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空喰い  作者: とりとん
第4章 空高く舞い上がるその時まで
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グライダーの本質

 少し汗ばむ陽気の下、青年は『喫茶店イカロス』と書かれたプレートの下げられた扉の前にいた。その下には同じようなプレートに『open』という文字が踊っている。

 馴染みの深い喫茶店だが、今の青年はなんだか初めて入る店のような緊張を感じていた。空深空港からの帰りがてらに何度も来たことがあるはずだが、少女のファーストフライトを迎えてからしばらく忙しい日々が続いていたこともあり足を運んでいなかった。

 にも関わらず営業カレンダーの存在しない気まぐれでやっているはずの喫茶店イカロスが偶然にも開店中であることはあまりに出来すぎていると感じてしまう。


「あのマスターのことだ、俺たちが今やってることなんて筒抜けだよなあ」


 青年としては空深空港で親方と姐さんを交えてモーターグライダーの修理をしていることは誰にも話していないのだが、目の前に掲げられた『open』の文字はいかにも自分たちがしていることが知られているような気がしてならなかった。

 青年はそんなことを少しだけ考えていたが、それも今に始まったことではないうえに目指す目的は同じこともあってマスターのことを信用するほかない。

 軽いため息をつきながら喫茶店イカロスの扉を開くと、聞きなれたカランカランという乾いたベルの音が鳴る。

 店内に入ると、軽く冷房を入れているのか少しだけ冷たい空気が出迎える。底冷えしない程度に効いている冷房は純粋に汗ばんだ肌に心地よかった。

 店内を見渡せばいつものように客は誰一人としていない。今思えばそもそも営利目的では無いのだろうから何も問題はないのだろうと思う。

 カウンター席を挟んだ向かい側では見慣れた姿のマスターがグラスを磨いていた。客がおらず使われていないはずのグラスを磨いている意味は今でもよく分からないが、落ち着いた雰囲気のこの喫茶店に溶け込んでおり一見しただけでは違和感を全く感じない。


「来ると思っておったぞ」


 マスターの呼びかけに青年は応じることなく無言でカウンター席に座る。そしてマスターは青年の注文を一切聞くことなくコーヒーを挽き始める。


「あいつらを呼んだのはマスターの仕業か?」

「さて、なんのことかね」


 コーヒーを淹れるマスターの背中に青年は問いかけるが、返された言葉は良くも悪くも青年の予想通りだった。きっと今も青年たちが思った通りに動いていることを内心で満足し笑みを浮かべていることだろう。

 一体この男はどこまで知っているのか気になったが、どこからどうやって情報を集めているのかについては知らないほうが幸せな気もする。


「当店自慢のブラックコーヒーじゃ」


 マスターはそう言いながらコーヒーカップを青年の目の前に置く。客の来ない喫茶店でコーヒーを自慢されても説得力に欠けるというものだが、それも今に始まったことではないので口には出さない。

 青年は淹れたての熱いコーヒーを一口すすると、今日の本題に入る。


「マスターのことだからもう知ってるんだろうが、一応言っておく。俺と少女で空に駆け上がり、あんたの言うワクチンとやらを空からばらまいてやる」

「…そうか」

「だから今日は具体的な話をしに来た。そのワクチンの重さは、大きさは、そしてどこからいつばらまく?」

「まあそう焦るでない。のめり込むと見境なくなるのがお前さんの悪い癖じゃぞ」


 やはり空深空港での動きをマスターは把握しているのか、全く驚く様子を見せない。それどころか青年のはやる気持ちを押さえつける始末だった。

 マスターは少しだけ間を開けると、カウンターの下から円筒形のガラス管を取り出した。手のひらに収まるほどの大きさのそれをカウンターに立て置くと、中は薄い水色の液体で満たされていることが分かる。


「これがイカロス症候群に対抗するワクチンじゃ」

「たったこれだけ?」


 全てのイカロス症候群発症者を治してしまうと聞いていたから軽くバケツぐらいの大きさはあると思っていた青年だったが、それはただの思い込みだったようだ。カウンターの下から出てきたことと取り出された物体の小ささに拍子抜けする。


「たったこれだけじゃが、増幅力が強力じゃから効果は信頼することじゃな。言っておくが間違っても地上でガラスを割るなよ」

「割れたらどうなる?」

「多少の増幅力は発揮するが、せいぜい空深市全体を覆っておしまいじゃ。中途半端にこの街におる人間だけが治ってしまうと意味は無い。それどころか空憑きとして街ごと他の大多数に潰されてしまうじゃろうな。お前さんとて数の暴力は今更言わんでも分かるじゃろう」

「……それは勘弁してほしいな」


 この空深市に住んでいる人に罪はない。ある日突然、空に恐怖するようになり、そしてまたある日突然、その気持ちが霧消したかと思えば急に異端扱いされる。そんな扱いを空深市丸ごと受けたとなれば大きな争いになることは間違いない。良くも悪くも今までは異端側の人間が少ないからこそ大事にはなっていないのだろう。

 目の前に置かれたガラス管の持つ意味は実態としての大きさに反してとても重要なものらしい。うっかり落として割ってしまわないよう細心の注意が必要なようだ。


「だが、これぐらいの大きさと重さなら飛行に支障はなさそうだな」

「何を安心しておる?次は散布する高度じゃが、少なくとも3000は必要じゃ」

「なっ、3000だと!?」


 次いで明らかにされた目標に青年はのけぞる。高度3000という場所はモーターグライダーにとっては本来あり得ない高度である。少女のファーストフライトである高度100は低すぎるとしても、3000という場所にモーターグライダーで到達したことなど青年自身にも経験がない。


「いくら何でも無茶苦茶だ、どう考えてもバッテリーが持たないだろ」

「お前さん、どうやらグライダーというものの本質を忘れておるようじゃの」

「何?」

「いいか、本来グライダーというのは動力を持たん。その広い翼で風を受け、自力で飛行するものじゃ。うまく風をつかめばどこまでも高く飛び上がるはずじゃ」

「確かにそうかもしれないが…」


 マスターの説明はまるで教科書に載っているかのように正しい。モーターグライダーには名前の通りモーターが取り付けられプロペラで前進する力を発生させるが、そもそもそれは飛び上がるための補助的な機能でしかない。あくまでグライダーというのは動力を持たないことの方が本質的な姿に近いのだ。

 だが、それはあくまで原理的な話であって現実はそうもいかない。動力を持たないということは別のどこかからエネルギーを貰わないとより高い場所へはたどり着けない。その別のどこかこそが風の力なのだが、気まぐれにも近い風の力を得続けることは非常に難しく、風が止んだその時点で後は降下することしかできなくなる。


「ええか、もう四の五の言わずやり遂げるしかないんじゃ。前も言うたがわしらには時間が無い」

「やるしかない、か」


 地下施設で見せたように今もマスターは焦りを露わにしている。これまでの立場や経験を考えると肝の据わった人間であるはずだが、その人間がこうも焦るということはやはり時間が無いのは確実なようだった。

 確かにここにきて諦めることなど青年にはできない。今も空深空港では仲間が懸命にモーターグライダーの修理に取り掛かっている。それに青年自身も再び空を人々が行き交う世界を取り戻したいと強く思っている。


「分かった、やってやる」


 青年は一言そういうと、水色の液体が満たされたガラス管を受け取る。


「一応言うておくが、高度3000では気温はマイナスで酸素も薄い。防寒着と酸素缶を忘れないよう気を付けるんじゃな」

「言われなくてもそれぐらい知っている」


 青年は強気でそう返すが、改めてそう言われると目指す場所の地上とのあまりの違いに自信を無くしてしまいそうだった。

 ここまで来てはできる限りの準備をしてベストを尽くすしかないと思いなおしながら自らを奮い立たせる青年だったのだ。

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