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空喰い  作者: とりとん
第4章 空高く舞い上がるその時まで
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二人の空憑き

 モーターグライダーの修理は順調だった。

 不幸中の幸いにして恐れていたよりも損傷が軽微だったことも大きいが、何より親方と姐さんの助力によるところが大きかった。空を諦め、散り散りになってから数年が経っても蒼空の会で過ごした日々と経験、そして技術力は決して色あせることはなかった。

 それぞれが違うことを思いながら数年を過ごしておきながら、結局はこうして集まり再び空を目指している。前科のある自分たちの行動が明るみに出れば、間違いなく重罪になる。それでも集まってしまうのは、やはり空に取り憑かれてしまっているのかもしれなかった。

 しかし今となれば青年にとって空喰いも空憑きもただの代名詞でしかない。今やるべきことは高度3000まで舞い上がり小さなガラス管に入っている液体を空からまくだけだ。そして、そのための準備ももうすぐ終わる。

 墜落でバラバラになったモーターグライダーは二人乗りとバッテリーの切り離し機能の追加という突貫工事を経て元の姿に戻りつつある。実現にはかなりの操縦技術と運が必要だが、できるだけのことをする飛行プランも決まった。飛行プランというにはいささか不安要素が多すぎるのも確かだが、飛行に関するあらゆる技術、文献、人材が失われてしまったこの世界ではこれ以上のプランを作成することは難しいだろう。空落ちの日より前に比べれば稚拙極まりないが、取り巻く状況があまりにも違いすぎだ。

 そして残るは操縦する人間だ。今も病院の地下施設にいるのであろう少女を再び空へ誘い出さなければならない。機体の軽量化という意味では少女を乗せずに青年だけで操縦する方が合理的であることは間違いないが、青年にはその選択肢をとることができなかった。


『私と一緒に空を飛びましょう!』


 あの日、何も考えず空港の展望台に突っ立っていた青年に対して突然かけられたその言葉が始まりだった。その時はまともに取り合わなかったが、あそこで声をかけられなかったら今頃空を取り戻そうと躍起にはなっていない。だからこそ、あの少女に空を取り戻してもらわなければならないと理屈ではなく本能が訴える。

 そして何より少女には空を飛ぶことの楽しさをちゃんと知ってほしかった。空のことを嫌いになったままでいてほしくはなかった。出会った時のような希望に満ち溢れる輝いた表情で空を飛んでいてほしかった。

 だから青年には自分だけで高い空へ向かうという選択肢はない。かつてないほどの高みを少女にも目指してもらわなければならないのだ。


 青年は再び病院の地下へと足を運ぶ。以前、連れてこられたときに渡された身分証明書を提示すると、あっさりと中へ通された。これもまた依然と同じように屈強そうな男に白で満たされた廊下を案内されながら見覚えのある扉の前までたどり着く。

 男がカードキーを取り出し、壁に掛けられた端末にかざすと軽快な電子音を響かせながら扉のロックが外れる。

 この先に誰がいるのかはもう知っているが、やはりこうして扉を目前にすると緊張感が沸き立つ。あの時の恐怖に満ちた拒絶を思い出すと、やはり無理をさせるべきではないのではないかと思ってしまう。

 だとしても、青年にはここで立ち止まることなどできるはずがなかった。

 青年はポケットの中に入れておいた少女の大切な写真を意識しながら自らを奮い立たせ病室の扉に手をかける。

 そのまま引き戸をスライドさせて扉を開け、青年は病室に入った。


 *


 少女は孤独から抜け出せずにいた。

 この病室を囲む壁、自らを包むシーツ、足音を吸収してしまいそうなリノリウムの床。それらすべてが白を基調としており、清潔感を演出している。その一方で色素の薄いこの空間では自分が独りだけという事実をより一層際立たせている。傍らで心臓の鼓動を波形として映し出している医療機器がこの場所で唯一動いているものだ。

 思考のまとまらない頭の中には失敗したファーストフライトの様子がぼんやりと浮かぶ。掴まるもののない上空、猛烈な勢いで迫りくる黒い滑走路、体中に痛いほど伝わる衝撃、そして気付けば病室と思しき場所にいる。そういった場面ははっきりと思い出すことができるのに、どこか夢のような感覚を抱いてしまうのは考えることを拒否しているからかもしれなかった。

 そんな折に青年がやってきて少女に詰め寄ってきた。身体的にも精神的にも疲弊した様子だったが、それを感じさせないよう無理にふるまっていたようにも見えた。


「なに、しにきたの」


 少女の口から絞り出された言葉はそんな素っ気ないものだった。驚く様子が傍らの青年から感じ取れたが、何より少女自身が並々ならぬ戸惑いを感じていた。なぜそんなことを言ってしまったのか少女自身でも理解できない。


「わたし、もう飛びたくない」


 そう、これこそが少女の本心。空に近づけば近づくほどに孤独を感じるようになり、今の自分が思っていることをそのまま口に出した。

 だが、心のどこかに小さなトゲが刺さっているようにチクチクとする。本当にそれでいいのだろうかと違和感を覚える。

 それでも感情の大多数は孤独に近づく恐怖と拒絶で満たされてしまっていた。

 青年が少女の肩をつかみ、何かを必死に訴えている。青年の大きな声は少女の耳に届いているが、声を言葉として捉えることができない。まるで工事現場の騒音を耳にした時のように感情は何も動かない。

 それでも、青年が何を言っているのか分からなくとも何を伝えたいのかは少女にも何となく分かった。だが少女の感情は何も動かない。


「もうヤメテッ!」


 気付けば明確な拒否の言葉が突き出されていた。もはや少女は心のトゲの存在を完全に忘れ去り、恐怖と拒絶だけが青年にぶつけられる。

 一度言葉に出してしまうと抑えられていた感情が爆発する。それからはただひたすらに思いを声にして青年にぶつけた。もはや青年がどんな反応をしてどんなことを思っているのか考える余裕は全くなく、心がはじけてしまうかのように激しく吐露する。


「あんな孤独で寂しくて消えてしまいそうな場所なんて、もう行きたくない!」

「誰もいなくて、何もなくて、わたしには耐えられないのっ!」


 とめどなくあふれ出る声の一つ一つが青年に衝撃と戸惑いを与えている事実に目もくれず少女は叫びにも近い拒絶をする。

 そうこうしていると部屋の外から誰かが入ってきたかと思うと問答無用で青年を少女から引き離した。青年は抵抗している様子だったが、そんなことも今の少女にはどうでもいいことだった。

 あっという間に青年は誰かに引きずられて部屋の外へと出て行った。あとに残されたのは目が覚めた時と何の変化もない病室と、独りベッドの上に佇む少女だけになった。

 先ほどの喧騒が嘘のように静寂が満たされたこの空間で少女は自らの瞳から涙が零れ落ちていることに気付く。泣いているという自覚は全くないのにシーツには透明な液体が薄い染みを形作る。

 少女は空を飛ぶことへの恐怖と拒絶という本心を口に出しただけであり、そこに悲しみを感じてはいない。にも関わらず流れ出る涙が何を意味しているのか、少女にもわからない。


 少女は地下施設で独り涙を流していた。


 それからの日々は色素の薄い部屋と同じような退屈な時間が続いた。家に帰ることも空港に行って練習することも無く、よくわからない検査と味の薄い病院食を口にする日々だった。

 ファーストフライトの日から一体どれぐらいの時間が過ぎたのか分からないが、そんなことにすら少女は興味を持てないでいた。この病室では定期的に訪れる検査と食事だけが時刻のすべてだった。今が何月何日の何時なのかというより検査の時間、食事の時間ということだけが分かれば何も問題はないのだから。

 けれどその日は違った。いつも決まった時間に開く病室の扉がいつもと違う時間に開く。定期的に訪れていた現象が不定期に変わったという違和感を体が強く感じる。


「よう、生きてるか?」


 そこには青年がいた。

 しばらく会っていなかったせいか見慣れた姿にもかかわらず新鮮さを感じる。

 少女は拒絶のつもりで何も反応せずにいたが、青年は勘違いしたのかわざとなのかベッド脇に置かれている背もたれのないシンプルな椅子に座る。


「一緒に空を飛ぶぞ」


 青年はシンプルにそう告げる。少女は目を合わせることなく虚空を見つめながら聞き流す。


「ここまで来て空を諦めてどうする。まだこれからが本番だぞ」

「関係ない。私はもう飛びたくない」


 久しぶりに出した声は想像以上にかすれていた。それでも何とか少女は自分自身の思いを声にする。


「空の上は孤独で寂しくて何もない。そんな所に行きたくない」

「いきなり一人でファーストフライトをさせたのは俺のミスだった。それについてはすまないと思ってる。だから今度は一緒に飛ぼう、そのための準備もできてる」

「興味ない」


 少女は素っ気なく答える。今更、失敗を謝罪されたところでなんとも思わない。ましてやその対策についても微塵の興味も湧いてこなかった。そんなことはファーストフライトで心底感じた孤独感や恐怖心に比べれば少女にとって些細なことだ。

 少女が依然と全く変わらない態度をとっていると、再び病室は静寂で満たされる。

 そして青年は何かを決心したのか、ポケットの中を探り何かを取り出す。


「ほらよ、忘れ物だ」


 青年はそう言いながら少女に一枚の写真を見せる。


「それは……」


 そこには世闇に煌めく街の明かりが切り取られていた。夜景を見下ろすような特徴的な視点が上空から撮影したものであることを如実に物語る。

 それは少女が大事にしていた今は亡き父が残してくれた写真だった。目に焼き付ける程に何度も見返したその写真を見間違えるはずもなかった。


「これはお前が持ってないといけない物だろう?そしてお前が成し遂げないといけない物でもあるはずだ」

「そんなはずない!わたしはもう空を飛びたくない!」


 少女は必死に訴える。


「お前はそんなこと思っちゃいない」

「嘘よ、わたしの気持ちはわたしが一番分かってる!」


 少女は必死に叫ぶ。


「ならどうしてお前は泣いているんだ?」

「……え?」


 青年の思いがけない言葉に少女は戸惑う。言われて少女が自分の頬を触ると、そこにいつもはないはずの湿り気を感じる。


「俺もお前も、ただ空が好きなだけだ。夢でも理屈でも何でもいい、ただ空が飛びたいだけのどうしようもない気持ちを持ってる。持っちまったら飛ぶしかないんだよ」

「嫌よ、空の孤独なんてわたしには耐えられない!」

「なら聞くが、今のお前は孤独じゃないのか、こんな何もないところにいて独りじゃないのか」

「それは…」


 少女は返答に窮する。時間も分からないままに過ごしたこの病室には何の思い出も感情もない。あるのはただ無為に過ぎる時間だけだ。


「俺も蒼空の会が解散してから独りだった。周囲のだれもが敵意むき出しでまともな住処にもありつけない。正直、このまま野垂れ死んでもいいとさえ思ってた。だけどお前が現れた。きっかけは些細なことだったかもしれない、それでも気付けばまた空を目指してる」


 少女は涙を流しながら青年の言葉に耳を傾ける。青年の言葉が不思議と強張っていた少女の心を解きほぐす。青年の言っていることは非論理的な感情に突き動かされているだけの内容だ。それでも聞き入ってしまうのは、やはり少女が空に強い思いを抱く人間であることの何よりの証だった。


「もう俺たちは飛ぶしかないんだ」


 その言葉は少女に覚悟させる。その覚悟は地に這いつくばり続けることでも空から遠ざかることでもない。


「あんたってバカね」

「…は?」

「バカって言ったの。それも大バカよ、大バカ」


 そう言いながら少女は袖でぞんざいに涙を拭う。


「でも、わたしも同じ大バカだったということね」


 少女はもう迷わない。再びその瞳に空を目指す勝気な感情を宿らせるのだった。


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