少女の日常
青年が去った空港の展望台で少女は1人佇んでいた。日もだんだんと低くなり始めたので、少女はさすがに帰ろうと思い立つ。
青いスクーターにまたがり、少女は空港を後にする。
舗装されていながらも維持されなくなった道路はでこぼこで、注意深く走らなければ危険なほどだ。
慎重にスクーターを運転しながら少女は次の行動について思案を巡らせる。
(あの人が空に関心があるのは間違いないわ。あとはどうやって見つけ出すか、ね。それにあの顔、どこかで見たことがあるような気がする。直接会ったことはないと思うけど、写真で見たような)
そんなことを考えながら少女は空深市郊外へ向けてスクーターを走らせる。
ほどなくして、夕暮れ時の閑静な住宅街が近づいてくる。少女はスクーターのエンジンを切り、自分の名字が刻まれている門を通る。そして黒い軽自動車が駐車されているガレージの隅にスクーターを置き、鼠色の防雨シートをかぶせる。
ガレージの中にも関わらずシートをかぶせるのは、母がそうしろと言ったからだ。今の母は空を連想させるものが目に入ることを極端に嫌う。少女の青いスクーターは母にとって視界に入るだけで不快感を抱かせる存在だ。それでも購入することを許してくれたのは、世間的に嫌悪される色だからとても安く買うことができたのと、少女が母に対して粘り強く懇願したからであった。
少女は玄関のドアを開け、家の中に入る。すると、台所で炊事をしている母がいた。母は少女に話しかける。
「あら、おかえりなさい。勉強ははかどった?」
「うん。今度のテストはいい点とれそう」
そう少女は嘘をつく。少女は外出するときに「図書館でテスト勉強してくる」と言ったのだが、実際には空港に行っていた。テスト勉強なんてしていないし、図書館にだって行っていない。それなのに嘘をつくのは、空港に行くことを母が決して許さないことを少女は知っているからだ。
以前、少女は母に対して空はどうやって飛ぶのか聞いたことがあった。すると母は、空の飛び方ではなく、開口一番に
「どうしてそんなことを考えるの?」
と聞き返してきた。この時の母の声は驚くほど平坦で鋭く、妙な威圧感があった。
少女は「私もいつか空を飛んでみたいの」と答えた。
すると突然、少女の頬に母の手が叩きつけられた。
いきなりの出来事に少女は驚き、床に倒れるように腰を落とした。数瞬ののち、少女は母に平手打ちされたのだと気付いた。
そこからの母は完全に別人だった。大声でまくし立てていたが、何を言っていたのかはあまり覚えていない。ただ、最後に少女へ向けて放ったこの言葉は少女にトラウマを植え付けた。
「この、空憑きが!」
あの時の怒りにゆがんだ母の顔を思い出すだけで少女は不安に押しつぶされそうになる。この時の母は完全に手が付けられず、少女はただ呆然と母の喚きを聞き流していた。
そんな母もしばらく喚き散らすと、一転して目に涙を浮かべながら、「あなたに死んでほしくないの」だとか「私の気持ちも分かって」と消えそうな声で言う。
このとき、少女は母のことをこう理解した。というよりも、そう理解しないと少女の中の何かが崩れてしまいそうだった。
ああ、この人はおかしいんだ。
だからこそ、少女は図書館で勉強すると嘘をついて家を出た。空のことを話しさえしなければ母は普段通りの母でいてくれるのだから。
今は炊事をしている母ととりとめのない雑談を交わし、居間でしばらくテレビを眺めた後に少女は自分の部屋へ行く。
自分の部屋に入り、少女は部屋の鍵を閉めると学習机の奥から一枚の写真を取り出した。
それは、今はいない父が残してくれた写真。まるで星空のように光の粒がちりばめられたその写真は、父が空から街の夜景を撮影したものだ。少女はこの写真を眺めることで、父との約束を思い出し、そして約束を果たす気持ちを再確認する。
少女の生きるこの世界では空を飛ぼうとすることは完全に禁忌とされている。その気持ちを誘発するようなこの写真は、持っているだけで犯罪者扱いされても不思議ではない。だから少女は引き出しの奥に隠すように、今も写真を持ち続けている。それに今の母ならば、父の形見であろうと容赦なくこの写真を処分するだろう。
少女は写真を見つめ終えると、再び丁寧に引き出しの奥へしまい込む。
そして少女は頭を切り替えて青年を捕まえるための方法を考え始める。
どこかであの青年を見たことある気がしていた少女だが、少しずつ思い出し始めていた。あれは確か、中学生の時に見た新聞の記事かテレビのような報道だったと思う。
そこで少女は、自分が中学生のころの出来事や、この空深市で何が起きていたのかから調べることにした。空喰いは世界に大きな影響を与えたが、空落ちの日から残っている技術としてインターネットがある。宇宙空間を漂う衛星を使った通信や長距離無線は使えなくなったと学校で習ったが、地上や海中に張り巡らされた通信ケーブルには何の問題もなかったらしい。
早速、少女は机に置かれているノートパソコンを開き、インターネットで情報収集を始めるのだった。