喫茶店イカロスにて
少女はとてもイライラしていた。
少女の性格上、気持ちがはやることは多かったがイライラすることはほとんどなかった。その少女がイライラしている原因は、目の前の扉に掛けられたプレートにある。
『喫茶店イカロス』
『close』
「この喫茶店は一体いつやってるのよ!」
空深図書館・郊外の町工場と順調にモーターグライダーの一部を回収する算段をつけてきた少女だったが、青年に頼まれた最後の場所である喫茶店イカロスで問題が起きた。
この一週間、あらゆる時間帯でこの喫茶店に顔を出してみているのだが、何度来ても開店していないのだ。
「改めて見れば営業時間がどこにも書かれてないしネットにも情報が無いなんて・・・」
個人経営だから不定休と言い張られては何も返せないのだが、それにしてもこれはあまりに不自然すぎる。長期休暇でもとるなら店先に張り紙の一つでもあるべきだった。
ここに通いつめ始めたころは、そのうち開店するだろうと楽観視していたが少女の読みは完全に外れてしまっていた。
このままでは最後の回収予定だったパーツであり動力の要でもあるプロペラが手に入らない。モーターグライダーが空を飛ぶ原理を知らない少女でもさすがにプロペラが無くては飛べないだろうことは想像に難くなかった。
「まさか、つぶれたのかしら」
思いつきで呟いただけの独り言だったが、少女はあながち的外れでもないかもしれないと思う。この喫茶店に入ったのは聞き込み調査に来た時と青年を説得する時だけだったが、そのどちらでも他のお客さんの姿を見ていない。
お世辞にも儲かっていうように見えないこの喫茶店がつぶれてしまったとしても不自然さは欠片もなさそうだった。
少女が、これからどうやってあのマスターを捕まえようかと喫茶店の前で悩んでいると、駐車場に黒塗りの車が入ってきた。光沢のある美しい黒は高級感を漂わせており、車に詳しくない少女の目にも高そうな車に見えた。
駐車場の真ん中に停車した高級車から降りてきたのは、この喫茶店の主であるマスターだった。
「おや、お嬢ちゃん、いらっしゃい」
「やっと会えた・・・」
疲れでその場にへたり込んでしまいそうな少女だったが、残り少ない気力でなんとか踏ん張る。すぐにマスターがお店の扉を開けてくれたので一緒に中に入る。
マスターは店の入り口に掛けられたプレートに触れることなく店内に入る。
*
少女は早速、青年から預かった手紙を取り出し、マスターに手渡す。
丁寧な動作で手紙を開いたマスターは黙って読む。相変わらず客のいない店内は静まり返っており、時計が時間を刻む音だけが妙に大きく感じる。
あまりにも静かすぎるので少女はマスターに話しかけたい衝動にかられたが、真剣な眼差しで手紙を見つめているその姿を見ては気軽に話しかけてよい雰囲気でも無さそうだった。
やがてマスターは手紙を読み終えたのか、優しい手つきでカウンターに持っていた手紙を置くと少女へ話しかける。
「どうやらうまくやったようじゃな、嬢ちゃん」
「ええ、これもマスターのアドバイスのおかげね」
少女は手紙の内容に対して感動も驚嘆もしないマスターに僅かな違和感を感じた。そこから湧き出た疑問を少女はマスターに尋ねる。
「ねえ、マスターって蒼空の会の元メンバーなの?」
その少女の問いかけに対してマスターは笑いながら否定の言葉で返す。
「ははは、さすがにこの老いぼれの身にあの活発な集団はついていけんわい」
「じゃあどうしてマスターは機体の部品、それもプロペラなんてものを預かってるの?」
「そうじゃな、嬢ちゃんになら話してもええか。少し長いが構わんよな」
マスターはそう前置きしてから話し出す。
「あれは何年か前じゃが、強い雨が降る夜更けの夜道での出来事じゃ。わしが傘をさして道を歩いておると、街灯のあるごみ置き場の横に、まるで捨てられたように黒いフードをかぶった若者がうずくまっておってな」
思い出しながら語るマスターの姿と、それをじっと聞いている少女の姿はまるでおじいさんが孫に昔話を言って聞かせているようだった。
静かな店内にはマスターの声だけが響き渡る。
「そいつは長い棒のようなものをがっしりと抱いて雨に打たれておった。よく見れば長い棒はプロペラそのものだったんだが、目はうつろなのに力強くプロペラを抱きしめるその姿が、わしには少し怖かった」
このマスターでも怖がることがあるんだな、と少女は意外に思った。青年を説得しようとしたときには一喝する場面もあったが、普段は感情を表に出さないマスターが恐怖する姿はどうしても少女には想像できなかった。
少女がそんなことを感じているとは全く知らないまま、マスターは話を続ける。
「じゃが、よく見ると若者の座り込んでいる地面だけが周りと違って赤黒かった。そこでわしは、この若者は怪我をしておると気付いた。わしは感じておった恐怖も忘れて大丈夫かと話しかけた。
すると、その若者はわしのことにやっと気付いたのか、こっちを見上げたのじゃ。そのとき、若者はわしになんて言ったと思う?」
突然、問いかけられた少女はとっさに答えが浮かばなかった。だから少女は正直に分からないと答える。
すると、マスターは遠い目をしながら答える。
「助けて、でも救急車を呼んで、でもなく、ただこれを守って、と言った」
マスターは若者にひたすら懇願されたのだという。
自分はどうなってもいいからこれだけは守ってほしい。
そのようなことを繰り返し、繰り返し訴え続けたそうだ。
「しまいには口から血を吐き、腹から血を流しながらもわしに懇願しておった。さすがにこのままでは死んでしまうと思ったわしは救急車を呼ぼうと思って電話を取り出したのじゃが、その若者はわしの足にしがみついて連絡しちゃダメだと、文字通り死に物狂いで言っておった。
とりあえず落ち着かせんといかんと思って、わしはとっさに若者の言うそれを守ってやると口約束した。すると若者は力強く抱いていたプロペラをあっさりわしに渡した。それが、嬢ちゃんの探しておるプロペラそのものじゃ」
少女は自分が探しているモーターグライダーのプロペラがどうしてここにあるのか納得はしたが、どうしてもマスターにこれだけは聞かずにはいられなかった。
「その若者はどうなったの?」
その質問が来ることは予想していたのか、マスターはいつもの平坦な様子で答える。
「プロペラを受け取ったときに一言、ありがとう、と言ってそのまま死んじまったよ」
少女はある程度、その結末を予想してはいた。だが、やはりその事実が突き付けられると、やりきれない気持ちが少女を支配する。
少女はこれまでに幾度となく空を飛びたいと口にしてきた。その延長として空落ちの日から何が起きて今があるのかを自分なりに調べたつもりでもあったし、現に今こうして空に向けて準備を進めている。
だが、実際に人の命が散っていった事実を突きつけられると空を飛ぶということがいかに難しく危険を伴うのかが実感として襲ってくる。
正直、マスターの言う若者がどうして雨に打たれながら死んでしまうことになってしまったのか分からないが、空を目指すことが禁忌とされるこの世界で空を目指したのだろうことは想像に難くない。
その若者の姿が未来の自分になりうるのではないかという不安と恐怖を少女が感じていると、その様子を見てマスターが優しく語りかける。
「血を吐き、血を流し、暗い夜に一人雨に打たれながら見知らぬ年寄りに懇願する。そうまでして若者が守り切った物。それが、これじゃ」
そう言いながらマスターは店の奥から1本の細長いプロペラを持ち出す。真ん中に穴の開いたそのプロペラは、中心から遠ざかるほどに平たくなり、少しずつねじれている。
鈍い金属光沢を放ち、金属特有の鈍重さを感じさせながらも洗練されたシャープな形状は空を切り裂くような鋭さも持ち合わせている。
少女はそれを見て美しいと思った。
それは紛れもなくモーターグライダーの一部であり人工物であり無機物だ。だが少女はそれに対して生きる物の息吹も感じずにはいられなかった。
当然、生物ではないプロペラが呼吸をするはずはないのだが、このプロペラが回転し、空気を切り裂き、前へ進む力を与えてくれる様子を想像すると、この人工物はまさしく息を吹き返すという表現がふさわしいと思った。
ついさっきと比べて随分と様子の変わった少女の様子を見てマスターは安心する。
「空を目指すということは危険なことでもある。じゃが、心配することはない。嬢ちゃんには今まで誰かが積み重ねてきた結果が集まっておる。それに前ほど過激な取り締まりも最近は無さそうじゃしな」
「ええ、そうね」
少女がそれだけ答えると、マスターは芯のある声で少女に希望を託す。
「空を目指せ。空はいつでもそこにある」
その言葉は少女の心に響く。空が好きで、空を飛びたいと思っていた自分。なにより父親との約束を果たすために、悩んでなどいられないのだ。
少女は気持ちを切り替え、再び空を飛ぶための準備を進める。やはりまずやるべきは、目の前にある大きなモーターグライダーの部品をどうやって空深空港に運ぶか考えることだ。
自分の乗っているスクーターではとても運べそうにはなかったので、少女は早速目の前にいる頼りになりそうな大人に相談するのだった。
*
「それじゃ、マスターさん、あとはお願いね!」
大きなプロペラも少女のスクーターに乗せることができないので、やはりいつものようにマスターに空深空港までの運搬を頼むことになった。
すっかり元気を取り戻した様子の少女はスクーターに乗って去っていく。
少女の姿が見えなくなると、マスターは『close』という札が掛けられたままの喫茶店イカロスへと戻る。
今日唯一の来客だった少女が去った店内は当然のようにマスターを除いて他に人の姿はない。
マスターは、がらんとした店内のカウンターにひっそりと置かれている黒電話の受話器を手に取り、暗記している電話番号を思い出しながら、ゆっくりと確実にダイヤルを回す。
呼び出し音が3回鳴ったところで相手が受話器を上げる音が聞こえ、マスターは話しかける。
「もしもし、わしじゃ」
このフレーズだけで相手に自らが何者かを伝える。むしろ、このフレーズこそが合言葉の一つと言っても過言ではないほど、通話相手とはやりとりを繰り返している。
続けてマスターは今しがた去っていった少女と、その少女に巻き込まれている青年のことを話し始める。
「あの嬢ちゃんじゃが、おそらく今は正常じゃ。ただし、あの青年はわしにもよう分からん」
その後、マスターは二言三言、短い会話を交わすと最後にこう告げる。
「わしらの大願が、ついに成就する日もそう遠くないのかもしれん。また、連絡する」
そう言ってマスターは受話器を置く。
そして、いつも通り丁寧な手つきで清潔な布を使いグラス磨きを始める。
だが、これは喫茶店の営業という意味の作業ではない。なにしろ、マスターが磨いているグラスは使われたことが無いのだから、そもそも磨く必要が無いのだ。
それでも意味のないグラス磨きをするのは、これがマスターが考え事をする時の癖だからだ。というよりも、それ以外に意味はない。
マスターしかいない空間で、マスターはただ一人グラス磨きをする。
静謐な空間に反してマスターの心中では思考が目まぐるしく繰り広げられるのだった。




