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千年少女  作者: 長沢紅音
五色清一郎
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五色清一郎 1



 スーパーで買出しを済ませ廃墟に向かった。五年前の口約束を当てにしなければならない状況に、腹立ちよりもむしろ笑いが先にこみ上げてきた。せめて八重樫エリアナに許可の確認をとってしかるべきであったが彼女の平穏を乱すのも悪いという思いとそもそも廃墟であるのなら誰の許可を得る必要もあるまいという帰結により結局無断で占拠することにした。しかし五年前である。実家のように更地になっている可能性もあった。


「どうした」と少女は言った。廃墟の庭先でうつろな眼差しを向けて立ち尽くしている。


 その言葉は奇妙に今の心境と一致した。幾つかの経験を経て、自分の記憶に対して神経質になってしまった僕は、医療少年院での余暇のほとんどを、記憶を失う前と後、その全てで出会った人たちの顔と名前とエピソードを思い出すことに費やした。その後、別の町で数年過ごしたときも暇さえあれば思い出していた。今では顔と名前を記入したカードで神経衰弱ができるほどである。だがその少女の顔は確かに知っているのに、名前はおろかどこで会ったのかも思い出せない。他人の空似とも既視感とも違う、確かな欠落がそこにあった。


「五式清一郎」春先のぬるい風がわたり、少女の真っ黒い髪がうねった。「待ちかねました」


 ああ、またこれか。


 ある時期を境に奇妙な妄想にとり憑かれた少女たちが周りに集まり出した。彼女たちは交霊術のような真似をして、ある者は多重人格のような口ぶりで話し、何人かはSF染みた世界の秘密をさもとっておきのゴシップを秘密裏に教えてあげようと言わんばかりに耳元で囁く。彼女たちは一様に美しく、愚かであった。そして頻繁に嘘を吐く。


 眼差しこそうつろであったが、少女の格好は垢抜けていた。シナモン/頼子のように己が神秘性を前面に打ち出すためにあえて時代錯誤な服を着るということもなく、花柄のワンピースの上に春物のカーディガンを羽織り白いミュールを履いていた。


「君には誰が憑いているんだ?」内心の嘆息を隠して尋ねる。


 ヒモロギノキミ、と少女は言った。


「僕ひとりじゃあ”神上げ”させてあげることもできない。災難だったね」


 違う、と少女は呟く。「私自身がヒモロギノキミです。この中には誰もいない」


 静脈の透けた白い手を胸において少女は悲しげな表情を浮かべた。


「待ちかねたということはこの家に入ってもいいんだろう? 疲れているからせめて一息つかせてほしい」


 ヒモロギノキミの言ったことは気になったが(新たな設定が追加されたらしい)、町に戻ってからは歩き通しだったので疲れていた。彼女の隣をすり抜けて玄関へと向かった。


 


 屋内は概観とは違い生活するに足る様相を示している。掃除が行き届き、電気も通っていた。居間と思しき部屋で畳に横になると、とたんに睡魔に教われた。視界の隅にヒモロギノキミが現れたのを見届けたあたりで意識が飛んだ。


「食べなさい」とヒモロギノキミは目覚めてすぐに顔を覗きこんで言った。手にしているのはよくわからない物体で美しくも汚らしい。顔を背けると「起きろ」と怒気を込めて命じてくる。


 あまり接点がなかったので断定はできないが、神様を自称する彼女たちはやけに人間くさい。普通の人間よりも喜怒哀楽をはっきりとあらわすように思えた。もう少し抑えた演技が望ましい。


 寝ぼけ眼で胡坐をかいているとヒモロギノキミは目の前に先ほどの物体を差し出して言った。


「これは好意で強要しています。はっきり言ってこれを差し出しても私には何の得にもなりません。どうせ一巡で確定に至るのですから。これは他のまがい物とは違い、食した者を永遠へと誘います。五式清一郎を哀れに思ったがゆえの施しです」


「食べるよ」物体を横取りした。「だからフルネームで呼ぶのはやめてほしい」


 ”一巡で確定”の意味は分からないがどうにも食べずには許されない状況であった。口を開き、閉じる。匂いを嗅ぐ。無臭である。得体の知れないものを口に入れるのは予想以上に抵抗があった。


 一口齧り、噛まずに飲み込んだ。眩暈を起こし、そのまま倒れた。視界が暗転し、心の中でいくつもの言葉が猛スピードで溢れ返る。声ではなく言葉であった。焦燥感を掻き立てるその奇妙な夢を一昼夜もの間見続けた印象があった。癲癇に陥ったのかもしれない。


 起きろ、とヒモロギノキミの声がする。五分も倒れていれば充分です、と続けて言った。


 額に冷たい感触がある。水で浸してあるそれを片手で抑えながら半身を起こす。傍らで正座していたヒモロギノキミは笑顔を浮かべた。こそばゆい気持ちになり、額にあてられていたものを見下ろす。見覚えがあった。僕の下着だった。壁に投げつけたい衝動をどうにか堪えた。僕のパンツだからである。


 部屋の端をみるとそこに僕の荷物がある。鞄のチャックが開いて中身が散乱していた。ヒモロギノキミの頬には食べかすが付いていた。再び鞄の方を向くとここを塒にと見定めて買った携帯食料の包装が散らかっていた。


 どのような文句が妥当であるかを考えているとヒモロギノキミはカーディガンを脱いだ。立ち上がりワンピースのボタンに手をかける。


「体で払います」


 体の中心でうずくものがあった。ヒモロギノキミは既に下着姿になっている。細身の骨格に適度に肉が付いていた。美しいというより情欲をそそる体付きである。うつろな目でこちらを見下ろしている。蟻の巣を覗き込むような目付きだった。


「不能だから無理だ」


 記憶を取り戻して以来、男性機能は働かなくなった。下唇を噛むとうずきが少しだけ収まった。


「鑑賞だけでチャラです」


「それでいいよ」


 処理できない欲望に焦がされるよりは、欲望自体を感じない方がましである。


 満足したのかヒモロギノキミは居間を出ていった。空腹はなかったが得体の知れないものを食べたことで口直しがしたかった。急いで飲み込んだせいもあって味こそ分からなかったものの、咽を通るときのぬめったような感覚が未だ消えない。手足を欠いた両生類を飲み込んだような気分だった。鞄の中の食料はヒモロギノキミに粗方食い尽くされていた。カップラーメンにいたっては袋に入ったかやくだけが残されていて麺はそのまま齧りついたらしい。試しにかやくだけをそのまま口に入れてみるとお湯で戻していないせいか口の中の至る所に張り付いた。ソファの裏の埃はきっとこんな味であったと思われる。口直しに失敗し、口直しの口直しがしたくなった。さらに鞄を漁ると底の方にチューインガムが残されていた。食べ物と認識されなかったのだろう。強烈な甘味は全ての厄災を祓った。戯れに神に感謝したい気分になった。ヒモロギノキミの姿を思い出して、冗談でも度を越してはいけないと思い、やめた。 




「風呂が沸きました」とヒモロギノキミの声がする。大黒柱に手をかけて全裸姿で立っていた。裸電球の黄色い光に照らされ、陰影が深く刻まれている。


「なるほど」


「何を納得したんですか」


「人となりを理解した。君が誰かは知らないけれど」


「ヒモロギノキミです」


「それは聞いた」


 予想した通り、風呂の湯は生ぬるい。入れないことはないが、風呂桶から出るととたんに体が冷えた。地味な嫌がらせだった。寝室に向かうと新婚初夜であるかのように布団が並べて敷かれていた。


「それで」そろそろ頃合であると思い、尋ねることにした。「君は僕に何を望んでいるんだ」


「すでに終わりました。今は余暇を楽しんでいるところです」ヒモロギノキミは布団の上で正座して明後日の方向を向いたまま言った。今度はスリップ一枚の姿である。


 僕は彼女の上に覆いかぶさり、布団の上に組み伏せた。「フォークナーの”サンクチュアリ”は読んだか?」


 ヒモロギノキミは動揺せず、無感動な眼差しを向けて、小さく息を吐いた。


「後悔していますね。感傷的な行動により五式は時間を失い、絆も見失った。あの時、自首しなければ——、誰も望んでない自首をしなければ今頃は」


「冗談だ」


 自分の布団の中に潜り込み、臓腑に渦巻く憎悪を鎮めるために香月のことを考えた。互いに分かり合えた関係とは言えなかった。誤解と勘違いで穴埋めし、その溝の上で自身を愛する方法を互いに模索していた。偶像崇拝に近い感情であった。それでもひと時傍にいられた。それだけが先走りそうになる憎悪を抑えることができる思い出だった。


「なぜ、皆に会わないのですか」


 顔を背け、瞼を閉じる。布団に鼻を埋めると、日向とカビの匂いがした。ヒモロギノキミが背中をみているような気がする。彼女に限らず、他の少女たちの言葉も真実であったとしたのならば、と考えてから馬鹿げた妄想であると一蹴する。


「正直なところ、この町に戻るべきかどうか悩んだ。だが良かったよ」


 髪の毛に柔らかい手のひらの感覚がして、それからヒモロギノキミは僕の頭を両腕で包み込む。甘い体臭がした。湿った息が首筋にかかる。


「おかげで決意が固まった

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