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空喰い  作者: とりとん
第4章 空高く舞い上がるその時まで
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積乱雲

 

 青年と少女は内心で大きな焦りを感じていた。


 紆余曲折はあったものの、高度2000までは順調に目標へと近づいていた。だが、動力の喪失と海へ到着したことによる風の変化が痛手となり、2000という区切りを過ぎて早くも数時間が経過しているにもかかわらず、高度計の数値は大きく変化していない。

 時間が経っても高度が増加しないのは、上昇気流や向かい風を上手くつかむことで上昇は出来たとしても、その上昇が長く続かずにすぐ下降へ転じてしまうという飛行を繰り返しているからだ。本来ならば動力が存在しない状態で数時間も同じ高度を保てること自体が簡単ではないのだが、そんなことを喜んでいられるような状態でもなかった。

 また、長い時間を費やしていることで別の問題も生じつつあった。


「さ、さむくて、凍えそうなんだけど」

「もう少し辛抱しろ」

「手足の感覚も、正直もう…」


 さっきまでは山の形が分からないほどの暗闇だったが、東の方角を見ると今ではわずかに山の稜線が浮かび上がりつつあった。すでに離陸から半日近くが経過しており、操縦席に座る二人は精神的にも身体的にも疲労がピークになりつつあった。高高度に体が適応したためか酸欠の様相は今のところ感じられないが、零度近い空間に長時間いることで体力は確実に削られていた。青年としてはこの状況でもまともに操縦できている少女のほうにこそ驚きを感じずにはいられなかった。

 しかし、今も緩やかに減少を続ける高度計の数字が現実の厳しさを如実に表している。


「左旋回、方位70度だ。そっちにたぶん上昇気流がある」

「ななじゅうっと」


 青年が白い息を吐きながら少女に指示を出す。少女はその指示を聞き洩らすことなく操縦かんをわずかに左へ倒しながら左足で同じようにやさしくペダルを踏みこむ。機体は少しずつ進行方向を左寄りに変えていき、方位計が70度に合ったところで少女は操縦かんとペダルを元の位置に戻す。すると下から突き上げるような力を感じ、機体の高度が上がったことが分かる。


「上昇が止まるまでなるべく小回りに旋回しろ」

「りょーかい」


 青年は上昇気流の存在を確認すると、なるべくこの場所に留まるべく旋回を指示する。上昇気流というエレベーターにいかに長い時間、乗り続けられるかがカギとなる。

 少女も言われた通りになるべく小回りな旋回を実行しながら固唾をのんで高度計の数値を見守る。

 2220、2230、2240……

 このままずっと昇り続けて欲しいと何度願ったか分からない。少女は今も心の底からこの状態が続くことを願い続ける。

 しかし、無情にも高度計の数値は2300を示したところで停止する。そして数秒後には再び緩やかな減少を始め、上昇気流が消え去ったことを機械的に表現している。


「旋回止め、このまま直進」

「あー、もう、またなの!!」


 上昇気流を探し、なんとか見つけて気流に乗るもすぐに気流は止んでしまう。そしてまた次の上昇気流を緩やかに下降しながら探し続ける、そんな飛行をかれこれ数時間も続けている。この終わりの見えない作業が二人に大きな焦燥を生み出し、そして精神的な疲労を積もらせ続けている原因だった。


(そろそろ潮時か……)


 青年は内心で一つの行動を起こすべきか悩んでいた。それは、高度3000という場所に到達する前にポケットの中にあるワクチンをばらまいてしまうということだった。

 マスターは3000未満で散布すると中途半端な範囲に効果が限定されてしまい、再び圧倒的な数の力によって潰されてしまうだろうと言っていた。

 だが、3000に満たないとはいえそれに近い場所にいる。さらに自分たちの体力が尽きかけている以上はここで散布することが最善の策ではないかと思える。ここで散布しないまま地上に戻って後悔するよりは断然良い。


「なあ、この辺で撒いて戻らないか」


 青年は意を決して少女に自らの考えを披露する。


「そんなの、絶対ダメ!」


 少女から返ってきたのは意外にも拒否という強固な意思表示だった。


「ここで諦めたら、絶対後悔する!」

「だが、このままじゃ俺たちの体力が持たん。ここで力尽きて墜落でもしたらどうする、死んでしまうかもしれんぞ」

「もしワクチンが行き渡らなかったら、きっともう飛ぶことなんてできない。そんな世界になるぐらいなら、死んででも操縦してたどり着くわ。それに私、まだお父さんとの約束は果たしてないもの!」

「お前、言ってることが滅茶苦茶だぞ。今日ダメでもまた次が」

「あると思ってる?本当に?」

「……」


 少女は急に冷静な声音で切り返し、それに対して青年は何も言えずにいる。自分たちが飛び立とうと必死になっていたのは、そもそもそれを邪魔する存在がいたからだ。そして、その存在は明らかに過激になりつつあることを体験したばかりだ。


「親方さんもあのお姉さんも喫茶店のマスターさんも、みんなこのフライトのために全力を尽くしてくれた。航空自衛軍の人たちも命がけで送り出してくれた。こんなにも多くの人が、また同じように全力を出してくれると本気で思ってるの?無事かどうかも分からないのに!」


 少女は必死に訴える。どこにそんな体力がと言わんばかりに力強く訴える。


「……お前の気持ちも分かるが、俺達にはもうできることが」

「あそこに行くわ」


 そう言いながら少女は左手でまっすぐ前を指さす。その指さす先には周囲と変わらない夜の暗さが広がっているだけだが、よくよく目を凝らしてみると徐々に少女の目指す物の姿が浮かび上がってくる。

 それは海上にまるで岩山のごとく立ち上る巨大な雲の塊だった。世闇でも分かるほどそこだけが浮いたように黒く、どこまでも空高く伸びているその姿を見上げていると自分たちが高い空にいることを忘れてしまいそうになる。


 その巨大な雲の塊は積乱雲と呼ばれている。


「まさか……」


 青年は少女が指示した先に存在するものが何かを把握すると同時に少女のやろうとしていることを理解して青ざめる。


「あの雲の上昇気流に乗って一気に駆け上がるわよ」

「お前、あれがどんな雲か知ってるのか?」


 青年は冗談であってほしいと思いながら問い返す。積乱雲は確かに強力な上昇気流が原因で発生する気象現象の一つだ。その雲の中ならば間違いなく上昇気流は存在する。だが、その気流はこれまでの生易しい緩やかなものではなく、ほとんど暴風と呼んでもそん色ない気流だ。さらに暴風だけでなく、ひょうや雷も当たり前のように発生しているだろう。

 これほどまでに過酷な環境であることから金属製の大型旅客機ですら進路変更をしてでも避ける。そんな場所へ軽量グライダーが突っ込んでいけばどうなるかは想像に難くない。


「いくら何でも危険すぎる!この機体じゃ空中でバラバラになってもおかしくないぞ」

「だとしても今よりは高い場所に行ける。そうでしょ?」

「それはそうかもしれんが」

「大体、危険って言うけれどあの雲の中を飛んだことあるの?」

「そんなのあるわけないだろ」

「なら行ってみるしかないじゃないの」


 少女は頑なだったが、決して目的を忘れてはいなかった。ほかの人たちがそうであったように、今の少女も自らにできうる限りのことを命がけでやり遂げるつもりだった。

 青年の中でも理性がやめろと警鐘を鳴らす。あまりに無謀で危険で不確実だ。こんな高空で機体が空中分解でも起こしたら間違いなく命はないだろう。


 だとしても。


 少女の言う通り、この飛行はただの遊覧飛行なんかじゃない。空を取り戻すために多くの人がその全てを尽くし、希望と目的を乗せた飛行だ。中には既にこの世を去ってしまった人間もいるが、その人間の思いは今も機体に取り付けられたプロペラという形として生きている。機体の改装と軽量化を親方と姐さんは短期間のうちに仕上げてくれた。マスターとその周囲の人たちはワクチンを託し、命がけで空港までたどり着かせてくれた。

 そして何より、今目の前で操縦している少女が青年を再び空へと舞い戻らせてくれた。そもそも周囲に無理難題ばかり吹っ掛けておきながら他人の無理難題を受け入れないというのはおこがましいだろう。


「まったく、お前の言うことは無茶苦茶だな」

「なによ、そんなのお互い様じゃない」

「そうだな」


 青年は決意とともに判断を下す。


「やるしかないか」


 *


 東の空は見返すたびにその明るさを増しているようだった。小さな星の明かりは段々と消え失せ、よく晴れている今ならもう少しすると綺麗な朝焼けがまぶしいだろう。

 そんな夜明けの空をモーターグライダーは海上に漂う黒雲へと直進する。周囲の上昇気流をつかむことを止め、高度を速度に変換しながらまっすぐ突き進む。すでに高度は2000を割り込んでいたが一か八かの賭けをしに行く手前では些細なことだった。


「シートベルトは強めにしとけ。それから、もし視界が真っ白になったら脚と腹に思いっきり力を入れろ」


 穏やかな夜間飛行を続けながら操縦席の二人は可能な限りの準備を始めていた。準備といっても空中でできることなど知れているが少しでも可能性を上げるためには必要だった。それに、何かしていないと不安に駆られて気が滅入ってしまいそうでもあった。

 少しずつ、だが確実に積乱雲の大きさは増している。前方の視界を全て埋め尽くし、上を見上げると既にその頂上は全く見えない。


「雲の中に入ったら常に歯を食いしばってろ。舌でも噛んだら口の中が血まみれだ」

「ええ、わかってるわ」


 奇抜な提案をした少女自身も緊張していることは明らかだった。それは青年の方も同じであり、さっきから冷や汗が止まらない。それでも二人の決意は揺るがず、そのまま機体は進み続ける。


 そして白いモーターグライダーは黒い雲に飲み込まれた。


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