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千年少女  作者: 長沢紅音
奥野祥子
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奥野祥子 16


 神社に到着したのは正午を少し過ぎた頃だった。虫の声は外国人には雑音の一種として聞こえるが、日本人は人間の声と同じ感覚で聴いていると脳科学の本に書いてあったのを奥野祥子は思い出していた。それにしてもこれだけ全方位からアブラゼミの合唱を浴びせられるとさすがに雑音にしか聞こえない。見上げた木立の幹には五匹の蝉がとまっている。


「こいつの普段のお喋りに比べたら可愛いもんさ」と八重樫エリアナは頼子の頭に手を置いて言った。松葉杖を持たずに現れた彼女は、背筋を伸ばし、快活に笑う。


 当の頼子は寝ぼけているのか、いつもの減らず口はなりをひそめている。昼食を食べたばかりということで、満腹感が眠気を誘っているらしい。


「置いていくなんてひどいです」と石段の方から声がして、やがて石段から篠崎陽名莉の顔が現れてくる。傍らには松葉杖をついた五式清一郎の姿がある。手を貸しているわけではないが、念のために隣に付き添いつつ階段を上ってきたのだった。


 五式清一郎の腹の傷は腹膜を破りはしたものの内蔵にはほとんど傷をつけず、二週間ほどで退院することができた。短刀の刃渡りが短いのが幸いした。


 加害者である篠崎陽名莉はその間、病院に通いつめた。二人の間にどのような意思疎通があったのかは分からない。しかし、共通の傷をもった二人が仮初のときを支えあうのは道理であると奥野祥子は思った。


 五式清一郎に篠崎香月の死を知らせたのは篠崎陽名莉であった。篠崎陽名莉はそのときの様子を決して語ろうとはしなかったが、病室の外で待っていた奥野祥子は五式清一郎の長い叫び声とその後につづく静かな嗚咽を確かに聞いた。


 その後、篠崎陽名莉の表情にあった張り詰めた雰囲気は徐々に薄らいでいった。


「私はあなたの恋人にはならない。それだけは覚えておいてください」


 境内で皆が顔を揃えたころを見計らって五式清一郎に向かい篠崎陽名莉は宣言した。


「分かっている。それと」五式清一郎は晴れやかな顔を浮かべて言った。「自首しようと思っている。記憶が戻ってすぐに実行すべきだったんだろうが、未だ曖昧な部分があるのが不安でね。でももう充分だ」


 それは、と八重樫エリアナは言いかけて口を噤んだ。


「父を殺した件で、ですね」篠崎陽名莉は言った。


「ならば兄貴も殺人教唆の罪に問われるべきだな」奥野祥子は呟いた。


「知っていたのか」八重樫エリアナの口調には諦観に似た響きがある。


「疑いは持っていたが、一連の出来事を通じて全容を知るに従い確信に至った。その程度の認識だよ」


「あの人に罪はない。僕が一人で計画したことだ。計画には気付いていたと思うが、具体的なことは何一つ話してない。こちらが望む情報は何でも教えてくれた。必要な道具も揃えてくれた。何かあったときは連絡をしてこい、迎えに行くと約束してくれた。その落ち合う場所がここだった」


「実刑確定だ。蚊帳の外で安全をはかろうなどと、卑劣極まりない」奥野祥子の顔が羞恥に歪む。


「もし、あの人が先に計画を立てていたのならば僕も同じように行動したと思う。理由は上手く説明できない。だが、罪がないのは本当だ」


 五式清一郎の強い口調に奥野祥子は圧倒され、押し黙った。


「先輩、顔を上げてください。知っているはずですよね? これらは全て香月の計画だってことを」篠崎陽名莉もまた強い口調で言った。


 そうだ、五式清一郎を唆したのは篠崎香月であったのだ。そして、その経過なくしてはこの場にいるほぼ全員が生き延びることはなかったのだ。


「ちなみに頼子も死亡しているはずでした」と頼子はまるで奥野祥子の心を見透かしているかのように言った。「夢の中で教わりました」


「シナモンとはよく話すのか」八重樫エリアナの瞳孔は開いている。


「蛇神様は夢の中で頼子の話をよく聴いてくださいますが、口数が少なくしていらっしゃいます。ですから、かけてくださったお言葉は全部覚えておりますよ」


 恍惚とした表情を浮かべる頼子に「気持ち悪い」と感想を述べて八重樫エリアナは皆に向き直り、儀式の手順を説明した。儀式といっても遊びの延長で行う”神降ろし”であるから緊張する必要はないと言った。


「遊びでやっちゃあまずいだろう」奥野祥子は未だ兄の罪深さに囚われたまま訊いた。


「そもそも遊びと神事は互いに遠い存在ではない。その昔、神は今よりずっと近くにいた。祭りは神事、案山子は神の使い」


 そうだろう、シナモン、と頼子の方へと目配せする。


「唐突に我を呼び出すのはやめろ。あまり頼子の記憶を飛ばしたくない。混乱するからな」


 シナモンは居並ぶ面々を睥睨して、厳かに語りだした。


「拠り代にこの体を使うのは適任ではあるが、ひとつ忠告がある。現在の篠崎香月は我とほぼ同じ状態にある。多くの時間に拡散し、捕まえるのは容易ではない。我がここに意識を留めておけるのは刺青の呪い、そして後に上書きした名付けの呪いのおかげである。だが、それも篠崎香月には無効になる」


 なぜ、と問われる前にシナモンは口を開く。


「神とは善悪の有無なくひとつの方向性を指し示す存在である。輸入された神と我らは全く異質な存在であるのだ。時代によって我らは御霊とか悪霊とか呼ばれた時期もあった。そして我らが存在する理由はこの土地を護るためであった。つまり」


「確定された時間では神の存在は許されない。土地に危機がおとずれたときにのみ顕現するシステムの一種」と八重樫エリアナは呟いた。「なんとなくそんな気はしていた」


「名付けの呪いによってなんとか執行猶予をもらっておるが、”神上げ”をせねば我もじきに消滅する。篠崎香月が顕現する時間もわずかなものだ。あまり長く顕現させると頼子の精神が持たない」


「捕まえるのが容易ではないのなら、失敗するかもしれないということかい?」奥野祥子はうつろな声音で問いかける。


「そのための貴様らだ。篠崎香月と縁の深い者達の呼びかけが一番である。だから貴様の兄は必要なかったのだ。あれと香月の接点は顔見知り程度だからな」シナモンは奥野祥子の側に歩み寄り、周りに聞こえないように小声で言った。「気に病む必要はない。裁定はすでに下されている」


 シナモンは薄く笑い、皆の輪の中へと戻り説明をつづけた。奥野祥子の隣にいた八重樫エリアナは肘でわき腹を突付いてきて「篠崎陽名莉の友はお前だけだ、違うか?」


「ああ、分かっている」拳を握り締め、未だくすぶり続ける罪悪感と対峙する構えをとった。それは決して忘れていい感覚ではなかったが、同時に飲み込んでしまった瞬間に友を失うことを意味するのであろう。ならば——。


 不意に黙り込み、シナモンは八重樫エリアナを仰ぎ見た。


「足の調子はどうだ」


「問題ない」と八重樫エリアナは不思議そうに答えた。「今更だな」


「やっと跳べるな」


「すっかり鈍りきっているがな。まあトレーニングすればすぐに戻るだろう」


「なあ、跳んでみてくれんか」


「ここでか?」


「ああ」


「ここで背面跳びをすれば間違いなく首の骨を折るだろうな」


「そうか」


「いつか見せてやる。特等席で茶菓子持参の上、見物させてやる。あまりの美しさに饅頭を喉に詰まらせるなよ」


 シナモンは微笑んだ。黒髪が風に靡いて、陶磁器のような頬にかかる。そして再び説明に戻った。


 


 手拭いで目隠しをして両手の親指を隠すように握りこみ、境内の中心に頼子はしゃがんだ。


 シナモンによれば、様式はあまり重要ではないらしい。頼子の持つ力が強いので基本的な形式だけを踏襲する。あとは残った者達で周りを回りながら各々香月に呼びかけるだけで、節をつけたり歌を歌ったりする必要はないと言ってシナモンの意識は頼子の中に戻った。 


「”かごめかごめ”のようだな」とつい奥野祥子は漏らす。


「原型はこれだからな」と八重樫エリアナが答えた。


 奥野祥子は「おーい、香月。出て来いよ」と必要はないといわれていたのに節をつけていい回し、八重樫エリアナは「お前にはちょっと言いたいことがある」とぶつくさと愚痴っぽい呟きを漏らす。五式清一郎は周りには聞こえない声で何かを言っている。


 胸の前で両手を合わせ、時折瞼を閉じ、かすれ声で「香月、香月、香月」と篠崎陽名莉はひたすら連呼していた。


 香月との接点という意味では私が一番遠いような気がする。単調な反復行動に飽きがきて、奥野祥子は思索の海に沈む。


 中学の部活の間もそれほど話した記憶はない。いや、香月の方からはわりに積極的に話しかけてきていた。お勧めの映画や映像の決まりごとなどを教えて欲しいと休み時間に訊ねてきたときもある。後で思い返すとそれは五式君との会話を弾ませるための情報収集のようなものと分かるが、そもそも特異な存在であった彼女には無限に近い時間があったのになぜ私に訊ねてきたのだろうか? 


 そこまで考えてから奥野祥子は頬を緩めた。そういえば陽名莉君が言っていたっけ。読書について”何を読んだのかではなく、いつ読んだのかが重要なときもあります”と。無限に近いときを経た彼女には、芸術作品の一瞬のきらめきを理解することができなかったのではあるまいか。幼少の頃に心躍らせながら観たB級映画は年を重ねることによって感動は色褪せてゆく。今観てもずさんな演出に目が奪われ、楽しむことはもはや不可能だろう。香月は完全な存在になるに従い、不完全な我々の気持ちを理解することができなくなっていたのだ。ならばそれも不完全と呼べる存在かもしれない。はは、なんだこの理屈は。


 しかし、芸術とはそもそも不完全な者達のためのささやかな慰めであるのかもしれない。完全な者に芸術は必要ないのだから。


 奥野祥子は呼びかける声に力を込めた。謝らねばならんな。私は香月を少しだけ薄気味悪い存在と思っていた。だから身を入れて話をしなかった。それがいかなる動機によるものであれ、香月は歩み寄ろうと努力していたのに。


「その必要はありませんよ。祥子先輩がそこにいるだけで言葉以上のものをもらいましたから。祥子先輩の妙な思いつきには随分と振り回されましたが、全部楽しい思い出です」


 頼子は立ち上がり、目隠しをはずし、正面から奥野祥子を見据えて言った。


「……香月君かい?」


「折角呼び出してもらったのに、本当にちょっぴりしかいられないの。ごめんね」香月は皆の顔を見回して言った。「皆、少し大人になっている。えへへ、ちょっと羨ましいかも」


「頼子の体から見上げているからじゃないのか」八重樫エリアナは片方の頬を吊り上げ皮肉めかして言った。


 香月は八重樫エリアナに向けて両手を広げてから左手を頭の上で旋廻させ、そのまま相手の方へと差し出して問いかける。「さあ、汝の愚痴をとくとお聞かせ願おうか!」


「自害するつもりだったのなら、その場に私も呼べ。せめて楽な方法を考えてやったのに。大体なんだってあんな方法にしたんだ?」


「ああ、うん。ごめんなさい。まさかのリアル愚痴きた」香月は予想外という顔つきで答えた。「目的を達成できた瞬間に、どう死ねばいいか見えてきました。死ぬ前の告白でもいっぱい嘘を吐かなくちゃならなかった。そうしないと先輩に繋げることができなかったから」


 香月は俯いて躊躇いながら顔を上げ、五式清一郎の方へと視線を投げた。


「清一郎君」囁くと同時に五式清一郎の胸に飛び込んで顔を埋めた。シャツの背中を握り締め、微かに震える指先が繊維の向こうにある皮膚を懸命に探りあてようと蠢いている。


 五式清一郎は当惑しつつもそっと香月の頭に手を乗せ、眉尻を下げた。


「さて、おまわりさんを呼ぶか」と八重樫エリアナが言った。


「このペドフェリアが」と奥野祥子がつづける。


「ちょっと、僕は」と言い訳する五式清一郎の顔は赤い。しかし、手は香月の頭から離れず、瞳は潤んでいた。


「こんな不細工になっても清一郎君なんだよね? ちょっとがっかりだけどまた会えて嬉しい」悪戯っぽく笑って香月は離れた。「本当は自分の体のときにしたかったけど」


「僕も嬉しい」未だ興奮が治まらないのか、ぎこちない態度で五式清一郎は呟いた。


 本当に良かった、と俯いて香月は漏らす。両手をしっかりと組み合わせ、先ほどまでの指の感触を忘れないように記憶の奥まで浸透させているようにみえた。闇に沈んだ記憶に祈りの光を注ぎ、永劫の歓喜に身を委ねている。


「香月」五式清一郎は力強く香月の両肩を掴んだ。「好きだ」


「いい加減にしろよ、この変態野郎」八重樫エリアナのドスの聞いた声が響いた。


「客観的な絵面が完全に小学生に告白する不細工高校生なんだよ」奥野祥子も我を忘れて叫び、八重樫エリアナと共に五式清一郎の頭を小突いた。


 香月は噴出した後に快活に笑い、止まらなくなったのか、腹を抱えだした。「笑わせないで」


 梢を揺らし、暖かな風が吹く。葉擦れの音と共に足元の樹影が変化した。蟻の行列が敷石の上に列をなし、蝉の死骸を分解して運ぶ。夏が終わろうとしていた。


 境内の石畳のはずれの方から不規則な足音が響いてくる。それはやがてようやく笑いの発作が治まった香月の前に来て不意に止まる。


 そして、そこにいた五人の耳に乾いた音が鳴り響いた。篠崎陽名莉が香月の頬を平手打ちした音だった。


 篠崎陽名莉と香月は見詰め合ったまま動きを止めた。割って入ろうとした奥野祥子を五式清一郎が止める。


「ごめんなさい……ごめんなさい! お姉ちゃん……」


 香月は幼児のように泣きじゃくり、膝から崩れ落ちた。その小さな体躯に覆いかぶさるように篠崎陽名莉は香月を抱き寄せ、泣き止むまでなだめ続けた。


 


 お上がりください、という詠唱と共に香月の意識は消えた。またいつか神降ろしをするという約束が果たされるかどうかは分からない。八重樫エリアナの説明によれば、頼子が神がかりをできるのは自意識の低さに由来するという。突発的に戯言を弄することはあっても頼子の意識は常人のそれよりも低い。頼子は頼子の幸せを手に入れなくてはならない。教育の過程で自意識を獲得していくと共に神がかることが難しくなるかもしれないのを覚悟してくれ、と八重樫エリアナは沈痛な面持ちで言った。


「構いません。約束できたことに意義があるのですから」と篠崎陽名莉は、生前の香月のように微笑んで答えた。


「頼子は皆の役に立ちたいのです」と頼子は八重樫エリアナの手を引いて言った。


 篠崎陽名莉はしゃがんで頼子の頬を撫でた。「痛くないですか」


 少しじんじんします、と頼子は答えた。


 ごめんね、と言ってから篠崎陽名莉は諭すように頼子に話しかける。


「皆の役に立ちたいと言うのなら、頼子さんが幸せにならないといけません。人と繋がるということはそういうことですから」


「彼女に会いたくないのですか」


 篠崎陽名莉は胸に手をあて、瞼を閉じる。「この体は生まれる前に香月と——、妹と同じ羊水に包まれていたのです」


 シナモンに教えられた通りに詠唱を唱えたときから奥野祥子には漠たる予感があった。背中の産毛が逆立つような感覚を伴った勘は外したことがない。八重樫エリアナは梢の間から覗く、夏の終わりの少しだけ水色掛かった空を眺めている。


「もしかして詠唱は香月だけにあてられたものではなくて……」奥野祥子は上ずりながら呟いた。


「シナモンもいった。私の中からも居なくなった……。名付けの呪いは上書きされたようだな」八重樫エリアナは眩しそうに目を細め、両肩から垂らした腕の先で拳を強く握り締めて言った。「説明不足もいいところだ。あの馬鹿」


 そして直立不動のまま愚図り出した。涙と鼻水を垂れ流しても空の一点を見つめたままだった。頼子は必死に腕を伸ばし、ハンカチで八重樫エリアナの涙を拭い続けた。そこへ篠崎陽名莉が近づき、八重樫エリアナの左手を両手で包み込むようにそっと握った。恥も外聞もかなぐり捨て、とびきりの醜さで八重樫エリアナは泣き続けた。


 奥野祥子は、呆然と立ち尽くす五式清一郎に何かを言いたかった。言葉が胸の奥に湧き上がるも、その全てが今ここで言うにはそぐわないと分かり沈黙した。そう、私は語らない。私はカメラ。


 物憂げに見えた肩の線が動き、五式清一郎は背筋を伸ばした。寄り添う少女たちを見据え深く呼吸する。額から頬にかけて一筋の汗が流れ手の甲で拭う。それからゆっくりと頭を垂れた。三人の少女は気付かない。頭を下げたまま、五式清一郎は何かを言った。誰にも聞かれてはならない自分だけの言葉であったはずだが、奥野祥子は気付いた。


「ありがとう」


 代わりに口ずさむとそれは吹き替えのような響きを持ち、奥野祥子は恥ずかしくなった。 


 身を起こしてこちらを窺う五式清一郎は戸惑ったようにはにかみ、長いまばたきをしてから微笑んだ。


「カット」



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