五色清一郎 5
翌朝、ヒモロギノキミは消えた。布団は片され、部屋の隅に畳まれている。廃墟の周りを散歩がてらに捜してみるもどこにも見当たらない。置き去りにされたような気分のまま車に乗り込んだ。しばらく体の中心がずれているような感覚のまま座り込んでいたあと、バックミラーで後部座席を確認する。狭い車内でそこだけに濃密な空気が満たされているような気がした。
ああ、そうか。自分は責任転嫁をしたかったのだと気付いた。だから彼女は消えたのだ。
太陽は南にあった。一瞬で数時間が経過した。刀ですっと空間を切るように時間が経った。残された時が少ないと知った。身震いが起きて、横隔膜がしきりと収縮している。緑と光とボンネットが揺れている。視線を固定できない。
十分ほど絶叫しつづけてから車を出した。
ガソリンスタンドには髪の毛を赤く染めた若者が接客に立っていた。帽子の下からはみ出す髪の毛は人参の千切りのように見えた。だが、接客態度は慇懃で嫌味がない。仕事だから仕方なくしているという雰囲気は感じなかった。ガソリンを入れ、フロントガラスを丁寧に磨き、灰皿を預かるときはまるで聖杯を授与されたかのような物腰であった。
金を払い、国道に出てから背後を確認すると、歩道から帽子を脱いで腰を90度に曲げてお辞儀をしていた。真っ赤な髪の毛が風に靡いていた。
役場で取り次ぎを願っても無駄なのは分かっていた。結局、退勤時間に合わせて待ち伏せするしかない。家人や自警団に見られているので、杞憂とは思いつつも車は隣にある病院の駐車場に置いてきた。建物は地方都市の役場にしては大きいが、内部を安易にうろついて、自分では気付かない不審の種を植え付ける心配がある。近くにある公園からは役場の駐車場が見えたのでそこから見張ることにした。
職員用の出入口らしきドアが見える位置には湿ったベンチしかなかった。我慢して座ると、ジーパン越しに冷気が伝わった。座ってから程なくして自分がほとんど無計画でいることに気付いた。だが、尻の冷気がそうさせるのか、楽観ではなく無感覚に近い、どうにでもなるという気分が働いた。
それでもあまりに長い時間をこの場所に滞在するのは得策ではないということは分かっていた。昼休みは終わったばかりで、終業までまだ時間はある。やむを得ず、街中で時間を潰すしかないと考えて腰を上げようとした矢先に電話が鳴った。知らない番号だった。
「帰ってきたのなら連絡くらいくれてもいいだろう」と奥野祥子は言った。
誰から聞いたのか不思議に思ったが、三枝健二にしか僕の動向を知らせていないことに気付いた。
「奴は君を心配しているそうだよ」
「嘘だね」
奥野祥子は小さく笑って同感だと答えた。
「祥子先輩は三枝健二を苦手にしていると思っていましたよ」
「世慣れてくれば多少はあの手の手合いの扱いは分かってくる。そうなると意外に便利な男でね。だが、気を付けた方がいい、奴は君にロックオンしている。大急ぎでバカンスから引き上げる腹積もりであるらしい。実は足止めを頼まれている」
「となると携帯の電源は切っておくべきかな」
「賢明な判断だよ。私のことは気にしないでいい」
「すみませんね」
「皆は元気だ。実は最近会合をしたばかりでね。君のことが話題に上った。会わせたいよ。特に頼子君はすっかり小悪魔になってね。いや、腹黒いというレベルだな、あれは。反対にエリアナ君は毒が抜けてすっかり寡黙なアスリートになった、髪もショートにして別人だよ。陽名莉君はよく笑うようになった」そこで奥野祥子は一瞬言葉を詰まらせた。「兄貴は結局記憶が戻らなかった。会合もそのために行ったようなものでね。皆の好意で定期的におこなっている。だが肉体的には問題ないし、私はこのままでもいいと思っている」
時間が空いたらまたあのファミレスでくだらない話をしよう、待っている、と言って奥野祥子は電話を切った。
公園の木に桜はなかった。名も知らぬ常葉樹が三本並んで立っていて、垣根代わりの低木が道路を隔てている。幼児を胸に抱いた女性がブランコを静かに揺らしている。乾いた砂利の上を蟻の列がスナック菓子の欠片を運んでいる。
大きく上体を反らし、伸びをするふりをして空を見上げた。笑おうとして口を開けた。乾いた声が漏れたが痙攣染みていて笑いからは程遠い。視界が濁り、雲と空が溶けた。涙はもみあげを伝い耳の穴に入った。耳から入った涙が再び目の中に戻るのならこれは悲しみの永久機関のようなものだ。助けて……、助けてくれ、香月。




