約束の写真
「そんなものはもうどこにもないし、俺はこんな世の中で空を飛ぶ方法は知らない。もう話は終わりだ。俺は帰るからな」
そう言って、青年は問答無用に喫茶店から出て行った。
低い声で有無を言わせぬその様子に少女は完全に気圧されてしまい、呼び止めることすらできなかった。他に客のいない喫茶店には少女とマスターだけが静かに佇んでいた。
やがて沈黙に耐え切れなくなった少女はため息をつきながらカウンター席へと座る。
「あはは、少し、びっくりしちゃったな」
「無理もない。あいつのあの声はわしも久しぶりに聞いたわい」
マスターがそう言って励ましてくれたが、少女の心境は暗いままだった。
「嬢ちゃん、わしも気になっておったのだが、そこまでこだわる約束とはなんなのかね」
「・・・そうよね、やっぱりそこが気になるわよね」
「言いたくないなら無理強いはせんが、この世の中だからのう」
少女は正直言って、かつての父と交わした約束のことを他人に話したくはなかった。
少女だってつらい目にあわなかったわけではない。早くに父親を亡くし、唯一の家族であるところの母は異常なまでに空を恨んでいる。そうでなくとも青いスクーターを乗り回すだけで周囲から冷たい目で見られるのだ。
だから自分の約束を他人に話したところで共感してくれる人は一人もいなかった。この事実は少女に深く刻まれており、父との約束を口に出すことはためらっていた。
それでも、このマスターになら話してもいい気がしていた。なぜそう思ったのかは少女自身、分からない。客がいない喫茶店という雰囲気のせいか、青年の凄みに圧倒されて疲れているのか、単に誰かと話したかっただけなのかもしれない。
「私ね、小さいころにお父さんを亡くしたの。それで、お父さんは亡くなる前に私にこの写真をくれて、いつか連れてってくれるって約束したの」
そう言いながら少女は夜の街の夜景を空から撮った、その写真を取り出した。
それを見たマスターは息をのむ。
「これは・・・まだこんな写真が残っておったとは・・・」
この写真をいつも見ていた少女にとってみれば珍しさのかけらもない見慣れた写真だが、マスターにとってみるとそうではないらしい。
マスターは続けてこう言った。
「いいか、嬢ちゃん。この写真は今の時代となっては本当に貴重なものじゃ」
「ええ、もちろん分かってるわ。だからこそ、あまりあの人には見せたくなかったの」
「いや、その写真はあの青年に見せるべきじゃ」
「えっ、どうして?」
「その写真は今の時代で貴重という意味もあるが、人の心を動かす何かを持っておる」
「人の心を動かす?」
「そうじゃ、それは嬢ちゃんが一番よく分かってるはずじゃ」
そう言われて少女は思い出す。確かに、この写真がなければ今頃空を目指そうなどとは思っていなかっただろう。もしかすると、世間や常識に飲み込まれて空を恨んでいたかもしれない。
「ええか、嬢ちゃん。わしがもう一度、あの青年に会わせてやる。そのときに、その写真を青年に見せるんじゃ。あいつは今でこそあんなだが、昔は空を飛ぼうと躍起になっていた熱い男じゃ。嬢ちゃんの気持ちはきっと分かってくれる」
「そう、かしら・・・そうね、そうに違いないわよね」
少女はそうつぶやくと、再びその目に強い意志を宿して青年の説得を試みることを決意する。
「マスター、これ、私の連絡先。準備ができたらいつでも呼んでちょうだい。どこからでもすぐ飛んでくるから!それじゃ、コーヒーありがとう!」
そう言って少女は喫茶店を飛び出していき、スクーターにかけてあったシートを勢いよくはぎとると、軽快なエンジン音を響かせて去って行った。
*
客のいなくなった店内でマスターがひとり呟く。
「あいつら、騒ぐだけ騒いで金も払わずに出ていきやがった」
だが、マスターは金のことには一切関心がなかった。ただ、空喰いの支配するこの世界であのような若者がまだいることの嬉しさのほうが勝り、気分は悪くなかった。
「さて、代金は利子乗せてツケにしといてやるかのう。それよりも、と」
マスターはカウンターに置かれている古ぼけた黒電話の受話器を持ち、ダイヤルを回す。今ではどこにも売っていない骨董品だが、現役でこの喫茶店の連絡手段として働いてくれる。
「もしもし、わしじゃが」
マスターはどこかに電話をかけながら、話し相手に告げる。
「ええか、あの場所には手を出すなよ。あそこで起きることはわしの領分じゃ」
それだけ話すとマスターは受話器を置く。
「さて、あとはあの青年次第か。まあ、あの嬢ちゃんとなら上手くやるじゃろう」
そう言いながらマスターは玄関にかけられている『open』のプレートを『close』に掛け直し、店から出て行った。
マスターが空を見上げると、どんよりと雲に覆われた空に切れ目が入り、陽の光が注ぎ始めていた。