イカロス症候群
「空喰いの正体を教えてやるべきじゃな」
「空喰いの正体…」
マスターは不敵な笑みを浮かべながら確かにそう言った。そしてその表情は真実を知っていることの裏返しであるかのように自信に満ちていた。
この顎髭を生やした年寄りが航空自衛軍だったという話もまだにわかに信じがたいが続けられた会話はさらに信用できなさそうだった。
「空喰いに正体なんてものがあるってのか」
「ああ、あるとも。まあわしらもからくりに気付いた時には手遅れじゃったがな」
少しだけ遠い目をするマスターは昔のことを思い出しているようだった。航空自衛軍という立ち位置とこれまでの7年間を振り返れば決して良い思い出ではないのだろう。
「さて、話を進めさせてもらおう。お前さん、空間識失調という言葉を聞いたことがあるかな?」
「唐突に何を言っている?」
「まあ、ええから。聞いたことあるのか、ないのか」
空間識失調、その言葉を青年は頭の中で反芻しながら思い出す。大学で本格的に航空関連の勉学に励み優秀な成績を修めていた青年にとっては基礎知識の一部だ。
「飛行中に自分が上を向いているのか下を向いているのか、さらには落ちているのかどうかも減速しているのか加速しているのかすらも分からなくなってしまうこと」
まるで教科書を読み上げるようにスラスラと青年はマスターの問いに答える。
「さすがじゃな、専門教育機関を主席だっただけはあるようじゃの」
「…で、それがどう関係するんだ」
青年は焦りをにじませながらマスターに先を促す。だがマスターは先ほどと全く変わらない調子で再び別の問いかけをしてくる。
「そう結論を急ぐでない。お前さんの経歴はわしも把握しておるが、空間識失調の経験はあるかな?」
「……」
何も答えない青年だったが、その頭の中では苦い経験が呼び起こされていた。それは大学でのフライトシミュレータを使った練習での出来事だった。何度もシミュレータを使うことで慣れ始めたころ、調子に乗ってアクロバット飛行をしてみたことがあった。シミュレータということで気が緩んでいたのも一因だったが、とにかく青年は調子に乗っていた。
宙返りをして陸と空の位置が上下逆の景色を楽しんでいた時、ふいにその感覚は訪れた。視界は確かに反転した陸と空を捉えているのに、自分がどんな姿勢で飛んでいるのか感じることができなくなってしまった。
まるで目隠しをされて水中に放り投げられたようだった。もがくように操縦かんを動かしたりエンジン回転数を変えてみたりするが一向に感覚は戻らない。シミュレータに投影された景色や計器は確実に正確に今の状況を表しているが、その時の青年は一切計器を見ることができなかった。
無意味にもがき続けるうちに陸地が迫り、視界全てを地面が覆ったときにシミュレータのモニタはブラックアウトした。
気付けば青年の呼吸は荒く全身から粘っこい冷や汗が噴き出していた。全身から力が抜けてしまい、自力でシミュレータから出ることができなかった自分の体を教官と同級生の4人がかりで抱えられた。
この時初めて青年は空間識失調を身をもって体験したのだった。この強烈な経験は青年にとって思い出したくないトラウマのようなものだ。
「どうやら経験はあるようじゃな。ちなみにどんな感じか覚えておるか?」
「…怖かった」
あの強烈な体験は今思い出しても恐怖を感じる。
「さて、話を戻すとしようか」
マスターは青年に一方的に質問したかと思えば手のひらを返したように一言で今度は話を進めていく。
「7年前のあの日、今では空落ちの日と呼んでおるが、ある国の海の上でとある新兵器の実験が行われた」
「新兵器?」
突拍子もなく飛び出した物騒な言葉に青年は眉をしかめる。かつての航空自衛軍幹部が兵器実験のことを語るなど良いイメージは一つとして浮かんでこない。
「その新兵器は空の軍事バランスを揺るがすほどの代物でな、ある効果を発揮する薬品をミサイル弾頭に搭載しておった」
「薬品だと?」
「勘のいいお前さんならもう気付いてるんじゃないのか」
言われた通り、青年は少しずつ空喰いの正体を予感しつつあった。だが、その事実を認めたくないがゆえに心の中のどこかが口に出すことを躊躇わせていた。
なおも口をつぐんだままの青年の様子を見てマスターはその事実をあっさりと突きつける。
「空間識失調を人工的に引き起こすのじゃ」
もはや青年は驚かない。
「そして、その兵器実験は見事に成功したのじゃ。というよりも、成功しすぎてしまった。実験的に散布された薬品は仮想標的の海鳥に空間識失調を発症させることができたが、空中で薬品は想定外の自己増殖を繰り返した。数分後に実験部隊は丸ごと全員、空間識失調を発症し海へ真っ逆さまに墜落した」
青年は再び空落ちの日のことを思い出す。あの日、確か一番最初に墜落した飛行機は海上だったはずだ。そういう意味ではマスターの言っていることには裏付けがあった。
「そして画期的な最新兵器はウィルスのように空気感染を繰り返したのじゃ。空中を広く漂っていた薬品は、同じ場所を通過した飛行機に侵入すると機内の人間全てを空間識失調に陥れた。機内で増殖したウィルスは別の場所で墜落し、再びウィルスをまきあげる。そんなことを繰り返してあらゆるところへ瞬く間に感染していきおった。あとはお前さんも知っておるようにあらゆる航空機が墜落してしまったのじゃ」
青年は黙ってマスターの話すことに耳を傾けている。
「じゃが空落ちの日だけでは終わらなかった。その薬品は空にいる者だけでは飽き足らず地上の人間にまで害を及ぼし始めた。その害とは、空に対して空間識失調で感じるような本能的恐怖心を生じさせることじゃ。感染した者は空に対して異常なまでの拒否反応を示し、空に関わろうとすることを極端に避けるようになる。わしらは地上で起きたこの症状をイカロス症候群と呼んでおるがな」
「イカロス症候群だと?」
「ほれ、蝋の翼で飛び立ったが太陽の熱で翼が溶けて墜落した神話があるじゃろ。それにあやかっておるだけじゃ」
「なら、空喰いの正体は…」
いつの間にかカラカラに乾いてしまったのどからかすれる声で青年はマスターに問いかける。もはやその問いの答えは明らかも同然だったが、青年は問わずにはいられなかった。
「イカロス症候群を発症した人間たちが自らを正当化するために生み出した何か、といったところじゃな」
そのイカロス症候群とやらを生み出してしまったのが人間である以上、空喰いという存在も人間が生み出したようなものなのだろう。青年は心中でそんなことを思っていた。
「というより、今やイカロス症候群感染者は人類の9割を超えておる。異分子はどう転んでもわしらのほうじゃがな」
「なら、俺たちが残りの1割ってところか」
「いや、それがそうでもないのじゃ」
唐突にマスターは遮る。その声は少しだけ固く、珍しく緊張でもしているかのようだった。
だが、続けられたマスターの言葉青年に少なくない衝撃を与える。
「お前さんと嬢ちゃんを除いて、わしらはすでに感染しておるよ」
「は?」
あまりに唐突すぎる展開に青年の思考が一瞬、停止するがすぐに次の疑問が浮かんでくる。
「ならどうしてあんたらは平気な顔で空に関われる?イカロス症候群の恐怖心とやらはどこに行ってんだよ」
「病気というのは個人差がつきものでな、わしら元航空自衛軍は空に慣れていたせいか恐怖心という名の症状が軽いようじゃ。この病院の地下で開発されたワクチンを投与されてなんとか自我を保てているだけじゃがな」
その言葉を聞いて青年はハッとする。今、確かにこの初老の男はワクチンといったのだ。
「ワクチンがあるなら、それを使えばいいじゃないか。さっさとみんなに投与して病気を治してやれよ」
「それがそうもいかんのじゃ」
「どういうことだ?」
「ええか、9割の人間たちにあんたらは病気だからこの薬で治してください、などと言って通じると思うか?相手は病気だなんて思ってはおらんのじゃぞ」
「そんなの、無理矢理にでも治させるしかないだろ」
「どこにそんな強制力があるんじゃ?」
「それは…」
そういわれて青年は言葉に詰まる。そもそもこうして地下に潜り込んでこそこそしている時点で自分たちの立場がどれほど弱いのかを痛感する。自分たちが無理矢理に誰かを拘束してワクチンを打って回ったとしても対処できる人数なんてたかが知れている。それどころか、そんなことを繰り返すうちに誘拐犯として指名手配されて警察に追い回されるのがオチだろう。仮にワクチンで治った人がいるとしても、9割の人間が抱いているイカロス症候群の恐怖心が生み出す行為によって、その人も押しつぶされてしまってもおかしくない。
こうして考えてみると数の力というのは圧倒的だった。解決するための手順があるにも関わらず、それを実行することすら許されない状況が勝手に作り出されていた。
「まあそう落ち込む出ない。何のためにわしがここにお前さんと嬢ちゃんを連れてきて、こんな話をしておると思っとるんじゃ」
唐突にマスターがそう言うと、続けて反抗的な意思をその目に宿らせ口元をにやつかせながら言う。
「聞かせてやろう、空の取り戻し方をな」
マスターは自信たっぷりにそう言った。




