空高く舞い上がるその時まで
良く晴れた青空の下、車を運転しながらそれなりに急な下り坂を走っていると、交差点が見えてきた。右の交差点脇には何年もの間、使われていなかったコンビニ跡地があるはずだったが今は再び営業を始めたようだ。広い駐車場には何台か車が停まっており、店舗の軒先にはタバコを吸っている人も見える。
その交差点を右折し、少しだけ上り坂を上るとバイパスとの合流車線が見えてくる。後続車に注意しながら合流し、すっかり整備されて綺麗になったバイパスを進んでいく。整備されて間もないこのバイパスも今やボロボロになっていたかつての姿は見る影もない。
そのままバイパスを直進していくと右手に巨大な建造物が見えてくる。オレンジ色をした巨大な鉄塔は今でも緑の苔が目立つが、どうやらここまでは手が回っていないらしかった。
やがてバイパスも終わりを告げ、広い駐車場が見えてくる。ちらほらと空きスペースは見えるが、そのほとんどは色とりどりの車でひしめき合っている。他の車にぶつけないよう注意しながら駐車スペースを探し出し、お世辞にも広いとは言えない路上で上手くバック駐車する。
無事に車を停めると後部座席からやや大きめの荷物を取り出し、その施設の入口へ向けて歩く。ゆっくりと動くエスカレーターに乗り、横幅の広い屋根付きの歩道橋を歩いていると外壁に掛けられているこの施設の名前に目が付く。
空深空港
それは、かつて多くの人が空を取り戻すべく活動を繰り広げた舞台の名前だった。そのまま歩を進め、ガラス製の自動ドアを通り抜けると到着ロビーへとたどり着く。
今ではこのロビーもどこからともなく発生する人のざわめきで満たされており、ここで働く人、旅立つ人、見送る人と様々な目的を持った人々で満たされていた。
左の方へ進むと保安検査場が見えてくる。検査を待つ人が見えるが、昼時の今はそれほど混雑しておらず作られている列も数人しか並んでいない。
そのまま保安検査場を横目に見ながら通り過ぎ、展望デッキへつながるエスカレーターへ乗る。上階に到着すると再び外へつながるガラス扉が目に入り、そちらへ向けて足を運ぶ。
展望デッキへ出るとまばらに人の姿が見え、その誰もが目前に広がる3000メートルの滑走路を見ている。駐機場には巨大な旅客機の姿があり、その周囲を独特な形をした車両と整備員が取り囲んでいる。
「あら、遅かったじゃない」
声のする方を見ると、少女がいたずらっぽい笑みを浮かべながら立っていた。
「お前が早すぎるんだろ。出発は日が落ちてからじゃないか」
青年は半年ぶりに訪れた展望デッキで長い黒髪を風になびかせる少女へ向けてぶっきらぼうに答えた。
*
空を懸けたフライトで積乱雲に突っ込むという前代未聞な行動をとった結果、少女と青年は目標へたどり着き目的を果たすことができた。ところが機体も操縦者もボロボロで満身創痍だったため、再び空深空港へ戻ることは出来ずに途中の川原へ不時着することになった。窓ガラスには亀裂が入り、主翼は見るからに歪んでしまっていたが持てる知識と技量と高度を駆使してなんとか地上へ帰ることはできた。
二人とも疲労困憊で操縦席から出ることすらできずにいると、空深空港で離陸を見送った軍曹によって見つけ出され、すぐさま病院へ搬送された。少女の方は軽度な凍傷だけだったが、青年の方は骨折を完全に悪化させてしまい何か月も病床に伏せることになった。
少女のセカンドフライトは決して無事とは言えないながらも成功で幕を閉じた。
その一方で少女の手によって解き放たれたワクチンはその効果を計算通りに発揮した。人々には目に見える変化はなかったが、その心から空に対する異常なまでの恐怖心は徐々に失われていった。空を飛ぶことを禁止していた法律も全て改正され、航空技術も再び研究が再開された。散り散りになっていた航空自衛軍が再び集結し、それぞれが必死に隠し持っていた文献が活用されたことで空を再び飛行機が飛び回るのにそれほど時間はかからなかった。
病院の地下施設で抵抗を続けていたマスターたちはモーターグライダー離陸の報告を受け取った後に投降した。一時は襲撃した陸上自衛軍によって捕縛されたが法改正とともに釈放され、今は喫茶店イカロスで本当のマスターをやっているらしい。
空深空港も本来の姿を取り戻し、毎日巨大な鉄の塊がエンジンの唸り声を上げながら離陸しては着陸を繰り返している。当然、蒼空の会や少女と青年が利用していた倉庫や備品類は撤去されている。自由に倉庫も滑走路も使えなくなったことに少なからずさみしい気持ちを感じるが、それよりも空を取り戻すことができたという事実の方が重要だということは間違いなかった。7年にわたって空を失っていた人類は、その7年を取り戻そうと目覚ましい勢いで空を取り戻していった。
*
「わたし、飛行機に乗るのは初めてなんだけど」
滑走路からまた一機の飛行機が轟音とともに飛び上がっていった。その機影はあっという間に小さくなり、すぐに見えなくなる。大きさ、スピード、動力の力強さ、その全てがモーターグライダーとは桁違いであり、とても同じ原理で飛んでいるとは思えない。
「まあそう心配するな。お前のフライトより断然安定してるぞ」
「……いじわる」
青年が少しからかうと少女はむくれた。
「わかりやすく説明すれば離陸速度はモーターグライダーより何倍も速く、巡行高度は1万を超える。翼の幅は60メートルぐらいで重さは300トン以上ってとこだ」
「スケールが違いすぎて余計分からないわ」
少女の言うことは間違いない。そもそも動力を持たず自然の力だけでフライトするグライダーとは規模が全く違う。モーターグライダーに使われていた技術は高度な物ばかりだが、駐機場の巨体はそれとは比較にならないほどの先端技術の結晶だ。親方や姐さんの技術力は決して低くないが、やはり少数精鋭ではできることに限界があるのだと痛感せざるを得なかった。
「さて、早いとこ検査場を通過しとくか」
「それもそうね」
空を取り戻して数か月しか経っていない今は離陸前の検査が強化されていた。たとえイカロス症候群が解消したとしても空落ちの日での大規模な被害は歴史に刻まれ、人類の記憶に残っている。こうして飛行機が再び飛び交うようになっても墜落に対する恐怖心というのは拭い去れていない。
半時ほどかけて二人が検査場を通過すると、そこはまさしく空の玄関口と言うに相応しい待合所だった。窓ガラスの向こうには離陸を待つ飛行機が鎮座しており、ゲート前では地上係員がせわしなく手続きを進めている。
やがて二人の乗る便の搭乗案内が始まり、多くの人がゲート前に列を作り出す。そして搭乗開始の案内と同時に地上係員の人が手際よく搭乗券の確認を始め、次々と利用客がゲートを通過していく。
少女と青年もゲートを通過し、ボーディングブリッジを進んでいくと巨大な幌とつながる飛行機の入口が見えてくる。金属質な白い塗装は照明の光を反射し、硬そうで重そうな印象を与える。
そのまま機内へ進み客室乗務員の丁寧なあいさつを受けながら搭乗券に記載された指定席を探す。ほとんど機体最後尾といったところで目的の座席を見つけると少女が窓側に、青年がその隣に座った。
小さめの窓の向こうから見える空は夕暮れの色に染まっており、あの時の離陸を思い出す。見える範囲がガラス張りの操縦席とは違い、小さな窓だけというのがなんとも味気ないが小さく切り取られた外の景色はまるで絵画のようだった。
「案外乗ってみると狭いのね。窓もなんだか小さいし」
「数百人が乗るうえに色んな機材が搭載されてるからな」
そうこうするうちに離陸へ向けた準備は順調に進んだようでシートベルト着用のアナウンスが流れる。グライダーの操縦席に比べれば簡素なシートベルトを締めると機体がゆっくりとバックし始める。
「へえ、飛行機ってバックできるんだ」
「いや、飛行機もグライダーと一緒で前進しかできない。今は専用の車両が前から機体を押してるだけだ」
「空を飛ぶものって、そういうところはみんな一緒なのかしら」
言われてみれば確かに自らの機能で後退できる飛行機は聞いたことがない。あったとしてもそれは一般的ではなく、後退が必要な時は人力なり動力なりで外部から力を加えるというやり方は古くから変わっていない。
もしかすると空を飛ぶもの、この場合は物でも者でもみんな前進することしか考えていないのかもしれない。そもそも向かい風でしか上昇できないという原理からして逆境の中でも突き進み続けるという性格が体現されているようだ。そして、それはまさしく少女と青年がやってきたことそのものでもあった。
機体はゆっくりと進み、そして滑走路端に到着する。その機首は広い滑走路に向けられ離陸の準備がすべて完了していた。シートベルトの着用を促すランプが点滅し、客室乗務員の離陸しますというアナウンスがあった。
そして巨大な双発のエンジンは全力を発揮した。
そのエンジンはモーターグライダーとは比較にならない加速度を生み出し、体全体が座席に押し付けられる。あっという間に離陸速度に到達し、機首が引き起こされ窓から見える景色が傾いていく。ふわりと浮き上がる動きを感じ取ると機体の底から響いていた滑走路の振動が消え去り、唸り声を上げ続けるエンジン音で周囲は満たされた。
少女と青年の乗る飛行機は夕日に照らされながら何の障害もなく離陸していった。
*
「なんだか物足りない」
飛行機は何事もなく離陸し、はるか上空をしばらく飛行した後に着陸へ向けて降下中だ。外はすでに日没を迎え、茜色に染まっていた空も藍色を通り過ぎ暗い夜空へ変化している。
そんな飛行をしていてこぼれてきた少女の心は青年としても分からないわけではなかったが、そもそもここ最近のフライトがあまりにイレギュラーすぎたというのが現実だ。
「そりゃ俺たちのフライトに比べれば物足りないかもな。あんな危険なフライトはもうないだろ」
「それはそうでしょうけど」
やはり一度空を自由に飛び回る楽しさを知ってしまった人間はこんな反応をしてしまうものなのだろうか。それはそれで自分たちは空憑きという病気が今でも取り付いているようだなと青年は心中で苦笑する。
「そんなこと言わずに外、見てみろ」
「外?」
少女がそう言われ、取り付けられている小さな窓から外をのぞき込む。
そこには少女のよく知る、それでいて初めて目にする光の光景が広がっていた。
この国の首都が生み出す光たちは暗闇の中ではっきりと目立ち、上空を薄く漂う灰色の雲を地上から幻想的に照らし浮かび上がらせる。密集した光の粒は煌々と輝き、その光の一粒一粒が少女の目に捉えられる。
それは、少女が父親と約束した景色そのものだった。
「やっと…ここまで…」
少女は感極まった様子で涙を流す。
ここまで本当にいろいろなことがあった。危険な目に何度もあいながら、たくさんの人に協力してもらいながら、それでも失敗してふさぎ込んでしまうこともあったけれど今こうして父親がくれた夜景と同じ場所にいる。
「楽しいこともあった」
グライダーの部品を集めて一つの機体が完成した時。
「怖いこともあった」
初めての空で強く孤独を感じた時。
「辛いこともあった」
病院の地下施設で自分にうそをつき続けた時。
「嬉しいこともあった」
無謀な挑戦が空へとつながった時。
「いろんなことがあったけど、約束通りここまで来れたよ」
その瞬間、少女の強い思いはあらゆる人の心を動かし、父親との約束を果たすという形で実を結んだ。
*
人は空を失った
それでも人は空を目指す
たとえ空に拒絶されようとも
地に這いつくばりあがき続ける
空高く舞い上がるその時まで
ここまでお付き合いいただいた方、本当にありがとうございます!
書き始めて気付けば5カ月以上、遂に完結することができました。ここまで書くことができたのもやはり読んで頂ける人がいるからこそと思います。誰も読んでいなかったならば今頃は1章すら仕上げることができずに匙を投げていたかもしれません。
さて、作中に登場する航空技術や気象現象についてはある程度事実ではあります。が、当方専門家というわけではありませんので多少の現実との不一致は見逃していただけると嬉しいです。そもそもモーターグライダーだって乗ったことないですし。
今回、少女と青年がやったことは現代社会ではごく普通にありふれた日常の出来事です。ちょっとばかしお金を払えば誰でも同じ光景を見ることができますが、この作中では特別な出来事です。この特別感を味わっていただけたならば幸いです。
また、本作は空落ちの日から7年後が舞台です。これはつまり7年間ほど空を完全に失った世界観でありますが、実は第二次世界大戦後の日本でも7年間、一切の飛行活動やそれに類する研究を禁止された期間があります。本作の着想はそこからであり、7年ぶりに空を飛んだ人々は少女と青年と同じような体験をしたのかなあと思いながら描いています。
最後になりますが、人生初の小説投稿で誤字脱字表現不足いろいろあったかと思います。それでもここまで読んで頂ける人がいらっしゃるというだけで書いてよかったと思っています。
次に何か書くときはちゃんと登場人物の名前を考えてあげようと思いながら、この辺で本作は幕引きとさせていただきたいと思います。
本当にお付き合いいただきありがとうございました!