青年の苦悩
青年は誰もいない部屋で独り考え込む。
意味の分からないまま大げさな警備で囲まれた病院の地下施設という居心地の悪い場所に連れてこられ、机と椅子しかない部屋に案内されたかと思うと外から鍵をかけられてしまった。
表現によっては完全な犯罪行為のような目にあっているが、青年はこんなところに閉じ込められたことよりも少女の飛行訓練を思い出していた。周囲に誰もおらず、物音一つしない空間だからこそ思考に集中することができる。
「飛行中に何が起きたんだ…」
地上から無線でサポートに徹していた青年には未だに突然の出来事の理解が追い付いていなかった。離陸から空中での周回までは何の問題もなくこなしていたはずだ。少女の感じていた緊張は青年も感じて取れていたが、その緊張も操縦に支障が出るようなタイプではなかった。むしろ適度な緊張は集中力を向上させるはずであり、あの時の少女はまさにその状態にあると思っていた。
だが、結果は今でも思い出したくないような惨状となってしまった。
「墜落だよな」
思いがけず口にしたくない言葉を口にしてしまう。「これはかなり気分が沈んでいるな」と自虐してみるも気持ちが軽くなることはなかった。
墜落。もっと言えば着陸失敗ではなく墜落である。なにしろ着陸の体制を整えるという行為すら実行できていないのだ。これが着陸失敗と墜落の明確で大きな違いだった。
そもそも、様子がおかしかったのは安定飛行中からだったことを思い出す。突然、機体の姿勢が左右に揺れ始めた時にはすでに無線で呼びかけても反応が無かったのだ。機体が左右に揺れる動作は機体が安定を取り戻そうとするからこそ生まれる動きであると教えられたことがあるが、それはあくまで機体自身の安定性能が実現する動きだ。
つまり人の手による動きではない。別の表現をするならば、あの時すでに機体は人間の意思でコントロールされていなかったということになる。
「だが、なぜだ」
青年は当然の疑問を抱く。少女が操縦かんから手を放していたことは予想がつく。しかし、その理由がどう考えても説明がつかない。一体何が起きて操縦かんから手を放すなどという行為に及んだのか、そして呼びかけても何の反応も示さなくなったのか。
気になることは他にいくらでもあった。まるで何かの呪文のように無線からは「いやだ」という少女の暗い声が届いてきたのだが、何に対しての拒否なのか見当がつかない。大丈夫か、とか聞こえるか、と青年から呼びかけたのは間違いないが、その答えにしてはあまりに不自然すぎる。
それに、墜落直前に少女は「空喰い」と言った。あの時にその言葉を口にすることが示す意味はなんなのだろうか。タイミングを考えれば何かを拒否する言葉と関係があるとしか思えないが、だとしても今の青年にはどういう関係があるのか全く分からない。
「分かんねえ」
考えることに疲労を覚えた青年は固い椅子の上で体を弛緩させる。学生時代はそれなりに空のことを勉強してきたし、空落ちの日が過ぎてもモーターグライダーを自作するチームを率いることができていた。空に関しては自信のある青年だったが、少女の身に起きたことはどうにも説明できそうにない。
青年は一旦、考えることをやめて頭の中をリセットする。少しずつクリアになってくる思考の中で、やはり一番気になるのは墜落直前に聞こえてきた空喰いという言葉だった。
やはり空には何かがいるのだろうか。これまで周囲の人々からは何度も「空喰いに手を出してはならない」と言われてきたが、心のどこかではそんなものはいないと高をくくっていた。だが、こうして不可解な出来事を目の当たりにすると、そこに何かがいるのではないかという気分になってくる。
少女はその何かに取りつかれたから幻覚でも見て異常な行動に走ってしまった。
そう説明すれば多くの人が納得するような気がした。そう考えている自分自身も心のどこかでその説明に納得しつつあるのかもしれなかった。そして何かに名前を付けた存在が空喰いではないのか、と。
ところが一方ではその存在を決して認めたくないという思いも青年は抱く。あらゆる努力と技術の結晶が飛行機という道具を生み出し、この道具を人間は進化させてきたのだ。そんな意味の分からない存在にこれまで培ってきたものが全否定されることは理屈ではなく心底許せない。
気付けば青年は既に状況分析などしていなかった。論点はぶれ続け、自分が一体何の答えを求めて考え続けているのか分からなくなっていた。
その事実に気づいた青年は、やはり今の自分は完全に冷静さを欠いていると実感する。こんな状況で考えて出した答えに納得できるとは到底思えない。
それでも青年は考えることをやめられなかった。堂々巡りの思考は無意味に青年の気力を消耗させるだけだった。
*
「お前さん、大丈夫か?」
青年は突然の呼びかけに驚きつつ俯いていた顔を上げる。すると、そこには見慣れた顔のマスターと見知らぬ2人の男が両脇に立っている。どうやらその存在に気づかないほど思考に没頭していたらしかった。
「ああ」
弱々しい声で青年は答える。ひとまず会話はできそうだと判断したマスターはそのまま話を続ける。
「嬢ちゃんの意識が戻ったぞ」
「本当か!」
人間、不幸中の幸いには喜びを感じるものらしい。青年は内心でそう皮肉めいたことを感じたが、それでも意識が戻るという吉報は一時的に疲れを忘れさせてくれた。
「病室まで案内してやるから、こいつについて行くとええ」
そう言いながらマスターは石像のように右隣に控えている男を指し示した。どうやら今回もマスター自身が案内する気は無いようだったが、一刻も早く少女の無事を確認したかった青年は男の案内についていくことにする。
青年と案内役が部屋を後にして扉が閉められると、机と椅子しかない無機質な部屋にはマスターと左隣に控えていた男だけが取り残される。
ふいに男はマスターに疑問を呈する。
「よろしかったのですか?あの青年には少し酷では」
「いずれ分かることじゃ。それにあやつは一度痛い目を見とる。心配は無用じゃ」
「大佐がそうおっしゃるなら自分としては異存ありません。しかし」
なおも不服そうな様子の男に向けてマスターは説明を続ける。
「むしろ今の嬢ちゃんにはあやつが必要じゃ。それこそ嬢ちゃん独りでは耐えられまい」
「…了解しました」
マスターの落ち着いた説明で男は納得したようだった。それ以上言葉を重ねることなく、主に従う番犬のような雰囲気をまとって佇んでいる。
「さて、これから忙しくなりそうじゃのう」
考えなければならないことが山積みになっているマスターは喫茶店に戻ってグラス磨きでもしたい気分になるのだった。




