空憑き
モーターグライダーの操縦でコツをつかんだ少女は、まるで乾いたスポンジが水を吸うように次々と技術を習得していった。
滑走路で休んでいたところに投げ込まれた青年のアドバイスが功を奏し、フライトシミュレータでの風が吹く中の離陸は完璧にこなせるようになっていた。
その後の練習で待ち受けていたのは高度の上昇・下降や空中で向きを変える旋回、そして最終的に陸へ戻る着陸と一筋縄ではいかない動作ばかりだった。
だが、その難易度をまるで感じさせないように少女は練習をこなしていく。もちろん、どの練習においても1回で成功することはなかったが、5・6回繰り返せば難なくこなせるようになっていた。
これは青年にとって驚くべきことで、予想していた練習時間の僅か半分しか消費していないのに離陸し決まったルートを飛行したうえで着陸するという一通りを手助けなしでやってのけるようになった。
「さて、とりあえずシミュレータでの操縦は一通り終わったわけだが」
シミュレータにおける機体の窓を真っ黒にし、計器の表示だけを頼りに着陸する計器着陸練習を終えたところだった。ちなみに風ありでプロペラ停止の故障想定というおまけつきだ。
「正直、ここまでできるようになるとは思ってなかった」
「あら、珍しい。ほめてくれるのかしら」
余裕の表情で少女は青年の驚きに応える。一通り操作できるようになったことで生まれているのであろう余裕さが少女の成長を感じさせる。
「とりあえずおめでとう。よくやったな」
「お祝いはまだ早いわ。私の足は今でもこの地面にくっついたままよ」
シミュレータでの練習が一通り終わることを聞いたとたんに喜ぶかと思ったが、どうやら素直さの代わりに皮肉さが身に付いたようだ。残念である。
「今後についてだが、今度は実際にモーターグライダーに乗って操縦してもらおうと思う」
「やっとここまできたのね」
「その前に」
「・・・まだ何かあるのね」
残念さをあらわに少女は呟く。しかしここでも青年はその様子に構うことなく話を続ける。
「お前、体重何キロだ?」
「・・・」
少女は呆気にとられたようだった。返答がない様子を怪訝に思った青年は、「どうした?」と問いかけるが、反応はない。
10秒ぐらいたっただろうか、突如として少女は顔を真っ赤にしながら激昂する。
「あ、あんた、仮にも年頃の女性に向かってなにを聞いてんのよ!!」
今度は青年のほうが呆気にとられる。なんだ、この反応は。何かおかしなことでも聞いたのだろうか。それに自分で“仮にも”って言うのか。
「そ、そもそも私の体重なんか知ってどうする気よ!」
なおも落ち着く様子を全く見せない少女にその理由を話すことにする。
「モーターグライダーは重心の調整がシビアでな。操縦者の体重に合わせてバランス調整する必要があるんだよ」
「は・・・?」
再び少女がぽかんとする。そして、その意味を理解した少女は青年を責める。
「それならそうと先に言いなさいよ!まったく、急に変態に目覚めたのかと思ったわ」
「分かりにくくてすまんな」
全く反省した気配を見せずに青年は少女に謝罪する。
なにはともあれ、理由を理解した少女だったが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。ぼそぼそとしゃべっていると3度聞き返されてしまった。その数字を聞いた青年に「成長期にしては軽すぎないか?」と言われてしまったが一睨みして黙らせることにした。
気を取り直して青年は今後について話し始める。
「俺が機体の最終調整をするから、また1週間後ぐらいに顔を出してくれ。その間に、この本を読んで空のことを勉強しといてくれ」
青年はそう言いながら一冊の本を差し出す。表紙には大きな丸っこい文字で『気象の基本』というタイトルが載っていた。
「シミュレータと実際の空は当然違う。風が吹いた時の練習はしたが、そもそも風がどうして起きるのかは知っておく必要がある」
「つまり宿題ってとこかしら」
「まあ、そんなとこだな」
少女は本を受け取る。ここで少女はあることに気付き、青年に問いかける。
「シミュレータの練習は一通り終わったというけれど、たまに使ってもいいのかしら?」
「ああ、それは構わん。というより、勘を鈍らせないためにもあまり期間を空けないほうがいい」
こうして、少女のフライトシミュレータを使った練習はひとまず終了となる。少女としては名残惜しさを感じなくもないが、実際にはまだスタート地点に立ったばかりだ。これから実機を使うことで危険も増えるし、より気を引き締めていく必要があるだろう。
少女は渡された本を使ってしっかりと勉強しようと心に決めるのだった。
*
青年から宿題を預かった少女は使い慣れた青一色のスクーターを走らせながら帰途につく。モーターグライダーの操縦を四苦八苦しながら練習してきた少女にとって、このスクーターの運転をこれほど簡単だと感じたことはなかった。
下り坂を走りながら目線を少し上にやると、空模様は今にも雨が降りそうに薄暗かった。厚くたちこめる灰色の雲は陽の光を遮っており、先日の青空など今では見る影もない。
スクーターを運転する少女は雨が降らないようにと心中で祈りながらスピードを上げる。
もうすぐ家に到着するというところで顔に冷たい感触を覚えた少女は、あと少し、あと少しと念じながらスクーターを走らせる。
やがて帰るべき自宅が見えてくる。いつものようにガレージに向かい、停められている黒い軽自動車を横目に見ながらスクーターも隣に停める。座席の下にある収納スペースから預かった本を取り出し、やはりいつものように灰色のシートを被せる。
ガレージの外は雨が本降りになったようで、少女は間に合ったことに安堵しながら家の玄関扉を開けて中に入る。ザーという雨音も扉を締めれば聞こえなくなり、外の空間と中の空間が切り離されるようだった。
「ただいまー」
これもまたいつも通りに少女は家の中にいるのであろう母に向けて帰ってきたことを知らせる。
「あら、おかえりなさい。雨、大丈夫だった?」
少女にとって聞きなれたその声はリビングから聞こえた。その声に誘われるようにリビングに入ると、そこには洗濯物を畳んでいる母の姿があった。一家の洗濯物としては量が少ないようにも感じるが、母と少女しかいないこの一家では日常の風景でもある。
「ギリセーフ。もう少しでずぶ濡れってとこかなあ」
砕けた口調で少女は言葉を返しながら、母が今洗濯物を畳んでいる理由に思い当たる。
「そっちは大丈夫?洗濯物、濡れてなかったの」
「ええ、こっちもギリセーフよ」
少女の口調でそのまま返す母の様子を見て少女はクスクスと笑う。その少女の様子につられて母も笑顔をこぼす。リビングはごく普通の家庭にありふれた和やかな雰囲気で満ちていた。
と、珍しく少女が手に持っている本に気づいた母は、何とはなしに尋ねる。
「その本、どうしたの?」
穏やかな雰囲気をたたえる母の問いかけに少女は応じる。
「あ、これ?まだ中は見てないんだけど、空の勉強をしようと思って」
少女はそう言いながら、本の表紙を母に見せる。
いや、見せる、というよりも。
少女は見せてしまった。
そして母の様子は激変した。
一瞬で笑顔が消え去り、無表情になる。その目はみるみる感情が削ぎ落ちていき、その視線がどこを向いているのか全く読めない。そもそも焦点すらあっているか怪しい。
「どうして」
母は冷め切った声音で一言、告げる。発した声のあまりの生気のなさに少女の心も凍てつきそうだった。
その様子に気づいた、というよりも気づかされた少女は己の失敗に気づく。だが、一度やってしまったことは元には戻らない。
「えっと、これは物理の宿題で」
とっさにごまかそうとした少女だったが、その声はまるで母の耳には入っていないようだった。さっきからしきりに「どうして」という言葉をぼそぼそと繰り返している。
その様子を見た少女は思った。
(ああ、これはもう手遅れだ)
少女は言い訳をすることも取り繕うことも会話しようとすることも諦めた。
そんなことを少女が頭の中で思い浮かべていると、母の「どうして」という呟きが止まる。
誰も声を出さず、誰も動いていないリビングに一瞬の静寂が訪れる。
だが、このまま終わらないことを少女は頭ではなく体が記憶している。少女は背筋に悪寒が駆け上がったのを感じる。
そして、少女の母は少女の知らない誰かに変貌する。
その誰かは目にもとまらぬ速さで少女の持つ本を掴むと、全く抵抗する余地すら与えない気迫と力で少女から本をむしり取る。
そして、その勢いのままに誰かはむしり取った本を壁に向けて容赦なく叩きつける。
バンという大きな音が響き渡る。そして、それがまるで合図のように誰かは感情を爆発させる。
「この空憑きがっ!空に喰われていなくなってしまえ!!」
少女の目の前にいる誰かは怒りにゆがんだ顔で、そう吐き捨てた。
そこからは暴言の嵐だった。
少女はなすすべがなく、その場に立ちすくむだけしかできなかった。唯一、指の爪が掌に食い込むほど両手を握りこむことだけが今の少女にできることだった。
(これは母じゃない、これは母じゃない、これは知らない人だ)
少女は必死に自分に言い聞かせる。今、目の前にいる何かを自らの生みの親であるなどと認めてしまえば精神が崩壊しそうだった。
今も誰かは必死に少女を罵倒している。理解したくないという意思はあるが、よく知る言語でぶつけてくるので否が応でも脳が勝手に理解してしまう。
今も誰かは全力で少女を侮蔑している。もはや少女の思考は止まりかけていた。今は無心になることが一番の逃げ道に見えてきた。
今も誰かは完膚なきまでに少女を否定している。「私は空憑きです、ごめんなさい」と認めて誤ればこの人は黙ってくれるだろうか。少女の心は折れかけていた。
一体、何分経ったのだろうか。気付けば見知らぬ誰かはその場にへたり込み、さめざめと泣いている。いつの間にか怒号が止み、その誰かがしゃくりあげる音がリビングに響いていた。
少女の知らないその人は、何やら小声で「ごめんなさい」とだけ繰り返している。
だが、その言葉は少女には届かない。声が小さく聞こえないのではなく、少女の心が拒んでいる。
と、リビングにある大きな窓が一瞬、強い光に包まれた。その数秒後に近くで事故でもあったかのような大きな音が響く。
その雷という気象現象をきっかけに、少女は自らの意思を少しずつ取り戻し始める。まるでもやがかかったように疲れ切った頭で少女は心の底から思う。
やはり母は異常だ。
リビングには「ごめんなさい」という小さな声と、強くなった雨が家を叩く音だけが響いていた。




