表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空喰い  作者: とりとん
第2章 たとえ空に拒絶されようとも
20/39

ファーストフライト

 

 この世界で空を支配しているのは空喰いである。


 モーターグライダーの操縦練習が順調に進んでいたからか、その厳然たる事実を少女は失念していた。何事もなくシミュレータを使った練習は終わりを迎え、次は実機を使って本当に空へ飛び上がろうとしていた。もうすぐ空という夢にまで見た場所に行けると思うと浮足立つのは仕方なかったかもしれない。

 だから青年から預かった空についての解説本を少女は嬉しそうに母に見せてしまった。それを目にした母がどんな反応を示すか知らない少女ではなかった。

 そして空を忌み嫌う母が空について書かれた本を見てしまった。当然、母は別人に変貌し少女を激しく糾弾した。


 そう、これが当然のこと。


 この世界では少女が為そうとしていることのほうが遥かに常軌を逸している。空という場所に一切目を向けることなく、安定した地面に張り付くことが人々を安心させる。そのような安定から足を踏み外そうとする行為は周囲・世間・常識といった大衆意識が許さない。

 きっと母も常識の一部分として少女を糾弾しただけなのだろう。


 それでも少女はあきらめない。


 すでに少女は母という一個人だけに立ち向かっているわけではないことを無意識に感じていた。

 自分が立ち向かっているのは空を見上げないことに執着する群体や思想だ。一体何が原因でこんな世界になってしまったのかわからないが、人々が空喰いと口にする何かに立ち向かっていると言い換えてもいい。

 始まりこそ父が見せてくれた夜景の空撮写真と同じ場所を目指すことだった。今でも目標として揺るがないが、少女は少しずつ約束を果たす以外の意味を自分の行為に見出し始めていた。


 もしかすると、以前の少女のようにただ父との約束を果たすためだけに行動していたとすれば再び目にした母の豹変ぶりに委縮して夢をあきらめたかもしれない。

 だが、すでに少女はこの世界で起きていることを知り始めていた。

 空落ちの日に自分の父を含め多くの命が奪われたこと。そこから理不尽にも空に手を出すことを禁じられたこと。それに抗い、なおも空を目指し続けた人々がいて、その人たちが辿った運命を。図書館の女性職員は優しい眼差しで少女に思いを託してくれた。町工場の親方は熱い気持ちを何年も失わずに抱き続けたこと。そして瀕死の状態になっても夢をあきらめずプロペラを少女のところまで送り届けてくれた若者。

 いろんな人が抱いたいろんな思いを少女は知っている。だからこそ、少女が抗っているのは母だけではない。少女が果たしたいのは父との約束だけではない。


 だが、少女はまだ知らない。

 若く経験の浅い子供が立ち向かうには、あまりに大きすぎる壁であることを。


 *


 青年が少女に宿題を与えてから一週間後、ついに少女が空へ飛び立つときが来た。ここまで順調に事が運ぶとは思っていなかったが、一度空を諦め灰色の毎日を送っていた青年にとってはやはり感慨深いものがある。

 しばらく雨が続いていた空模様だったが、幸いにもこの日の空は晴れていた。ところどころに雲の塊が見えるが風もほとんど無いため絶好のフライト日和だ。

 だが、よく晴れているからこその懸念もある。それについて青年は目の前にいる少女に淡々と告げる。


「さて、今日初めて空に飛びあがるわけだが、一つ注意事項がある」

「注意事項?」

「特にお前は空大好きっこだから肝に銘じとけ」

「またそうやってバカにして」


 不服そうな表情を浮かべる少女だったが、今回も青年は意に介さない。


「シミュレータの練習続きで感覚が麻痺してるかもしれないが、今から俺たちがやろうとしてることはれっきとした犯罪行為だ。当然、警察やその辺の人に見つかれば残念な結末が待ってる」


 緊張感を帯びた声で話す青年の様子に感化されたのか、少女も黙って青年の話に耳を傾ける。


「だから目立たないために高度計の数字が100以上にならないように注意しとけ。そこまでなら山に囲まれたこの空港周辺は街から見えない。こんなところに来る人もいない」

「100、かあ」


 少女は誰に目にもわかるように落胆していた。青年としてもこの反応は予想しており、高度100といえば都会の高層ビルなら楽々と超える数字だ。少女の目指す夜景には程遠い。


「まあそう気を落とすな。昼間だからこそこそする必要があるが、夜なら街の上を飛んでも分からない。今日は夢への第一歩ぐらいに思うことだな」

「夢…」


 少女はぼそりと呟く。その視線は地面を向いており、なんだか大人しい反応だった。

 この少女の様子に少しだけ違和感を覚えた青年だったが、特に問い質すことはしなかった。


 それからも青年はいくばくかの説明と注意を伝えてから飛び立つ準備に入る。3000メートルある広大な滑走路の端にはモーターグライダーがぽつんと佇んでおり、その機首はまっすぐに中央の白線を睨んでいる。

 操縦席の上半分を覆っている透明な強化ガラスを開け、少女は中に座る。座席の位置を調整し、シートベルトを締め計器や舵に異常がないことを確認すると、少女は準備ができと事を青年に伝える。


「異常なし。いつでもいいわよ」

「じゃあ、最後にそこにあるヘッドセットをかけてくれ。これを使って無線で地上にいる俺と交信できる」

「ええと…あ、あった」


 座席の隅からヘッドセットを取り出し、身に着けた少女がマイク越しに青年に話しかける。


「どう、聞こえる?」

「ああ、問題ない」


 ヘッドセットをかけ、座席に収まり準備万端な様子の少女を見ていると、ずいぶん様になって見えた。馬子にも衣裳というが、やはりこうして見ると映えるな、と青年は感心する。


「それじゃ、あとは自分のタイミングで離陸していいから、動き出すときに無線で教えてくれ」

「了解よ」


 少女の短い答えを聞いて青年は操縦席の窓を閉めてやる。かちりとロックのかかる音がして、青年は外から確実に閉じたことを確認する。窓の向こうにいる少女も同じように内側からロックが確実にかかっていることを確認していた。

 ここまでは予定通り、青年の教えたとおりに少女は動いている。少女は緊張した様子を全く見せることなく、淡々と作業をこなしている。


(これなら何も問題はないな)


 胸中でそう確信した青年は、操縦席の横につけていた脚立や車輪にかけていた車止めを外していく。


「いつでもいいぞ」


 青年は全ての準備が完了し、いつでも飛び立てる状態になっていることを無線で知らせる。あとは少女のタイミングでプロペラが動き出すのをただ待つだけであった。


 *


『いつでもいいぞ』


 ヘッドセット越しに聞こえてきたその声は、いつでも飛び立てることを少女に教えていた。少女の目には、どこまでも続いていそうな滑走路と今から飛び立つ青い空しか見えていない。

 何度もシミュレータで見た景色だが、やはりそれと現実の様子はまるで違う。空は地平に近づくほど色が薄くなり、単色では表現できない色彩を放っている。ところどころに浮かんでいる雲も緩やかに動き、少しずつ形を変える。

 そういった空模様は、現実に自分の手で空へ飛び立とうとしているという実感を少女にもたらす。遂に空へ飛び立つときがやってきたのだ、と。

 少女はこの感慨にしばらく浸りたい気分だったが、いつまでも青年を待たせてはならない。何より、今日の目的は空へ行くことであって操縦席で感動することではないのだ。


「行きます!」


 緊張気味な声で少女は無線の向こうにいる青年に合図すると、左手をプロペラの回転を制御するレバーにかけ、少しずつ手前に引く。すると、それまで静止していたプロペラがゆっくりと回転を始める。その回転はみるみる速度を増していき、すぐに目にもとまらぬ速さに到達する。機体に内蔵しているモーターが高い音を上げ、少女の体全体を細かい振動が包み込む。

 そして機体は前進をはじめ、周囲の景色が動き出す。つられて速度計の数値も上昇していく。

 少女は計器の示す数字に集中しながらも、初めてシミュレータで離陸練習した時のことを思い出す。決して焦ることなく、だが確実に飛び上がるタイミングを図る。


 そして速度計の数値が60を超えたのを確認し、右手の操縦かんを手前に引き始める。視界に入っていた滑走路も見えなくなり、視界を全て空が埋め尽くす。

 その機体姿勢を維持したまま、なおも速度計はその針が示す値を増やしていく。が、まだガタガタという地面を走る振動が下から響いてくる。

 しかし少女は決して焦らない。操縦かんを引きすぎたり横に倒したりしないように気を使いながら、斜め上を向いた状態を維持する。


 すると突然、少女は自分の体が軽くなるのを感じる。

 そして、足元から響いてきていた地を走る振動が消失する。


 その瞬間、ついに少女は重力から解放された。


 目の前の計器も周囲の景色も体の感覚も、全てが少女を空へ導いている。


「飛べた…」


 少女はただ一言、感慨深く自らの成し遂げたことを口にした。


 そんな少女の様子に水を差すように無線から呼びかけられる。


『お楽しみのところ悪いが、高度と進路は大丈夫か?』


 全く悪気を感じさせない声色で青年が呼びかけてくる。だが、その声をきっかけに我に返った少女は再び計器に目を走らせ、高度計の数値が90を超えたことに気付く。

 このままでは青年の言いつけである100を超えてしまうので、ゆっくりと操縦かんを前に倒しながらプロペラの回転を落とす。すると、高度計も速度計も針が動かなくなり、まっすぐ安定飛行していることを示す。

 次に前の景色を見れば、徐々にだが緑の山肌が近づいてきている。高度を低く抑えているために、このまままっすぐ飛べば機体は山に激突してしまう。

 当然、そうなってはならないので、少女は右足を踏み込みながら操縦かんを右に倒す。機体は素直に右に傾き、その進路をゆっくりと右寄りに動かしていく。一方で左手はスピードが変動しないようにプロペラの回転を調整する。この操作をこなしながら少女は間断なく計器に目を配り、感覚ではなく数値で右旋回をこなす。

 進路を変えていると、たった今自分が走った滑走路が目に入る。低空をすべるように飛んでいるため、広い滑走路は目の前にあるかのように大きく映る。

 少女は方位計を確認して180度の方向転換ができたことを知ると、それまで踏み込んでいた右足や右に倒していた操縦かんを元の位置に戻す。当然、微調整しながら速度や高度がブレないように気を付ける。

 そして再び、まっすぐ直進する安定飛行に入る。気持ちの余裕のできた少女は、改めて操縦席から周囲を見回す。その視界にはどこまでも続く青い空と、遠くを囲む緑の山々という普段と同じような景色が広がっているが、地面は全く見当たらない。上から見下ろす空深空港のターミナルも新鮮で、まるで初めて目にする建造物のようだった。


『どうだ、初めての空は』


 気持ちに余裕ができたことを察したのか、無線越しに青年が呼び掛けてくる。それを聞いた少女は、一言だけ達成感を込めて答える。


「とても。とても、うれしい…」


 まだ少女の目標が達成されたわけではない。だが、離陸する前に青年の言った目標への第一歩は達成された。今、少女は紛れもなく空にいる。


 空落ちの日から7年が経った。7年ぶりに少女のファーストフライトによって役割を果たすことができた空深空港の雰囲気は、とてもやさしく少女と青年を包み込むのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ