五色清一郎 3
徒歩でバス亭に向かう途中、三度父の写真を見かけた、内二枚にはかなりどぎつい中傷の落書きがされていた。選挙は目前に迫り、遠くからスピーカーによる街頭演説が聞こえた。田の畦道にナズナが白い花弁を開き、その周りをモンシロチョウが飛んでいる。朧雲が空一面を覆い、地に落ちる影は薄い。
無人のバス亭に着いたときに少しだけ泣いた。自分のために涙を流し、自分のために鼻水を啜った。余計に惨めな気分になったのでやめた。
バスに乗って駅まで向かう途中、信号待ちの最中にファミリーレストランの窓際の席にかつて見知った顔を認めた。篠崎陽名莉と奥野祥子、髪を短くした八重樫エリアナと成長した頼子の姿だった。バスが走り出す間際に長身の男が同じ席に着いた。祥子の兄であろう。それぞれに年を重ね、町を去ったあとに再び集結したのかもしれない。僕があの輪に入ることはできない。唇を噛んでその光景を振り払うように前を向いた。
バスを降りてレンタカーを借りに行く。保証人に父の名を書くと受付の女の子は目を丸くし、それから険しい顔つきをした。「町長さんのお知り合いでしたか」
店の壁面に”原子力のない綺麗な町を”というポスターと町長に対するリコール運動の呼びかけを謳った文句が書かれたチラシをみた。
「文献調査で町の財政は潤うそうですね。調査だけで済むはずがないじゃないですか。でも町長は住民への勉強会も開かず独断で国に応募したらしいですね」
ああ、なるほど、そういうことか、と得心しつつ、受付の子の剣幕に適当に相槌を打ち、まさか車を貸してもらえないのではあるまいかと危惧するも業務は別とばかりに車の鍵を渡された。
バスとトラックにはさまれたら手風琴のように縮んでしまいそうな白い軽自動車を選んだ。乗ってみると小回りがきいて振動も少なく、いささかもったいないと思った。
駅のロータリーで方向転換し、隣町方面に向かう。三枝健二の情報が正しければ、この時間は町境にある父の実家にいないはずである。
「君が父と思っていた人物は、君の失踪した実母のただの愛人で、素性を知る者はほとんどいなかった。もちろん、この俺を除いてね」と自慢げに語る三枝健二の声音を思い出す。
記憶を取り戻し、警察に向かう前に生家に赴くと、すでに空き家になっていた。父とその愛人は消息不明であった。僕は何年もの間、他人に囲まれて暮らし、虐待され、捨てられた。そのときはさほどショックではなかった。記憶の照合の過程であったために実感をなくしていたのだと思う。自主したときの僕は実質の孤児であった。
罪を償い、社会に出たあとは離れた町で働き詰めの生活を送った。製菓工場の仕事は悪くなかった。寮があって、仕事さえしっかりしていれば個人の事情に踏み込んでくる人もいなかった。おそらく僕のような身の上の者が多く働いていたのだと思う。そう考えると合点がいく。車の免許を取り、貯えが目標に達したところで仕事を辞めた。
「君が名乗り出てくれれば一大スキャンダルになる。全国紙に載るほどのね。今の町の状況なら喜ぶ者も多いと思うよ。もちろん、君のバックアップは最大限にするつもりだ」
三枝健二の要求を保留にしつつ父に関する情報を可能な限り引き出せたのは僥倖であった。いや、三枝健二の意図的な情報漏洩であったと考えるべきであろう。そう考えると早々にバカンスを引き上げ、こちらにコンタクトをとってくる可能性は高い。
「ややこしくなるな」ギアを入れ替え、大きな斎場の手前の路肩に車を停める。携帯電話の電源を切り、鞄から煙草を取り出し、火をつけた。反対車線の方にはバッティングセンターがあり、横断歩道のない車線を横切って何人かの人が横断してゆく。斎場とバッティングセンターの繋がりを思いつけず、身を乗り出して観察をつづけたところで、バッティングセンターの建物の陰に軽食をとれるカフェがあることを発見する。
そういえば絶対に夜しかいなかった。しかも母がいた頃は週に一度ほどしか訪れず、夜が明ける頃にはいなかった。母はやがて父を煩わしく思うようになり、おそらく別にできた愛人と駆け落ちしたのだろう。家を放置していったのは残した息子へのせめてもの償いであったのだろうか。だが父はこれ幸いとばかりに別の愛人を僕の家に招きいれそこに囲うようになったのだ。新しい母を招きいれてからの父は家に頻繁に訪れるようになった。
煙草の火を消し、イグニッションキーを回し、車を出した。山間のバイパスを抜けると平地に交差点があり、そこを更に進むと緩い傾斜が訪れる。傾斜を上りきった辺りに富裕層が住む住宅街に出た。小道をいくつか進み、カーナビを頼りに目的地に到着する。反対車線に駐車して門扉から見える景色を観察した。さして大きい家ではないが、広い庭を生垣が囲み、池や燈篭があった。視界の隅に何かが入った。生垣の上をボールのようなものが山なりに飛び、子供の声がする。門扉の空間を白い物体が横切り、ボールのようなものを追いかけてゆく。犬だ。そして子供がいる。子供が犬と戯れているのだ。大きく息を吸い込み、吐いた。煙草を吸うよりもガムを噛んだ方がいい。ポケットにしまったチューインガムを取り出そうとするが手が震えて上手く掴めない。何度か試してようやく口の中に放り込んだ。全ての色を塗りつぶすような甘味が口の中に広がり、なるべく力強く噛んだ。子供が奇声を上げる。犬が一声吠えた。もう充分だ。
車を出そうとしたところで、門を開けて出てくる者がある。中年の女性は品がよく世間知らずに見えた。こちらを見据え、愚図愚図してから道を渡ってきた。
「あの、うちに何か……。主人は出掛けているので、仕事のことについては私に訊かれましても」
議員の家内の反応にしてはとぼけている。リコール運動が起きているというようなことをレンタカーの事務室のチラシで見たのを思い出した。おそらく適当にとぼけておけと言い含められているのだろう。もしかしたら相当な嫌がらせを受けているのかもしれない。
「保険には入っていますか」
「ええまあ」女性は訝しげに頷いた。それはそうだ。生命保険の勧誘員がジーパンとポロシャツ姿でレンタカーに乗って来るわけがない。
「それは残念」苦しい言い訳を続けるよりは立ち去るのが賢明だろうとそのまま車を出した。バックミラーはあえて見ないようにした。




