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空喰い  作者: とりとん
第4章 空高く舞い上がるその時まで
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高度2000

 

 改装されたモーターグライダーはこれまでとは大違いだった。


 二人乗りになったことで機体重量は増加し、旋回操作は全体的にワンテンポ遅れているようだった。だが、その機体感覚も少女は確実に掴み何回か旋回を繰り返すうちにすっかり慣れてしまっている様子だった。

 また、機体重量を補えるほどの揚力を生み出すためなのだろう、翼のサイズも一回り大きくなっていた。さらに強化されたモーターの回転によって、総合的に見れば上昇能力は確実に向上していた。これだけの大きな翼が向かい風を掴むと、そこから生じる揚力は以前の機体の比ではなかった。


「バッテリー残量、50パーセント。高度1100か」

「このままなら高度2000までバッテリーだけでいけそうね」

「いや、そうもいかない。高度が上がるほど空気が薄くなり、揚力は減ってくる。これまでのようにはいかない」

「言われてみればそれもそうね。それに、風も止んだみたいだしどうする?」


 少女はこの短時間に風の向きを読めるようにまでなっていた。このあたりは潜在的な能力か、空への強い思いのなせることか今でも分からない。とにかく風が止んでいることは間違いなかった。

 だが、この状況はある意味で青年の予想通りだった。地上近くを吹く気まぐれな風の向きを捉えてここまでこられたのは上出来とさえ思っている。高度1000という場所にバッテリー残量を半分残しながら到達できること自体が珍しい。


「ここから先は海を目指すぞ」

「海?海は下だけど関係あるの?」


 この反応はまさしく普通の少女としてのものだった。そもそも海風陸風のことを教えていなかったので疑問に思うのも無理はない。


「夜は陸から海へ向かって風が吹きやすい。この風を陸風と言って陸と海の温度差から起きる現象だ」

「でも私たちは今、陸側にいるのよね。それだと追い風にならない?」

「ただし、これは高度が低い場所に限ったことで、ある程度高い場所では逆に海から陸へ向けて風が吹く。そうやって循環してる」


 操縦中とはいえ、せっかくの機会と思い青年は少女に風の特徴を教える。


「つまり、このまま海へ向かえばしばらく向かい風になるということね」

「そういうこと。左旋回、方位180度だ」

「了解」


 ここでも呑み込みの早さを発揮しながら二人は短いやり取りを終え、モーターグライダーの進行方向が海側へと向けられる。

 外は完全に陽が落ちきっており、周囲は真っ暗な闇に覆われている。このグライダーは夜間飛行を想定されていないのでライトの類は一切取り付けられておらず、この暗い場所に存在する光は小さく輝く星々と目の前でほのかな明かりを放つ計器のバックライトだけだ。

 しばらく安定した向かい風が吹くため、プロペラの回転を抑えバッテリーを節約する。そうすると必然的にけたたましい唸り声をあげていた動力も今は鳴りを潜めている。これまで精神的に緊張し続けたこともあり、急に訪れた静けさに瞼が重くなる。鎮痛剤が切れつつあるのか、骨折した右腕から生じる鈍痛が眠気覚ましのようだった。

 それは少女のほうも同じようで、前方からは時折あくびをしているかのような動作が垣間見える。


 青年が高度計を見れば、すでにその数字は1800を超えている。このまま何事もなく高度3000まで到達できないだろうかと甘い考えが頭をよぎるが、すでにバッテリー残量は20%台にまで落ちている。もう数十分もすればバッテリーは切れるだろう。


「それにしても眠いな」


 青年は大事を成し遂げなければならないことも忘れて正直な気持ちをつぶやく。暗いまま代わり映えのしない景色、単調なリズムで回転する動力、シートから伝わる振動、これら全てが自らの意識を奪い去ろうとしているようだった。

 やることがないと眠ってしまいそうだったので、青年は気を紛らわせようと計器を一通り見直してみることにした。

 速度・高度・昇降率・姿勢。目の前にはありとあらゆる計器が並んでおり、常に見なければならないものもあれば、フライト中はほとんど目にすることがない計器もある。空落ちの日より前に飛んでいた旅客機に比べれば玩具のようなものだが、それでも数が多いことに変わりはない。このあたりが空を飛ぶことの難しさを体現しているようだった。

 やや靄がかかったような頭で引き続き計器を眺めていると、普段は見ることが少ない温度計に目が留まる。その指針は1~2℃の間を行ったり来たりしている。


「高度2000も近づけばこれぐらいの温度にはなるか…」


 気まぐれでこぼれた呟きは、またも暗い夜空に吸い込まれていく。だが、ここで青年は内心で強い違和感を覚える。


(なぜ俺は寒いと感じていない?)


 航空自衛軍ご用達のフライトスーツを着込んでいるとはいえ、気温は真冬並みを示している。本来ならば刺すような寒さに身を震わせていておかしくないはずだが、どうして心地よい眠りを感じてしまっているのか。

 高度2000という場所に比例して気圧は下がり、空気の密度も低くなる。空気の密度が低くなるということは…。

 そして青年は一つの答えにたどり着く。


(間違いない、俺たちは酸欠になりかけている)


 そう確信した青年は白い息を吐きながら少女の無事を確かめる。


「おい、俺の声が聞こえるか!」


 少女からの返事はない。よく見れば、少女の右手が握っているはずの操縦かんには手が添えられておらず、その右手は力なくシート脇に投げ出されている。


「クソッ、遅かったか」


 あまりに風向きが安定していたこともあり、操縦かんから手が離れていることに気付けなかった。そもそもグライダーは安定飛行できるように設計されており、安定飛行とはすなわち傾きにくいということでもある。まして安定した風の中にあっては手放しでも大きく姿勢が乱れることはない。

 だが、今回はそれが災いしてしまった。青年自身も心のどこかで油断があったのかもしれない。

 青年は背筋に走る悪寒を抑えながら、何か打開策はないかと思考を巡らせる。酸欠は酸素が少ない上空で発生するため、当然高度を落とせば自ずと意識は回復するだろう。だが、自分たちが置かれている状況はそれを許さない。

 仮にここで引き返してしまえば何が地上で待ち受けているのか想像に難くない。自分たちの命すら危ういかもしれない。今回が空を取り戻せるラストチャンスなのだ。

 しかし、このままではジリ貧だ。見れば高度は少しずつ減少を始めていた。1800あった高度も今では1700を割りそうであり、急いで操縦かんを引かなければならないが、青年自身の右腕はとても操縦かんを操作できるような状態ではない。

 だからこそ、今すぐにでも少女の意識を取り戻させる必要があるのだが当の本人はすでに意識を失っているらしかった。


 何かないかと希望を求めて青年が周囲を見回していると、前の座席との間に持ち運びやすそうな大きさのコンテナが置かれているのが目に付く。とにかく風をとらえることに必死だったのと周囲を照らす明かりがほとんどないことからすぐには気付けなかった。


(今、突風でも吹いたら骨折じゃ済まないな)


 青年は誰も操縦かんを握っていない不安定な状況に臆することなく自らのシートベルトを外すと、身を乗り出し自由な左手でコンテナを手元まで引っ張り出す。見た目に反してやや重さのあるコンテナが全身にのしかかり、骨折している右腕から電撃のような痛みが駆け上がる。

 青年は痛みを必死にこらえながらコンテナを開くと、そこには大小さまざまな物が乱雑に収められていた。やはり周囲が暗いせいもあってはっきりと何が入っているのか把握できないが、青年はとにかく手当たり次第に中身を探ってみる。

 すると、かじかんでほとんど感覚のない指先に金属のような物体を感じる。青年は少しだけ震える左手でそれを取り出し、計器のほのかな明かりにかざすと円筒形をしていることに気付く。よくよく目を凝らしてみれば、その円筒形には場に不釣り合いなポップな字体で『酸素』と大きく表記されている。


 ――「一応言うておくが、高度3000では気温はマイナスで酸素も薄い。防寒着と酸素缶を忘れないよう気を付けるんじゃな」――


 そういえば喫茶店イカロスでマスターがそんなことを言っていたな、と青年は思い出す。マスターのサポートはもう決して無いと思っていたが、あの老獪な初老の男は上空でもサポートを忘れないようだった。

 青年はマスターへの深い感謝とわずかな無力感を感じながら酸素缶の頭についている吹き出し口を中空へ向けて押し込む。本来は口に当てて直接吸い込むものだが、少しでも早く少女の意識を取り戻させることが必要だ。さらに操縦席もある程度は密室になっているので効果も見込めるはずだ。


「おい、早く起きろ!」


 青年は酸素缶から勢いよく気体が噴出する音を聞きながら祈るような気持ちで少女に呼びかける。ちらりと高度計に目を配ると、10、20、30と高度が減っており焦燥ばかりが積もっていく。

 それでも青年は操縦席に酸素を供給する。やはり声がけだけでは目覚めないかと思い、青年は再び身を乗り出して少女の肩を揺さぶろうとした。


「なによぅ、騒がしい……」


 すると前方から消え入りそうな少女の声が聞こえた。


「早く操縦かんを握れ!」

「……あ!」


 少女の声を聞き取った青年は力の限り叫んだ。それに反応したらしい少女は驚きの声を上げ、急いで操縦かんに手をかける。勢いあまって少しだけ操縦かんを引きすぎたのか、全身を一瞬だけ浮遊感が包み込むがすぐに元の安定飛行に戻る。高度計の数字も減少を止め、今は緩やかに上昇を続けている。


「ごめんなさい!気づいたら手が離れてて……」

「いや、気が付いてくれればいい。それに今回は俺のミスでもあるしな」


 青年はそう言いながら前方に座る少女の肩越しに手に持っていた酸素缶を渡す。


「俺も酸欠で意識を無くしかけててな。定期的にこいつを吸い込んでくれ」

「そういえばなんだかすごく寒いわ」

「そう感じてるならもう大丈夫だな」


 さらにコンテナからカイロを取り出し少女に渡す。あのマスターの用意周到さに気味悪さを感じ始めていたが、もはやなりふり構ってはいられない。あるものはありがたく使わせてもらうことにする。

 青年が高度計を見ると、その数字は1700と少しを示している。貴重な高度を失ってしまったとも思うが、二人とも気を失っていたらと思うとそれ以上にぞっとする。

 そんなことを考えながらしばらく安定飛行を続けていると、突然操縦室にピーという電子音が響く。


「ちょ、今度はなに?」


 少女が狼狽を露わにしているが、青年はこの事態を予想していたので落ち着いて答える。


「バッテリー切れの警告だ。とうとうここまで来てしまったな」


 バッテリー残量を示す計器を見てみれば、そこには残量が5%以下であることが示されている。


「今の場所を確認するからそのまま待っててくれ。海上だったらここでバッテリーを切り離して投下する」

「それはいいけれど、この真っ暗闇で場所なんて分かるの?」

「星の位置とちょっとした計算だけで自分の位置はある程度判断できるからな」


 青年は携帯端末を取り出し、数字がびっしりと並んだ一覧表を画面に表示させると周囲の星の位置を確認する。そしていくらか数値を入力して計算を終えると自分たちが海の真ん中にいることを確信する。


「よし、すでに海の上だな。バッテリー残量がゼロになったら左手のレバーを思いっきり引いてくれ。そうすればバッテリーが切り離される」


 姐さんから受けた切り離しの操作方法をそのまま少女に伝える。

 操縦室に鳴り響いていた電子音もやがて鳴り止み、計器類をぼんやりと照らしていたバックライトも消灯する。モーターの回転も止まったようで、周囲は完全な無音に包まれる。このままでは計器を読むことすらできないため青年は取り出した携帯端末をそのまま非常灯にして計器だけは見えるように照らす。


「それじゃ、切り離すわね」

「ああ」


 静かになった室内のせいではっきりと聞こえる少女の確認に青年が答えると、少女は左手のレバーを力強く手前に引く。

 すると、ガコッという機械的に何かが外れる音がしたかと思うと急に機体全体をフワリとした浮き上がる力が包み込む。これで今、この機体は出来うる限りの軽量化を果たしたことになるが、同時に自由に使える動力を完全に失ってしまったということでもある。ここから先は自然の力と自分たちの操縦技術と運だけが頼りだ。


 青年が寒さに身を震わせながら高度計を確認すると、遂に高度は2000を超えていた。


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