あなたの手巾は 前編
いろんな人が出てきて、時系列や視点がよく飛びます。
ちょっと無茶苦茶な展開になっていますが、書きたかったので開き直って書きました。
作者の自己満でしかない話ですが、お楽しみいただけましたら幸いです。
何故こんなことになってしまったのか。
ウォーレン・スミスは辺りに気を配りつつ考えた。
どこで間違えたんだ。
こっそり家を出ることに失敗して娘に見つかったのが原因か。否、その前に階級が下であるはずのエベラルドの脅しに屈したのが悪かった。上官として、もっと毅然とするべきだったのだ。
そもそもあんな奴に脅しのネタを握らせた娘が悪い。いやいや子の教育は親の責任だ。ならば結局自分が悪いということになるのか。
娘がああなってしまったのは、隣人のライリーのせいではないか。そうだ。あの青年が無害な顔をして、いたいけな娘をたらしこんだのが悪い。
……あれ? 娘にライリーの存在を植えつけたのは、自分ではなかったか。
やっぱり自分が悪いのか。
「スミス様? どうかされましたか?」
まあいいか。
ウォーレンは途中でどうでもよくなって、思考を放棄した。
彼は幼馴染と早くに結婚したため、過去に妻以外の女性との接点は皆無と言っていいほどなかった。
三十を過ぎてから、うら若い美女と腕を組んで歩く機会が巡ってこようとは、夢にも思わなかった。
何も疾しいことはないのだから、ほんの少し浮かれたってバチが当たるものでもないだろう。
ウォーレンは気合いを入れて、自身の左腕に掴まる貴婦人に向けて凛々しい表情をつくった。
「いえ、ハリエット様。今頃ライリーが心配しているだろうと思いまして。早く済ませて帰りましょうか」
「ええ。エイミーもお父さまを待っていることでしょう」
それはないな。ウォーレンは思った。
あのじゃじゃ馬娘は、今頃楽しくきゃっきゃとはしゃいでいるに違いない。
まったく子どもというものは、とまで考えて、ウォーレンは事の発端を思い出した。
始まりは、この美しい貴婦人の弟の発言からだったのだ。
ライリーは真剣に悩んでいた。
朝から、などという最近の話ではない。もう三日、悩み続けている問題があった。
「おい、ライリー」
答えが見つからないのだ。見つかるまで探し続けなければならない。
「…………え? あ、はい」
上官の呼び掛けに対する応えが遅かった。それも隊務中にだ。
ライリーは兜の後頭部を掴まれ、投げるような要領で前方に強く押された。
殴ったら自分の手が痛いからだろう。いつもと違うどつき方をしたエベラルドは、つんのめったライリーに凄みを効かせた。
「交代だ。甲冑を脱いだら、すぐに小隊長室へ来い」
「はっっ」
ライリーは大急ぎで騎士団の詰所へ戻り、脱ぎ捨てた甲冑の片付けを従者に丸投げすると、小隊長室まで走った。
「ライリー・ティンバートン、じゃなくてホークラム、入ります!」
「おせえ!」
入室した途端、怒声が飛んだ。
「はっっ! 申し訳ありません!」
どうやってもこれ以上早くに来るのは無理だったが、ライリーは条件反射で謝った。
「苦情が届いてる。ライリーのせいで、警備の相方までまとめてゴミを見るような眼で見られる、とな」
「ええっと……」
「奥方とは和解したんじゃなかったのか。やっぱり愛人をつくることにでもしたか」
「違いますよ!」
「じゃあなんで道行く女を片っ端から凝視してんだよ」
ライリーはつい最近長年憧れ続けた歳上の女性と結婚し、紆余曲折の末に想いを通わせたばかりだ。
その妻のハリエットは現在、実家の侯爵邸で暮らしているため、暇を見つけてはせっせと通う日々を送っている。
三日前には、五年前に約束した茶会の招待を受けて、紅茶と甘い菓子をご馳走になってきた。
そこで贈り物を受け取ったのだ。
ライリー様の手巾を台無しにしてしまいましたので、代わりにこれを。
とハリエットが差し出したのは、綿の手巾だった。手巾には彼女の手による繊細な刺繍が施されていた。
刺繍の見事さといい、ほとんど国内に流通していない素材といい、どう考えても使い古しの手巾の代わりに、などと謙遜して差し出すような品物ではなかった。
それがライリーの悩みの種となっている。
「……贈り物を、したくて」
お返しをしなければいけない。例えそんな出来事がなかったとしても、恋人に贈り物のひとつもしたことがないというのはいかがなものか、と今更ながら気づいてしまったのだ。
「ああ?」
「妻に贈り物をしたいけど、どんなものがいいのかさっぱり分からなくて悩んでいます!」
そこで、女性はどんなものを好むのか、何か参考になるものはないか、通りすがりの女性の持ち物を観察してみることにしたのだ。
「そんなことぁ、非番中に考えろ! 騎士団の制服を着て不審者扱いされるような真似は、金輪際するんじゃねえ!」
叱られてしまった。それでもなんとか、答えを見つけなければならない。
宝飾品? 帽子? それとも靴か? 予算は限られているのだ。侯爵令嬢に安物を贈るわけにはいかない。
そもそも身に付ける物は避けるべきだ。趣味の悪いものを贈っても困らせるだけだ。
「誰か助けてください……」
ライリーは普段使わない頭を使い過ぎたせいで夕食時には疲れ切ってしまい、だらしなく卓に突っ伏した。
「て言ってもなあ」
「侯爵家のお姫さまだろ? 欲しい物なんかすぐに手に入るだろ」
「これまでにも山ほどの貢ぎ物を受け取ってきてんだろうからなあ」
建設的な意見はどこからも出てこなかった。
そこでみなの視線が集まった先は、騎士団一の色男の元だった。
「エベラルド、なんか助言してやれよ」
餅は餅屋、女のことは色事師に、だ。
エベラルドは焼いた鹿肉を口に放り込んで咀嚼すると、素晴らしい答えを期待する連中に流し目をくれてやりながら、簡潔にこう言った。
「分からん。女に贈り物なんかしたことねえもん」
彼は物で女性の気を引く必要がないのだ。
男達は色男を妬む気も失せて、すい、とエベラルドから視線を外した。
「おんなじ貴族の女に訊いて来いよ。ライリーには実家があるだろ」
ライリーは嫌そうにその意見を却下した。
「母親に訊くんですか?」
人にもよるが、十代の若者の大半が避けたい提案だ。
結局ライリーは、困ったときにゃ花でも贈っとけ、との意見を取り入れて、王宮の庭師の元を訪ねた。庭園の手入れを手伝う見返りに、色とりどりの珍しい花をまとめた花束を作ってもらい、侯爵家を訪問した。
恋人は花束よりも美しい笑顔を見せて喜んでくれた。
これで正解だったのだと、ライリーは胸を撫で下ろしたのだった。
エベラルドは割と筆まめなほうだ。
故郷からしょっちゅう届く幼い筆跡が、少しずつ整ってくるのを楽しみに受け取り、返事を書いていた。
先日も、今年は休暇が五日しかないから帰れない、と手紙を書いたばかりだ。その返事が今日届いた。
最近は少し憂鬱になってきてはいたのだが、それでも手紙を受け取れば筆を執ることに疑問はない。
「女からか」
と手紙を覗きこむ者には、
「いもうと」
と言葉少なに答えて手元を隠す。
「あ、アデラですか。元気にしてるんですか?」
「多分な」
「ライリー、おまえエベラルドの妹に会ったことあるのか」
「西の砦にいたときに少しだけ」
「似てるのか?」
美形男の妹なのだから、さぞかし美人なのだろうと期待する質問に、ライリーはちらっとエベラルドの顔を窺った。
顰めっ面ではあるが、答えることを禁じる空気ではない。
「あんまり。ちなみに、まだ小さい子ですよ。十代前半とかそのくらい」
なあんだ、と興味を失った男達が解散する。
「今頃十五にはなってるはずだけどな」
とエベラルドはぼそっと呟いて、返事を書くべく自室に篭るのだった。
ハリエットはウィルフレッドからの招待を受けて、アンナと共に実家を訪れていた。
ライリー達がホークラムから帰って来ると、ロブフォードに帰省していたアンナはすでに長屋に戻って来ていた。主人夫婦を出迎えるため、事前に掃除をして待っていたのだ。
強行軍で疲れ切っていたハリエットをアンナに託し、ライリーは帰都の翌日から通常隊務に戻った。
ハリエットは帰りも旅程を短縮することを承諾したことを後悔しながら、寝台の上から仕事に向かう夫を見送った。
二日ほど身体を休めて疲れを取り、通常の生活に戻ろうとしたところに弟から連絡があったのだ。
「姉上、ホークラムはいかがでしたか」
「素敵なところだったわ。湧き水を汲んだり、馬で領地を廻ったりして過ごしたの」
ウィルフレッドはにこにこして姉の話に耳を傾けていた。
「そう。よかったですね」
「それで、ウィルはなんでまた王都に戻ってきたの?」
ロブフォードは王都から丸一日、街道の整備が進んでいることもあり、馬車で行き来できる、王都から比較的近場の領地である。
だからと言って、領地に帰って半月もせずに王都にとんぼ返りするほどの距離ではない。
「ん? アンナがひとりで帰るというのも物騒ですしね」
ハリエットは疑わしげな目で弟を見た。
アンナはハリエットと同じ二十三歳、若い女性ではあるが、下手な従騎士よりは腕が立つ。女性のひとり旅は物騒と言っても、下手に人数が増えれば、却って彼女の足手纏いになるのだ。
それはウィルフレッドもよく分かっているはずだ。
「何を企んでいるの?」
「やだな。アンナは僕にとっても大事な侍女ですよ。別に、……あ」
手元を見ていなかったウィルフレッドが、茶器を派手にひっくり返した。がしゃん、と高い音を立てて、まだたっぷり残っていた紅茶が卓上に水溜まりをつくる。
「きゃっ」
ハリエットは慌てて、無意識のうちに手元で弄んでいた手巾を持ち上げた。が、もう遅かった。
手巾は紅茶色に染まってしまった。
「! ごめんなさい!」
ウィルフレッドは慌てて姉の手から手巾を取り上げ、侍女に渡した。
「姉上の大事なものだから! 急いで染み抜きさせてきて!」
「いいわよ、自分で」
「駄目ですよ。姉上もアンナも染み抜きなんてできないでしょう。あれには熟練の技が必要です」
確かにハリエットもアンナも、スミス夫人から家事のいろはを伝授されているところ、いわば修行中の身である。任せてしまうのが正解だろう。
「……じゃあ、お願いしようかしら」
「それがいいです。また今度お返ししますから、安心してください」
にこにこする弟に不信の目を向けつつも、ハリエットは提案を受け入れた。
結局その日、ウィルフレッドが王都に戻ってきた理由は分からないままだった。
「ねえ、ウィルから何か聞いていませんか? あの子、絶対に何か企んでいると思うんです」
「……ううん。そうですねぇ」
ホークラム家では、蝋燭を節約するために夜は早くに就寝する。
朝早くから起き出して慣れない家事に勤しむハリエットは、宵っ張りだった侯爵夫人時代よりも身体の調子が良い。人間らしい生活を送れていると感じている。
四つ歳下の夫と暮らし始めてから、なんだか肌の調子も良くなって若返った気もしているのだ。さすがに十九には見えないだろうが、少しでも釣り合いが取れるようにと、見た目年齢のことはいつも気にかけている。
それもいつでも真っ直ぐな気持ちも向けてくれる夫を想ってのことなのだが、今夜のライリーはハリエットの話にも上の空だ。
「ライリー? 聞いていますか?」
「はいっ、また明日探してみます」
「……何を?」
「あっ……じゃなくて、おやすみなさい?」
今は何か別のことで頭がいっぱいなようだ。
おたおたと慌てる夫を見て、ハリエットは就寝前のおしゃべりを切り上げることにした。
「はい。おやすみなさいませ」
少し拗ねたみたいになってしまった。
実際にそんな気持ちもあったのも確かだから、別にいいかとライリーに背を向けて横になり、目をつむった。
すると、すぐに背中が温かくなった。ライリーの腕の中にすっぽり収まってしまったのだ。
「あの、……ごめんなさい、聞いていませんでした」
ライリーの手はいつも温かい。お腹のあたりに触れられると、布越しでもじんわり伝わる温もりが心地良くて、ぐっすり眠れるのだ。
「はい。大した話はしていません。大丈夫ですよ、おやすみなさい」
ハリエットが身体にまわされた腕をぽんぽんと叩くと、ライリーは安心したようにすぐに寝息をたてはじめた。
さて、夫の探し物とは何かしらと考えながら、規則正しい心音に包まれたハリエットもほどなく眠りについた。




