高度ゼロ
「えっと、その、なんというか…」
「どうした?」
少女は再び空を飛ぶことを決心していた。その決心はつい先ほどの勝気そうな表情と態度で間違いないと思っていたが、その勢いがしぼんでしまったかのように歯切れの悪い反応をする。
「大見得切った手前、とても言いにくいんだけど…」
「だから一体どうした?」
なおも煮え切らない態度をとる少女に青年は少しばかりの不安を感じながら続きを促す。表情こそよくなってきたものの、やはり内心ではまだ落ち着かないのだろうかと心配になる。
青年の心配が少女に伝わったのか、それでも少女は言いづらそうに小さな声で少女自身が気にしていることを言葉にする。
「わたし、きっと機体を壊しちゃったと思うんだけど…」
「ああ、そのことか」
少女の言葉に青年は自分の心配が杞憂だったことに安堵する。ここにきて心変わりでもされては話が振出しに戻ってしまうところだったが、どうやら少女の心配事はすでに解決していることらしかった。
「そうだな、何も知らんだろうから説明してやる」
そして青年は少女が昏睡してから今に至るまでに何があったのかを説明する。青年は空喰いの正体を少女も知っているべきだと思ったので、そのことも一緒に話す。そしてこれから何をしなければならないのか、どこに行かなければならないのかも理解させる。
青年も少女に説明しながら自らの経験や思いを整理する。ここに至るまでに起こった出来事や得られた知識は多く、それがあまりに短期間だったこともあって説明するのも一苦労だった。
「そんなことって」
一通り聞き終えた少女は当然ともいうべきか驚愕を隠せない様子だった。
「でも、もしかしたら空を取り戻せるかもしれないんでしょ」
だが驚きを感じているのも一瞬だったようで、すぐにそれは希望に満ちた問いかけに転じる。
「だったらもうやるしかないじゃない!」
そして少女は一人で勝手に盛り上がる。そんな起伏の激しいいつもの少女に不安を全く覚えないわけではなかったが、それでも虚ろに死んだ目でひっそりとしていた時に比べれば遥かに心強い。
「こうしちゃいられないわ、すぐに準備するから外で待ってて」
「はいはい」
青年は気疲れからくる倦怠感を感じながらゆっくりと座っていた椅子から立ち上がる。
その時、病室を小刻みな揺れが一瞬だけ駆け抜ける。
「え、なに?地震?」
「…いや」
明らかに狼狽する少女とは対照的に青年は今の揺れに違和感を感じていた。
(地震にしては揺れが短すぎる、まるで何か大きなものがぶつかったような…)
「そこで待ってろ」
「え、ええ」
青年の強張った雰囲気に何かを感じ取ったのか、少女は動揺しながらも大人しく従う。
その様子を確認した青年はゆっくりと確実な足取りで、この部屋に唯一存在する外へつながる引き戸へ向かう。そして同じようにゆっくりとその引き戸に手をかけ、横にスライドさせて扉を開く。そのまま廊下に出るとどこへ繋がるのか分からない細い通路が左右に伸びている。
来た時と同じように若干のまぶしさを感じる照明と白い壁がそこにあるだけで、周りには誰もいなかった。
「誰もいない?」
青年は誰もいないことを疑問に思う。そもそもここまで来られたのは元航空自衛軍であろう屈強な男に案内されたからであって、一人で歩いてきたわけではない。案内された後に立ち去ったのかもしれないが、前回ここに来た時に少女に掴みかかると同時に止めに入ったことを考えると今日も同じように廊下で待ち構えているものと思っていた。何よりあのマスターが今の状況で自分たちから目を離すとは考えづらい。
これからどうすればいいのか迷い始める青年だったが、その思考は簡単に断ち切られる。
静寂を打ち破る爆発音が廊下に響き渡る。
それは間違いなく爆発音だった。誰かが何かを落としただとか、何かが勢いよく壁にぶつかったとかいう日常の音ではない。衝撃と炎熱と暴力を孕んだ明確な爆発音だ。
あまりに聞きなれない音に青年が呆然と立ち尽くしていると、ふいに背後から誰かが走りながら近づいてくる音が聞こえてきた。
「君、無事か!」
その人はこの病室まで案内してくれた男だった。だが焦燥に満たされたその様子から青年はその人が同一人物と思えなかった。その男は青年の腕をつかむと、半ば無理矢理に病室へ引きずり込む。
そして男は病室に入るなり白い扉のクローゼットを開くと、そこから病室には不釣り合いな迷彩色のフライトジャケットとズボンを2組取り出し青年に押し付ける。
「時間が無い、早くそれに着替えろ」
「おい、一体なにが起きてる?」
あまりの唐突さにたまらず青年が男に問いかける。だが、返ってきた答えはあまりに状況の悪さを物語っていた。
「陸の奴らにここがバレた、この施設は封鎖したがいつまで持つか分からん。」
「で、これで俺たちにどうしろと」
「あんたら二人を空深空港まで無事に送り届け、離陸させるのが大佐から受けた任務だ。急ですまんがすぐに飛び立ってもらう」
「今すぐだと?まだ病み上がりの人間もいるんだぞ!」
「わたしは大丈夫よ」
青年と男が問答しているところに少女が割り込む。
「どうせ飛ぶのなら早い方がいいわ。時間も無いならなおさらじゃない」
ついさっきまで状況を呑み込めていない様子の少女だったが、今ここにいるのは完全に覚悟を決めた意思の固い少女だった。青年はこうなった少女に何を言っても説得ができないことを身をもって体験している。
「…分かった、早くこれを着ろ」
青年は渋々といった様子で手にしたフライトジャケットを少女に手渡す。
時間が惜しいことを理解している少女は何も言わず病院着の上にフライトジャケットとズボンを身に着け、ものの数十秒で準備を終える。その様子を見て自分も着なければと思い、急いでフライトジャケットを身に着ける。
青年はともかく年端もいかない少女が迷彩色に包まれている姿はお世辞にも似合っているとは言えなかったが、この際そんなことには構っていられない。
「よし、二人とも準備はいいな。なるべく姿勢を低くして、しっかり後ろをついてこい」
男はそう言いながらスーツの裏から拳銃を取り出し、スライドを動かして撃鉄を起こす。男の手にあるものがいつでもその力を発揮できるという事実が緊張感を否が応でも増大させる。
そして男は再び病室を出る。その後ろを少女が、最後尾を青年が1列になり男の後ろをついていく。
病室を出ると爆発音の頻度は確実に上がっていた。10歩、20歩と歩くうちに暴力的な音は増え、その振動もより明確に全身で感じるようになる。
青年は恐怖で足がすくんでしまいそうだったが、目の前を行く少女は全く臆することなく男について行っている。それは外見だけの話で内心は青年と同じかもしれないが、そうだとしても今の少女の姿を目にしては自分が弱気になるわけにはいかなかった。
(やっぱりその方がお前らしい)
自分のやりたいことに一心不乱になり、その目的に向かって真っすぐに突き進む。空を飛ぶことさえもあきらめていた自分すら巻き込んでしまうその愚直さこそが少女のあるべき姿だと青年は思った。
3人は他の人を見かけることなくコンクリートがむき出しの広い空間にたどり着く。そこは少女が運び込まれるときに分かれた場所であり、武骨な鉄扉とガラス張りの自動ドアが混在している不思議な場所だ。3人は白に包まれた廊下から自動ドアを抜け、今まで通った場所とは対照的なコンクリートに囲まれた空間に出る。そしてそこには、この地下施設に連れてこられたときに乗ったものと同じ黒塗りの高級車が停められていた。
「早く後部座席に乗るんだ」
男にそう言われ、まずは少女が後部座席に乗り込む。その後を追うように青年が車内へ足を踏み入れる。
その時、黒い車体に赤色の液体が飛び散った。そして一瞬遅れて地下駐車場に銃声が響いた。青年が後ろを振り返ると、大腿部を押さえうずくまる男の姿が目に入る。
青年は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。まるで時間が止まったかのように思考が停止する。
「早く行け!!」
男の叫ぶその声を合図に周囲の時間が再び目まぐるしく動き出す。青年は今まさに乗りかけた車の後部座席の扉を勢いよく叩きつけるように閉めると、運転席に座って既に差し込まれていたキーを回す。黒塗りの車は低いエンジン音を響かせて始動する。
その間も背後では断続的な銃声が続いていた。自分たちが歩いてきた廊下に目を向けると何者かが銃を構えている姿が目に入る。そしてその銃が一瞬、光ったかと思うと足元のコンクリートから砂塵が舞い上がった。
「あんたも早く乗るんだ」
「こっちはいいから、さっさと行け!目的を見失うな!」
ここまで案内してくれた男は拳銃を構え、廊下で銃を構える人間に向けて発砲する。この場所では紛れもなく銃撃戦が起きていた。
青年がミラー越しに後部座席の少女を見やると、さすがに緊張が限界に達したのか縮こまって微かに震えているようだった。
青年は決心し、一言だけ「すまん」と小さく呟くと勢いよく車を走らせる。そのまま後ろを振り返ることなく地下施設の出口へ向けて一直線に突き進む。
薄暗い地下道路を抜けると、そこは見慣れた市民病院の駐車場だった。だが、常にはない深緑色の軍用車がそこかしこに点在しており異様な光景を作り出していた。
その輪の中で迷彩服に身を包んだ警備兵がこちらに気付き、なにかを叫びながら肩にかけていた自動小銃をこちらへ向けてくる。おそらく制止の声をあげているのだろうと思ったが、青年も少女と同じように目的に一心不乱だった。そのまま警備兵にかまうことなく病院の外へ車を走らせる。
すると、車体の後ろから小さな火花が散った。車の後ろへ向けて自動小銃を発砲したらしかったが、黒塗りの車は難なく走行する。予想はしていたがどうやらただの乗用車ではないらしい。
黒塗りの車は幹線道路に乗り込み、空深空港へ向けてまっすぐに突き進む。青年が後ろの追っ手を気にしながらいつもは出さないようなスピードで走行していると、ポケットの携帯端末が震えた。
この緊急時にかかってくる電話に出ないわけにもいかず、青年は周囲の目を気にすることも無く応答ボタンをタップして携帯端末を耳に当てる。
『ドライブは楽しんでおるかね?』
端末のスピーカーからはいつもと変わらない調子のマスターの声が聞こえてきた。青年は言いたいことが無尽蔵に湧いてきたが、何から言うべきか悩んでいるとマスターの方から話し始めた。
『わしらに出来ることはもう終いじゃ。あとはお前さんらに任せたぞ』
「マスター、あんた何を言って」
『大佐、敵は数が多く隔壁も持ちません!』
『徹底抗戦じゃ、奴らをここに釘付けにせい』
受話器の向こうからマスターの仲間と思われる人物との会話が漏れ聞こえる。その会話に重なるように銃声や爆発音が何度も何度も聞こえ、さながら映画の戦場のようだった。
「マスター、俺たちはもう空深空港に向かってる。もういいから降参してくれ」
『ならん、今抵抗を緩めればお前さんらがここにいないことを宣伝するようなもんじゃ。お前さんらが離陸するまでわしらは抵抗を続ける』
マスターも青年と同じように自分の信念を貫こうとしている。空を取り戻すと決めた青年にその事実が突きつけられる。
『なに、わしらもプロじゃ、そう簡単に崩れはせんわい。わしらのことより、そこにおる嬢ちゃんの方を気遣ってやるんじゃな』
マスターはそう言い残し、唐突に通信を切られる。言いたいことは沢山あったというのに、ほとんど何も言うことができなかった。
それでもマスターが最後に伝えた言葉通りに後部座席を見てみると、さっきと変わらず怯えを隠し切れない様子の少女が膝を抱えて小さくなっていた。その様子を改めて確認すると、青年は自らに誓う。
決して少女を独りで空に送り出したりはしないと。




