青年の日常
青年は車で空深空港から移動を始める。あの空港で人と出会うことなど、この数年では全くなかった。さらに、まさか「一緒に空を飛びましょう」などという馬鹿げた誘いを受けるとは全くの予想外だった。今頃、あの青いスクーターで壊れかけの道路を走っているかと思うと後ろ髪を引かれる思いもあったが、そんなことに構っていては帰られなくなりそうだったので気にしないことにする。
しばらく車を走らせ、山を下りていくと空深市の郊外が見えてくる。ここまでくれば、少しは車が行き交うようになり、ちらほらと歩行者も目につき始める。
人類は空喰いによって空を失ったが、それでも滅亡するようなことはなかった。空という交通手段がなくなることで、より地上の交通が発達した。高速道路や鉄道はさらに整備が進み、空落ちの日以前と比べると倍増したともいわれている。
ありとあらゆる航空機が落ちてきたことによる死者は数えきれないほどいたが、それでも残された人々は空を失ったまま生きていた。
郊外道路を走ること10分、住宅街に差し掛かろうというところで一軒の喫茶店が見えてくる。レンガ造りの建物で、どこか洋風めいた喫茶店には広い駐車場があったが、そのどこにも車は見当たらない。
青年は相変わらず不景気な店だと思いながら広い駐車場の端に車を駐車させる。
車を降りると、店の扉に『喫茶店イカロス』と書かれたプレートとともに、『open』という文字がぶら下がっていた。
営業中であることに少しばかり安堵しつつその扉を開くと、カランカランという乾いたベルの音が鳴る。店舗に入ると、窓際のテーブル席にも反対側のカウンター席にも客の姿はなく、暇そうにマスターがグラスを磨いていた。
「いらっしゃい」
「マスター、相変わらず客がいないが大丈夫か?」
「心配するな。客なら今、目の前におるわい」
白いあごひげを生やした、そろそろ初老を思わせるマスターはそう答える。
「で、今日は何にする?」
「コーヒーをブラックで。あと適当に甘いもの」
「あいよ」
慣れたやり取りを交わして注文を終える。果たしてここに通うようになって何年経つのだろうか。気づけばこのほとんど客のいない喫茶店が気に入っていたのかもしれない。
「ところでお前さん、また空港に行ってたのかね」
「ああ」
「しかしあんたも物好きだねぇ。あんなところに行っても何もないだろうに」
「確かにそうだな」
青年はそう答えながらも内心ではそうでもないと思っていた。何しろ、ついさっきまであんな出来事にあったばかりなのだ。今でもあの少女が特異な存在として強く印象に残っていた。
「大体、そろそろ定職にでも就こうとは思わんのかね。バイトでずっと暮らしていけるとも限らんだろうに」
どうやらマスター恒例の説教が始まったらしい。それもいつものことなので、青年は適当に頷きながら聞き流す。
マスターと話し込んでいると、外の景色が段々と赤みを増してくる。喫茶店の時計を見ると日暮れも近い時間を指し示していたので青年は立ち上がり代金をカウンターに置く。
「なあ、マスター。次はいつ店が休みになるんだ?」
「そんなの、このワシの気分じゃな。ワシが休みたいときに休み、開きたいときに開く。それが喫茶イカロスじゃ」
「そんなんだから客が来ないんじゃねぇのか・・・」
そう、この喫茶店は営業時間が決まっていない。だから青年はここに来る頻度がそれなりにあったとしても、毎回コーヒーが飲めるわけではないのだ。
「まあいいさ。せいぜい潰れないよう気をつけなよ」
「お前さんもさっさと身を固めるんだな」
余計なお世話だ。青年はそう思ったが、きっとマスターも同じことを思っているだろう。
そう思いながら扉を開け、カランカランという音を響かせながら店から出る。再び車に乗り込み、青年は自分の住処へと戻っていく。
昼間はよく晴れて突き抜けるような青が広がっていたが、この時間になると空は茜色に染まり、東の空からは藍色の夜が少しずつ侵食してきていた。
赤信号で車を停止させ、それとなく2色のグラデーションを演出する空を見上げていると、かつての空を思い出す。あの頃はジェット機の機影やエンジン音、ヘリコプターのプロペラが空を切る音が1日に数回は聞こえてきていた。
それなのに、今目の前に広がる空からは航空機の音はもちろんのこと姿かたちなど一切見当たらない。空喰いは人類から空を奪い去ったが、それでも見上げればそこに空はある。ただ、そこに人が踏み込むことができなくなっただけだ。
信号が青に変わったので思考を断ち切り、運転に集中する。
静かな空には、ただ星だけが光り輝き始めた。そこに人工の光を灯すことは法が、思想が、常識が、何より空喰いが許しはしない。
青年は、かつては学生寮だった今の住処へ戻ってくると、そういった現実をいつも思い知らされる。人のいない空港、人のいない喫茶店は、静寂とともにまるで穏やかな日常を感じさせてくれるが、日も暮れて街灯の光がぼんやりと照らすこの建物を見ると現実を知る。
その建物の窓ガラスは割れ、コンクリートは一部が黒ずんでおり、玄関先にはゴミ袋の堆積した、まるで取り壊し寸前の廃屋のようだった。
これらはまだ自然現象による老朽化とゴミの捨て忘れとごまかすこともできたが、明らかに不自然なことがあった。
5階建ての元学生寮の1階外壁にはペンキやスプレー塗料で落書きがされていた。
いや、それは落書きなどという生易しいものではない。明確な違いは悪意の有無だ。
”空憑き” ”消えろ” ”空に手を出すな” ”空喰いに喰われろ”
これが現実。
窓ガラスが割れているのもどこかの子供に石を投げられたからであり、コンクリートの一部が黒ずんでいるのはどこかの学生が火であぶったからであり、玄関先のゴミ袋はどこかの主婦が捨てていくからだ。
老若男女問わず、青年に対して悪意の矛先を向けていた。これが、かつて空を飛ぶことを夢に見てまっすぐに勉学を重ねた青年の末路。
だからこそ、青年はかつての学生寮である、この異常な空間に足を踏み入れながら思うのだ。
あの少女はまともじゃない。