目標高度
視界は完全な暗闇に覆われていた。
夜間飛行を続けていたことで夜の暗さには慣れていたつもりだったが、実際に雲の中に入ったときの暗さは別格だった。そこには頭上に煌めく星々も、かすかな光に照らされる海面も、うっすらと浮き上がっていた山の稜線も存在しない。ただただ茫漠とした暗闇がどこまでも広がっているようだった。
「もう10度右方向だ」
そんな暗闇でもできることはある。青年は常に周囲の風の状況を気にしながら、積乱雲の中心に向かうよう少女に指示する。雲の中に入ったばかりだからなのか、風は予想に反してまだ穏やかで安定している。それでも周囲を完全に支配している暗闇は確実に操縦している二人の内心に不安を募らせていく。
「ほんとにこっちであってるの?」
少女は減り続ける高度計の数字を気にしながら、しびれを切らす。
「さすがの俺も積乱雲の中を飛行するのは初めてだが大丈夫だろう」
「だろうって」
煮え切らない反応を返してくる青年にさらなる不安を感じてしまう少女だった。とはいえ、少女自身も当然ながら積乱雲の中を飛行した経験などなく、確実に知識の多いであろう青年に従うしかないというのが現実だった。
パチッ
突然、窓ガラスに何かが当たったような音がする。
「なに、今の音」
パチパチッ
少女が首を回して周囲を見てみるが、特に大きな変化はない。そもそも室内にも室外にも一切明りの存在しない今では何も見えないというのが正しかった。
状況を把握できずにいる少女とは対照的に青年は持てる知識を総動員して何が起きているのかを考える。
パチパチパチッ
雲の中にいるのだから最初は雨かと思ったが、雨粒がぶつかるにしては乾きのある音だ。感覚としては何か軽くて硬いものがぶつかっているようだった。
音の頻度は少しずつ増していき、周囲は真っ暗闇の中で奇妙な音に包まれるという異空間へと変化していた。
それから少しすると青年は音の正体に気付く。
「これはひょうだ」
「ひょう?」
「ということは……もうすぐ来るぞ!」
「え?」
青年の言葉に少女がなおも状況を掴めずにいた。
そして突然、機体は下から爆発的な力で押し上げられた。
「うっ」
「ぐっ」
その力はこれまでの上昇気流とは強さが桁違いだった。まるでジェットコースターの急発進のように機体は突き上げられる。強力なGに襲われ少女と青年は声にならない声を漏らし、一瞬だけ意識が遠のく。機体は浮き上がっているのではなく、暴風に巻き込まれ上に向けて吹き飛ばされているようだった。
ガンッ
さっきまでパチパチと小さくはじけるような音だったが、今では小さな石がぶつかっているような音が時折聞こえてくる。
「ひょうの粒がでかくなってやがるッ」
青年は暴れ回る機体の中でうめくように漏らすが、機体を襲う衝撃音は増していくばかりだった。
「ちょっと、翼は大丈夫なの!」
少女が悲鳴に近い声色で叫ぶ。その声につられて青年が機体の横を見てみると、いつもは美しい直線を描いていた主翼があり得ないほど反り返り、今にも折れてしまいそうだった。
「そんなこと知るか!それより機体姿勢を乱すな、落ちるぞ!」
青年は骨折している右腕の痛みに顔を歪めながらも再び意識を失わないように踏ん張る。
「そんなこと分かってる!」
しかし少女は自分たちがどんな姿勢で飛んでいるのか全く分かっていなかった。うっすらと見える計器はほとんどが目まぐるしく動き回り、どんな姿勢でどこに向かっているのか全く分からない。操縦かんもしきりに動かしてはみるが効果があるのかどうかも見当がつかない。もはや少女は自分自身の感覚で賭けのような操縦をすることしかできなかった。
少女が計器に目を凝らして必死に操縦していると、一瞬だけ周囲を強烈な光が駆け抜ける。それとほぼ同時に鼓膜が割れてしまいそうな爆音が響き渡る。
「キャアッ」
少女は躊躇いもなく悲鳴を上げる。
「今度は雷か!」
「雷って、当たったらどうなるのよ!」
「当たらないよう祈ってろ!」
操縦席の二人は完全に積乱雲に翻弄されていた。風向きは常に変わり、向かい風を飛んでいるのかと思えば気付けば追い風になっている。すでに動力を失っているにもかかわらず急加速したように体がシートに押さえつけられたかと思えば、今度は急ブレーキがかかったようにシートベルトが体に食い込む。それでも常に突き上げられているような感覚はあり、上昇気流に乗っているのだろうと願うことしかできない。どれぐらいの大きさなのか分からないが、時折ぶつかってくるひょうは軽量な機体を小刻みに揺らし、至近距離で鳴り響く雷は暗闇に慣れた目には無音の衝撃をもたらし直後に鳴り響く衝撃音は聴力を麻痺させる。
二人のあらゆる感覚に自然の猛威は襲い掛かり、容赦なくダメージを与えていく。有視界飛行も計器飛行もできなくなってしまい、でたらめな数値を示す計器類を見ていると雲を抜けた矢先に海面があったとしても不思議ではない。二人はうめき声をあげることすらできなくなり、機体に襲い掛かる音だけが全てだった。
そして二人は操縦席で気を失った。
*
「うっ」
少女がゆっくりと目を開けると、視界一杯に白と青のグラデーションが広がっていた。音も揺れも衝撃も感じず、どこまでも続いている静かな景色に見入っていた。
「ここは天国?」
少女は思ったことをそのまま漏らし、もしや死んでしまったのだろうかと考える。ついさっきまで苛烈な環境に置かれていたはずなのに、今は打って変わって穏やかな一面が広がっている。
積乱雲の中での飛行を思い出そうとするが、最終的にどうなったのか全く思い出せない。もしかすると気付かずそのまま海上へ墜落したのだろうか。
「また、ダメだったかあ」
積乱雲の上昇気流で駆け上がるというアイデアは悪くないと思ったが、結局は青年の言うとおりに無謀だったのだろう。常識というものはやはり破ってもいいことにはならないということらしい。そういう意味では空を飛ぼうとすること自体がやはり間違いだったということになるのだろうか。
「常識の勝ち、私の負け」
少女はもう悔しいという気持ちすら湧いてこなかった。ただ事実を受け入れようとする心構えがあるだけだった。
「計器を常に把握しろと言っただろ」
「え?」
ふいに聞こえた青年の声に反射的な反応で少女は目線を下げる。無意識な行動の結果、目に飛び込んできたのは蒼空とは対称的に無骨で機械的な計器類だった。
そしてこれもまた無意識に並んでいる計器の中から高度計に目をつけ、そこに示された数字を読み取り頭の中で反芻する。
5000
そこに示されていた数値は目標を大きく達成したことが証明されていた。
「よくやったな。あとはこれをバラまけば終わりだ」
少女の後ろからガラス管が差し出される。そのガラス管の中には周囲に広がる蒼空と同じような薄い水色をした液体が収められていた。
少女は自然な動作で操縦席の窓を開ける。氷点下の空気が操縦席に流れ込んでくるが、構わずガラス管の蓋をゆっくりとした動作で開ける。そして操縦席から腕を外に出し、ガラス管を傾けて中の液体を空中へ解き放った。
水色の液体は朝日に照らされてキラキラと輝きながら、すぐに見えなくなった。一瞬の出来事でこれだけで本当に効果があるのか疑ってしまうが、そこはマスター達の研究成果を信じることにする。
少女は後ろの操縦席に座る青年のほうを振り返り、満面の笑みで答える。
「終わりじゃないわ、私たちの空がこれから始まるの」
その言葉は二人以外に誰も、何もない場所で溶けていった。