも今のが聞こえていたら、すぐに来るはずです」

 言いながら、彼は自分の言葉を疑っていた。

 女性と子どもを真ん中に置いたのは、万一のときに、駆けつける方向を決めておくためだ。これから、その万一の事態が起きるかもしれない。

 なのに何故、彼らはまだ姿を見せていない?

 後続組には今の声が聞こえていなかったのか?

「やっぱり来るんじゃなかった! 母さんの怖い話も聴くんじゃなかった!」

「だから言っただろう。母さんの話は怖いからやめとけって! ああ、思い出してきたじゃないかっ」

「スミスうるせえ」

「そもそもおまえが脅してこなきゃ、俺たちは来ることなかったんだぞ!」

「……あのう、うちの弟が皆さまにご迷惑を」


 気を紛らわすように騒ぎながら戦力が増えるのを待ったが、一向に他の騎士の気配は現れなかった。

 その代わり、不気味な声もあれきり聞こえてこない。

「…………さて中隊長。そろそろ決めてくれ。前に進むか、引き返すか。どっちにする?」

「戻るべきだろう」

 即決したスミスに、エベラルドは頷いた。

 前からも後ろからも、合流してくる者はいない。前も後ろも、何が待ち受けているのか分からないが、少なくとも後ろは、今通ってきたばかりの道だ。距離から考えても、それが妥当だ。

「俺が先頭を歩こう。言うまでも無さそうだが、侍女殿は夫人、アルはお嬢さんから離れないように。おい、あんたが怪談話に弱いなんて初めて聞いたぞ。後ろ大丈夫かよ」

「うるさいな。うちの嫁さんの話を聴いたらおまえもこうなるんだからなっ」

「じゃあ今度聴きに行くから紹介してくれよ」

「するわけないだろう! 節操無さすぎだぞ、おまえ」

 全部で三本になった手燭は念のため節約することにして、二本に減らした。ハリエットとエイミーがそれぞれ左手に掲げるわずかな灯りのみを頼りに、慎重に前の人を見失わないよう進んだ。

 出入口は見つからなかった。

 正確に言えば、元はあったはずの穴が塞がれていた。

「……これは亡霊でも獣でもねえな。後続組に会わなかったところをみると、奴らの悪戯か?」

 そんなわけがない。そう思いながらも、エベラルドは軽い口調でそう言った。

 騎士団内だけならあり得るが、女子どもを巻き込んでまでやる悪巫山戯にしては、度を超している。

「仕方ねえな。予定通り先に進んで最終地点を目指すか」

 狭い通路で無理矢理前後を入れ替えて、元通りエベラルド、女性、子ども、スミスの並びになった。

 地下通路は当然真っ暗だ。小さな灯りだけを頼りに進むのは、か弱い身にはさぞかし不安なことだろう。

 エベラルドは配下の妻の様子を気にしたが、彼女は案外冷静な顔を貫いている。

 しんがりのスミスのびくつき具合とは雲泥の差だ。

「そういえば、侯爵がおっしゃっていましたね。幼い頃に肝試しをしていたと」

 エベラルドは空気を軽くしようと、話題を振ってみた。

「ああ、ええ。両親に内緒で屋敷を抜け出して、アンナや地元の子と一緒に」

「なかなかなお転婆具合だ」

「昔の話です」

 ハリエットは少し郷愁にかられたように、しんみりとした声になった。

「どんな場所でされたんですか? 夜の森とか?」

 エイミーが気を紛らわすように、明るく訊ねる。

「そうね。森でもしたし、ちょっとした洞窟でもしたかしら」

「楽しそう!」

 今現在、楽しくなくなってきた肝試しの真っ最中であるのだが、エイミーははしゃぎ声を出した。

「……君のそういうとこ、尊敬するよ」

 父親の目の前で、その娘と手を繋ぐというなんとも居心地の悪い行進に、アルはげんなりしていた。

「アル、気持ちは分かるが、娘の手を離さないでくれよ」

「分かってます」

「何よ。嫌なら離しなさいよ」

「おまえ少しは父親の話を聞け」

 ふん、と横を向くエイミーの頬は、誰にも見えていないがほんのり赤い。

 拍子抜けするくらい、それからは何も起こらず何も聞こえず、目的地に辿り着いた。そこに辿り着いたことを証明するために持ち帰る品がいくつも残っていた。

 エベラルドとハリエットは、それぞれ自分の物を取り返して安堵の息を吐いた。

 残った物は、消えてしまった後続組の物か、ついぞ合流できなかった前の組の物か。分からないが、こんなものを放置しておくわけにはいかない、とアンナが持参した麻袋にまとめて入れてしまった。

「あ、アンナさん、あたし持ちます」

「重いですよ?」

「大丈夫。あたしは両手が空いていても何もできないから。アンナさんはハリエット様のために備えてください」

 殊勝な物言いに、スミスは娘の頭を撫でた。

「一緒に持つよ」

「いいよ。却って持ちにくい」

 身長差を指摘されたと思ったアルは鼻白んだ。それでも、再び差し出されたエイミーの右手をしっかりと握り直す。

 事前に指定された道順通りに行くならば、証拠の品を取った後は右に真っ直ぐ進んで、別の出口に向かうことになっている。

 入り口が塞がっているため、出口に向かう以外の選択肢はない。決まった進路以外の道は調査が進んでいないため、迷う危険性も含めて選ぶわけにはいかなかった。

 エベラルドはひとりで先に偵察をして来ようかとも考えた。が、他の騎士が姿を消してしまった今、これ以上ばらばらになってしまうのは得策ではない気がした。

 ならばこのまま、全員で先に進むしかない。

 エベラルドとスミス、アンナは守るべき者を抱えた緊張感を、ハリエットとエイミーは彼らの邪魔をしないよう立ち回れるかという心配を、アルはそのどちらもの気持ちを胸に、暗闇のなかを進んだ。


「…………っだよ、これ」

 地上へ通じる階段を警戒しながら上ったエベラルドは、そこに広がる光景の馬鹿馬鹿しさにしゃがみこんだ。

 最後の仕事と、なんとか気合いを入れて数段下がると、下に向けて声をかけた。

「大丈夫です。どうぞ上へ」

 最初にアンナが上がって来るのに形ばかり手を貸して、続いてスミスからハリエットの手を受け取るように地上へ導く。

 子どもふたりはまあいいかと再び地上に出て、エベラルドは首謀者の姿を探した。

 少年侯爵は、屋外に設えられた宴席の真ん中で、にっこり微笑んで手を振っていた。

「……侯爵。趣味が悪いですよ」

「やだなあ、文句は保護者に言ってください」

 エベラルドの後ろをついて来ていたハリエットは、何故か小さくなっている。

「……ごめんなさい、エベラルド様。わたしのせいです……」


 恥ずかしそうに俯くハリエットの話を要約すると、ウィルフレッドは昔のハリエットの真似をしたのだということだった。

 十年以上前、ハリエットは地元の子ども達を巻き込んで、大掛かりな試肝会を催し、それに両親を招待した。

 母親の誕生日の夜のことである。

 侯爵の誕生日は家族だけのものではないから、ハリエットとウィルフレッドは母の誕生日を楽しみにしていた。

 そんな日に彼女は、今日ウィルフレッドが仕掛けたような悪戯を仕込み、びくびくしながら帰って来た両親に、誕生日会を用意して待っていたのだ。

 もちろんその席を用意したのは使用人達だが、何日もかけて準備し、采配を振るった娘に侯爵夫妻は驚き、やりすぎだと叱ることも忘れて大笑いしていた。

「あのとき、前準備のための肝試しに出掛けていく姉上を見て、どれだけ悔しい思いをしたことか」

「……ウィル、今日は」

「そうです。僕の誕生日です。自分でお誕生日会を用意するくらい、可愛いものでしょう」

 先代が亡くなってからのロブフォード侯爵家にとって、ウィルフレッドの誕生日は特別な日となった。

 十三歳の誕生日にはあと四年、十四歳の誕生日にはあと三年、と成人して侯爵位を嗣げる日を、祈るような気持ちで待ち望んだ。

 侯爵代理となったハリエットはもちろん、姉に守られるしかない自分を歯痒く思っていたウィルフレッドも同じ気持ちだった。自分の誕生日を、幼い子どもよりも強く待ち焦がれた。

 成人を迎えた日は、領地を挙げて盛大に祝った。

 ハリエットが守り続けた侯爵の席は、座ってみるとなんでもない物だった。正統な後継者であるウィルフレッドが侯爵位を嗣ぐに当たって、横槍は一切入らなかった。

 王も、侯爵代理に求めたような働きを、ウィルフレッドには要求しなかった。

 それは、彼が男だからだ。彼が爵位を嗣ぐための見返りを求める理由が、王にはなかった。

 亡き侯爵の成人した長子でありながら、女であるというその一点だけで、ハリエットは苦労を重ねたのだ。

 そのことに気づかされた一年だった。

「もう。最初から普通に言いなさいよ」

「それじゃ面白くないでしょう。今年からは楽しく歳を取っていけると思うと、嬉しくて」

 万感の思いを込めて、ハリエットは弟を抱きしめた。

 ハリエットは十七歳からの娘時代を失ったが、それと同時にウィルフレッドも、無邪気でいられるはずの子ども時代を手放さざるを得なかったのだ。

「そうね。今までごめんなさい。十八歳おめでとう、ウィルフレッド」

「今までありがとう、姉上。……あは。ちょっと小隊長の顔が怖いから、一応謝ってきます」

 姉弟の空気に遠慮して距離を取っていたエベラルドに、ウィルフレッドはにっこり微笑みかけた。

「僕からの贈り物、気に入ってくださいました?」

 まったく謝る気のない台詞だった。

「ちょっとウィル、元々エベラルド様のものでしょう」

「…………確かに、受け取りました」

 エベラルドの抑えた怒りが仄見える。その怒りは、明日以降ライリーに向かうのだろう。


「あら、そういえば、ライリーは?」

 ハリエットは今更ながら夫の姿が見えないことに気づいた。

「亡霊にでも捕まったか」

 エベラルドが無責任なことを言う。

「亡霊?」

 首を傾げたウィルフレッドに、ハリエットは怪訝な顔を向けた。

「あの唸り声、あなたの仕込みなんでしょう?」

「唸り声? 僕は宴席の準備を手伝ってもらうために後続組に途中で引き返すよう伝えて、入り口を塞いだだけです」

「……じゃあ、あの声は」

 さすがに気味が悪くなってきたエベラルドが眉をひそめる。

「大変。ふたりを探しに行かないと」

 青褪めたハリエットを押し留めて、エベラルドが辺りを見回す。

 篝火がいくつも焚かれた夜の宴席は、全員の顔が見渡せた。

「おい、前半組! ザック達はどうした? 追い越したのか?」

 二番手のふたり組が、さあ、と首を傾げる。気遣う相手のいなかった彼らは唸り声のことなど特に気にも留めず、情緒も何もなくすたすた進んで行ったらしい。

「俺が探してきます。子爵夫人はここでお待ちください」


 エベラルドが地下へ続く穴に向かうが、そこに至るまでもなく、ライリーが飛び出してきた。続けてザック、その後ろからは何故かアドルフ騎士団長の姿が続いた。

「よかったあ。全員帰ってきてますね」

 何故か泥だらけのライリーとザックが、達成感いっぱいといった様子で笑っている。

「団長、何故ここに」

「はいはい! 俺達時間稼ぎしてましたっ」

「ほら、途中団長の居室の真下を通ることになってたろ? 部屋の中に隠し扉があったらしくってさあ、気をつけてたのに気配でバレて追いかけられたんだよ。捕まったら肝試し中止になるかと思ってな。咄嗟に調査が進んでない道に飛び込んでやった。死ぬかと思ったぜ」

「通路が狭くて難儀をした」

「……地下の気配って」

 ハリエットが呆然と呟く。どうやってそんなものを感じ取るのか。

「業を煮やした団長が、すぐに投降しないと、もろともこの地下通路を破壊するぞって言うから、渋々自首しました」

「このひとなら、そのくらいできそうじゃん? そろそろ全員到着した頃だろうとも思ってな」

 交互に己の功績を報告してくる仲間に、最後にはエベラルドも笑うしかなくなった。

「あの声は団長か。スミスがびびって大変だったんだぞ」

 竜ではなく熊が正解だったのだ。

「でもウィル、今夜のこと、上の許可は取ってあるって言ってたじゃないですか」

 地下で騎士団長の咆哮に肝を冷やしたライリーは、義弟に文句を言うことを忘れなかった。

「ん? 陛下の許可は得ていますよ?」

「上過ぎだろ!」

 ライリーと一緒に地下を走り回ったザックは、自棄になったように爆笑している。

「さすがにこの規模の地下通路の存在を黙ってはおけないですから。騎士団に調査を依頼することと、試肝会に必要な証拠の品を置くためにちょちょいと隠し扉を開く許可を」

 半世紀もの間、誰ひとりとして存在に気づかなかった地下通路の話をしているはずなのだが、どうにもノリが軽い。

「もういい。席が用意してあるなら早く始めようぜ」

「あっ、つまめる物も置いて来たんですよ。その袋かな?」

 急に指名されて慌てたエイミーが、父親に袋を押し付けた。

 スミスが恐る恐る中身を取り出すと、食べ物と気づかれなかった油紙の包みが形を崩していた。

「申し訳ありません、侯爵。せっかく」

「大丈夫大丈夫。お腹に入ればおんなじです」

 発言が庶民的である。美しい少年侯爵を遠巻きにしていた騎士達も、段々と緊張感をなくしてきた。

「侯爵、こないだも酒の差し入れありがとうございました」

「お誕生日とは知らず、手ぶらですいません。おめでとうございます」

「いいえー。でもひとつ我儘言ってもいいですか?」

「あなたすでにいっぱい言ってるじゃない」

「団長の肩車の高さに興味が」

 みながぎょっとするが、アドルフはあっさりと頷いた。

「どうぞ」

「わーい。やっぱ高いんですねえ」

 とんでもない絵面だったが、夜中の馬鹿騒ぎに楽しくなった若者達までもが一斉に挙手をした。

「団長、おれも!」

「オレもオレも!」

「馬鹿者」


 背中に登ろうとする騎士を適当にぽいぽい放り投げて、アドルフは先に腰を落ち着けていたスミスの隣に座った。

「かがんで歩いたせいで腰が痛い。若い奴らは元気だな」

「サイラス、じじむさいぞ」

「何を言う。おまえひとつしか違わないだろう」

 かつて田舎者のアドルフを王都の街に連れ出したスミスは、隊務中ではないからと、くだけた口調になっていた。

「俺はまだ若く見える」

「ふん」

 少年の頃よりも更に貫禄が増したアドルフは、鼻を鳴らした。

「ハリエット様は可愛らしい方だな」

「……そうだな」

「ライリーより歳上なのを気にされているらしいが、俺達から見れば似合いの若夫婦じゃないか」

「まあな。まだほんの小娘だ。ホークラムも、奥方の前ではしゃんとしているようだ」

 子どものようにはしゃいで地下を走り回っていたライリーの後ろ姿を思い出して、アドルフは喉の奥から小さな笑いを漏らした。

「なあ。俺もおまえももう若くないが、そこまで老いてはいないぞ。もう結婚はしないのか?」

「する気はない」

「城下に通う先があると聞いたが」

「ああ。囲ってもいいかと思っていたが、他にも男がいるらしい」

 スミスは顔をしかめた。幼い頃からずっと同じ女性と一緒に生きてきた彼には、あまり理解できない話だ。

「そうか」

「子ができても困るだけだしな。問題はない」

 アドルフがさらりと言った台詞に、スミスが反応した。

「あ、それ。気をつけてるって言ってたけど、効果あるのか? 一度も失敗してない?」

「今のところな」

「教えてくれよ。うちも今更できても困ると思ってるんだ」

「そういう話なら、あいつのほうが詳しいんじゃないか」

「おお、そうだな。おいエベラルド! こっちでおっさんの相手もしてくれよ。ああ、ライリーは来なくていい。おまえには一番必要ない話だ」


 年長組の声が聞こえないところで、ライリーは地下から持ってきた自分宛の袋を覗き込んだ。

 その中には、失くした大事な手巾の他に、綺麗に加工された兎の毛皮が入っていた。

 ライリーが野営訓練で狩ってきたものだ。気づいたときにはすべて調理されていて、ハリエットへの土産にできなかったと悔しがったのはつい最近の記憶だ。

 ウィルフレッドが毛皮の一部をライリーの代わりに引き取って、加工に出しておいてくれたらしい。

 襟巻きにでもしてやってください。姉はあなたからもらう物なら、なんでも喜びますよ。

 先ほど妻の弟が囁いた言葉に、ライリーは真剣な顔で頷いた。彼は不甲斐ない義兄の姿に、さぞかし姉を案じていたに違いない。


「何が入っているのですか?」

 覗き込もうとするハリエットに、ライリーは微笑んだ。

「内緒です。あなたの失せ物は?」

「無事でした」

「しかし困ったな。ウィルの誕生日だったなんて。もらうばかりで、何も用意していません」

「大丈夫ですよ。あの子はこうやって騒ぎたかっただけなんですから」

「あなたは何か用意を?」

「これを。ライリーの手巾が羨ましいのかと思って」

 と言ってハリエットが広げたのは、絹の手巾だ。隅に金糸でウィルフレッドの名が刺繍されている。

「蔓草模様ではないんですね」

「あなたの手巾は、弟のものとは違いますから。後で渡してきますね」

 ハリエットは卓の下でそっと、弟から取り返した手巾を握りしめた。反対の手で林檎酒を口に運んで、ひと口だけ飲む。

「アル達と同じものでいいんですか? 葡萄酒をもらって来ましょうか」

「いいえ。ライリーも言っていたでしょう。お酒はほどほどにしておきます」

 ライリーは前回の宴席での妻との落差に首を傾げた。

 ハリエットは、今度は両手で手巾を握りしめた。

 彼女の宝物は、王宮で再会したライリーが差し出してくれた一枚の手巾だ。

 きちんと洗って返す用意はしたものの、手放しがたく思って、もっともらしい言い訳を添えて別の手巾を返してしまった。多分ライリーは、とっくに捨ててしまったものと思っているだろう。

 弟には気持ち悪い、などと悪態をつかれたけれど、こうして持っているだけで、心を安らかにしてくれるのだ。

 今はまだ、確実とはいえない。

 だから夫にも言えなくて、だけど早く言いたくて、落ち着かないこの気持ちを、鎮めてくれるお守りになっている。

 今はまだ。 

 酒豪の彼女が子どもと同じものを飲み、足場の悪い地下を歩くために夫以外の男性の腕を躊躇なく借りた、その理由を、まだライリーに告げることはできない。

 何故だかよく分からない自信はあるけれど、未知の感覚すぎて、上手に説明できそうにない。万一違っていたときに、がっかりさせたくもない。

 ちゃんと伝えることができるその日まで、手巾にこの気持ちを預かってもらうのだ。


 ライリーの手巾を拾ってウィルフレッドに預けた騎士は、実家が代筆屋をしている。

「ライリーの手巾さあ」

 家業は兄が継いだが、彼も文字には詳しい。飾り文字を読み解くのも得意だ。

「失くしたって落ち込んでたやつ? 拾ってやったんだろ?」

「模様に見せかけてハリエットって書いてあった。夫人の瞳と同じ色の糸で」

 その意味することは、いつもあなたと共に。

「まじか」

「これライリーに教えてやるべき?」

「ほっとけよ。知らなくても幸せいっぱいなんだから」


 もうすぐ、一年に一度の大掛かりな騎士の授任式が行われる。

 同時に団員の大規模な異動の発表もある。

 謂わば、王立騎士団の新しい年度の始まりなのだ。

 これからエベラルドは中隊長に昇格し、ライリーはその副官となる。

 こいつが同格か、と昔従者だったエベラルドに副業中に口に入れられる物を握らせてやっていたスミスは顔をしかめたりもしている。


 彼らはそれぞれの目標に向かって、少しずつ歩を進めている。

 引き返すことは、誰にも許されていないのだ。

 ただ、後ろに道がない代わりに、前には大小様々な道が幾つも延びている。

 どの道を選ぶのか、どの道も選ばず立ち止まるのか。

 それは彼ら次第だ。

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