特別な場所
時の流れは誰にでも平等だ。青年の激動の一日は終わり、何事もなかったかのようにいつも通りの夜明けが訪れる。あまりに多くの出来事があり、未だ頭の中で整理の追い付いていない青年だった。清々しい朝日とは対称的に青年の心では今でももやもやとする思いが渦巻いている。
はっきり言って、何もできなかった。
順調なファーストフライトかと思いきや、いきなり理由も分からずモーターグライダーは墜落した。微動だにしない少女に何度も呼び掛けるうちに、今度はいきなり喫茶店のマスターが現れた。言われるがままについていくと、病院の地下設備という存在することすら知らない場所に連れていかれた。目を覚ました少女に会えばまるで別人のようだった。その後は突拍子の無い話を延々と聞かされ、脳が理解する前に夜が更けた。
長いマスターとの会話はすべてはっきりと覚えているのに、自分がこれからどうすればいいのか全く見当がつかない。まるで地図を渡されないまま見知らぬ土地に放り出されたように、どこへ向かえばよいか分からない。
しかし、青年は自然とこの廃墟のような住処にとどまろうとはしなかった。青年が蒼空の会のリーダーであることを嗅ぎつけた住民たちが残した迫害の傷跡は見ていて嬉しいものではない。こんな場所にとどまるぐらいならあてもなく外をぶらつくほうがましだった。
玄関の扉を開けるとひんやりとした朝の空気が肺に取り込まれる。まだ低い位置にある太陽は高空をたなびく薄い雲をオレンジ色に照らし、一瞬だけ夕刻か朝方か見分けがつかなくなる。この澄んだ空気こそが夜明けであることを明確に主張しているが、今の青年には清涼な空気を感じる余裕は無かった。
住処を後にしてからは目的も意味もなく外を歩いた。若干の運動は青年の心に余裕をもたらしたのか、少しずつこれからのことを考え始める。
昨日のマスターの話を思い出し要約すれば、あの少女と自分とでワクチンを空高くまで運び、ばらまけば人間は空を取り戻せるらしかった。これまで様々な困難をもたらした空喰いという存在が、たったそれだけのことで解消されるとは簡単に信じるわけにはいかないが、マスターの説明は芯が通っており青年の少ない知識と経験では反論も確証を得ることも難しそうだった。
まとめれば、たったそれだけのことなのだが当然のようにそう簡単に事は運びそうにない。
まず、モーターグライダーそのものを直さなければならない。今思い出すだけでも背筋が凍る思いだが、モーターグライダーは墜落の衝撃で損傷している。どれぐらい損傷しているのかは詳しく機体を調べなければならないが、少なくとも出来上がった部品を組み立てるのとは難易度に次元が違うだろうことは想像に難くない。
そして壊れたモーターグライダーと同じように少女の心も変わってしまっている。空を飛びたくないとはっきり口にしたあの少女が簡単に操縦かんを握ってくれるとは思えなかった。マスターの話では過度のストレスに気分が落ち込んでいるだけでイカロス症候群は発症していないと言っていたが、心理学など勉強したことのない青年にはどうすればよいのか分からない。
加えてマスターは気になることも言っていた。しきりに『陸の奴ら』と口にしていたが、その組織に監視されているらしい。あの地下施設も見つかりかけているらしく、残された時間が少ないのだろう、別れ際のマスターにはこれまで見たこともない焦りを感じさせた。
考えれば考える程、置かれた状況の悪さに幻滅する。どう楽観視しても、この追い詰められた状況を打破できるような行動が思い浮かばなかった。
昨日から何度も繰り返したように思考の迷宮にはまり込む。もういっそのこと、何もかも投げ捨ててしまいたかった。
仕事も選ばなければ定職にはつけるだろう。地に足のついた仕事をして、安定した日常生活を手に入れる、ごく当たり前の人生を送る。空喰いのこともモーターグライダーのことも忘れて、まっとうに生きる。そんな生き方のほうが楽で安定しているのではないだろうか。
青年はそんな生き方をする自分の姿を考える。だが、何度考えても自らがそんな生き方をしている姿を思い浮かべることができない。それどころか、青年の中にはつまらないという感覚が浮かんでいた。
気付けば日も高く昇り、つられて気温も高くなっていた。何時に玄関から出てどれぐらい歩いていたのか、顔を上げると車がほとんど通らない交差点に差し掛かっていた。右手に見える廃業したコンビニ跡地は、青年にとっては何度も目にした見慣れた風景だ。ただ漠然と歩き続けていたので気付くのに時間がかかったが、そこは空深空港へと続くバイパスへつながる交差点だった。車で通りすぎるこの場所は青年の住む場所からそれなりの距離があるはずだったが、思考に没頭しながら歩いていると気付かないうちにこんなところまで来てしまったようだ。
ここで青年は自分の車が空深空港に置き去りになっていることにようやく気付く。少女と一緒に地下施設まで連れられたときはマスターが同乗する車で連れていかれていたし、青年の住んでいる場所までも車で送り届けられた。目まぐるしい展開に自分の車のことなど完全に忘れてしまっていた青年だ。
歩きとはいえここまで来てしまった上に、空深空港に車を置きっぱなしにしていることを気付いたからには青年の向かう先は決まりきっている。少しばかりの疲労感をにじませる足でバイパスの坂道を登り始めるのだった。
いざ目指す場所が決まると、なかなかたどり着かないもどかしさが沸き立つ。あてもなくバイパスの入り口まで歩いた距離のほうが遥かに長いはずなのに、残りの空深空港までの道のりはそれよりも数倍の長さがあるように感じた。目的地が決まると、そこを目指す焦りからなのか時間と距離間が鈍ってしまうようだ。
やっとの思いで空深空港に到着すると、見慣れた自分の車が駐車場に停められていることに気付く。ひび割れたアスファルトや乗り捨てられ赤茶色の錆が浮いている車の中では今も動く青年の車はひどく目立っていた。誰も来ないような場所とはいえ、自分の車が無事だったことに少しばかり安堵する。
そして日常生活の一部であるかのように青年の足は自然と空港の展望台へ向けられる。この何年もの間で繰り返された行動は今日も変わらず繰り返される。
人気を全く感じさせない空港の出発ロビーを通り抜け、上階へ足を運ぶと展望台へ続く割れたガラス扉が目に入る。そのまま扉を通り抜けると、視界はいつもの青空と黒い滑走路、周囲を緑の山々に囲まれた見慣れた景色にたどり着く。
しかし、滑走路には見慣れない物体が存在している。そこには車輪が外れ、大小の部品をまき散らしプロペラも外れたモーターグライダーの姿があった。白い胴体には焦げたような黒い痕跡が残り、痛々しい姿そのままに取り残されたモーターグライダーは青年に否が応でも昨日の記憶を呼び覚ます。少女の乗った機体が滑走路めがけて一直線に突っ込んでいく姿は鮮明に瞼の裏に浮かんできて今にも冷や汗が噴き出しそうだった。
壊れたモーターグライダーの姿から目をそらすために横に目をやると、誰もいない展望台がそこにある。肌色のタイルで埋め尽くされた床と誰にも使われなくなった有料の双眼鏡は、ここで行き来する飛行機の姿を眺める人がいたという何よりの証だ。それも今となっては展望台どころか空港に近寄る人もいなくなり、青年は自分が今でも孤独であることを思い知らされる。
そういえば、ここで少女に会ったのは果たしてどれぐらい前だったろうか。それほど長い時間が経過したとは思わないが、唐突に指をさされて空へ誘ったあの姿は遠い過去のようだ。特に地下施設で目にしたあの少女の変貌ぶりを考えると、ここで少女と出会ったことはまるで夢のようで実感が湧いてこない。
気付けば、この空深空港という場所では多くの出来事があった。蒼空の会として活動拠点にしていたのもこの場所であり、自衛軍の襲撃により仲間を失う瞬間を目にしたのもこの場所だ。空を諦めていながらもこの場所に通い続け、偶然にも少女に出会ってしまったのもこの場所だ。少女が空へ飛ぶ努力をしたのもこの場所、そしてファーストフライトを迎えたのもこの場所、そのファーストフライトの無残な結末を目の当たりにしたのもこの場所だ。
あらゆる出来事の始まりと終わりがこの場所で繰り広げられていた。何度も足を運んだこの場所が、そんな特別な場所になるとは思わなかったが振り返ってみればただ空を眺めて物思いにふけるだけの場所ではなくなっていた。
「やっぱりここに居やがったか」
「いつまで経ってもあなたは変わらないわね」
突然、青年の背後から野太い男性の声と凛と澄んだ女性の声がした。半ば反射反応のように素早く振り向くと、そこにはかつての仲間がいた。
「親方に姐さんじゃないか」
青年にって特別なこの場所は今日も人をめぐり会わせる。そしてこの出会いが生み出すのはやはり空へ向かう原動力だった。




