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千年少女  作者: 長沢紅音
奥野祥子
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奥野祥子 14


 ドンと腹に響く音が炸裂し、奥野祥子は目を覚ます。車内の人たちが一斉に視線を外に向けた。その顔がオレンジ色に輝く。橋の上を通過中であったためか、花火大会の一発目を来場者の誰よりも近くで鑑賞することができた。車内のどよめきとは別に、奥野祥子は短い奇声を上げた。続けて連続で打ち上げられた花火の光の袂——、橋のすぐ下の川原を歩く一対の影を見つけたからである。橙色の浴衣を着た少女が少年の手を引いている。


 きっとそれは知らない者が見たら美しくも微笑ましい光景なのだろう。だが奥野祥子は歯噛みして下車を望むベルを鳴らした。




 仕掛花火によって滝のように流れ落ちる光と、のべつ幕なしに夜空に破裂する大輪の花が静かな水の流れに映り、万華鏡のような空間が川原を覆った。二人に追いついたとき、奥野祥子は全身から汗を流し、爆発音に負けじと、息も絶え絶えに叫んだ。


「篠崎陽名莉!」


 いつぞやの千本ノックの場所から橋の下までの途中にある、水際に面した遊歩道で篠崎陽名莉と近衛三霧は振り返った。


「先輩、野暮な真似は感心しませんね。逢引きの邪魔をするなんて」


「逢引き……?」と隣で近衛三霧が心底意外そうに呟いた。「渡したいものがあるんじゃなかったのか」


 息を整えながら二人を見比べ、やがて奥野祥子は口を開いた。「訊きたいことがある」


「その前に、こちらの用事を済ましてから」そう言って篠崎陽名莉は巾着袋から古びたオカリナを取り出し近衛三霧の手に押し付けた。


 それは、と奥野祥子が口を開きかけると同時に、篠崎陽名莉は近衛三霧の唇に己が唇を重ねた。


「香月には内緒ですよ。大丈夫、この世界は終わって、またやり直すことになるのですから。そうしたら、また香月を好きになってあげてくださいね、お願い」篠崎陽名莉は袖の中から短刀を取り出し、近衛三霧の腹に深々と突き刺した。


 一際大きな爆音が響いて、特大の打ち上げ花火が上空で花開いた。奥野祥子は駆け出した。内臓に突き立てられた刃を捻ると空気が入り致死率が上がる。そうか、頼子はこのことを言っていたのか、と内心で合点がゆきつつ、すでに笑っている膝に力を込めて大地を蹴った。間に合え、と願う資格が私にあるのか? 実兄の死を願っていたような女が。なぜ私は走っているのか。誰のために? 近衛……、五式君のためではない。ここまで冷徹な自分も笑える。そうだ、私にとって五式清一郎は取るに足らない存在だ。どこで死のうが関係ない。むしろ刺激となって都合が良い。兄の死の代わりになってもらえれば大助かりだ。悲しみは訪れることはないだろうが、身近にある死が私を変えるだろう。そうすれば再び私に創作の意欲が湧くだろう。その時はそう遠い未来の話ではないはずだ。なんという幸運。なんという僥倖。これっぽっちも悲しくない。……ならばなぜ、私は走るのか。


 篠崎陽名莉の短刀を持つ手を掴んだ。自分の行動に驚きつつ、奥野祥子はゆっくりと柄を握り締める篠崎陽名莉の手のひらをほぐしていく。慌てて抜いてはいけない。血が噴き出してしまうから。震えているのが自分の手か篠崎陽名莉の手かわからなかった。「今度は失敗しない」という奥野祥子の我知らぬ呟きに、篠崎陽名莉は顔つきを一変させ柄を握る手の力を抜いた。


 同時に近衛三霧は無様に尻餅をついた。腹に短刀を刺したまま、片手にオカリナを握り締め、表情はどこか遠くを見ているように瞳孔が開いたままであった。そして——、


「思い出した」と近衛三霧はかすれる声で言った。それから苦悶の表情を浮かべ、横様に倒れた。


 携帯電話を取り出し、救急車を呼ぼうとする奥野祥子の手を今度は篠崎陽名莉が掴んだ。「呼ばないで、お願い」


 懇願する顔は涙に濡れて、恐ろしさと悲しみと、ほんの僅かの希望が入り混じっている。


「駄目なんだ、陽名莉君。……香月はもう戻らない。なぜなら」


「篠崎香月の死は確定している。この時間は後釜の私が支配している。ここで五式清一郎が死んでも、戻るのは篠崎香月の死の僅かに後の時間までだ」


 いつの間に現れたのか、八重樫エリアナと頼子が遊歩道の向こうから近づいてきた。「救急車は呼んである」


「香月は……、戻らないのですか?」篠崎陽名莉は全身を震わせながら訊いた。


「ああ」


「どうして?」


「死んだ人間は戻らない。この世の理だ」


「でも、そこにいるのは……、神様でしょう?」篠崎陽名莉は頼子を指差し、声を震わせながら言った。


 こいつは、と八重樫エリアナが言いかけたところで頼子は篠崎陽名莉の側を通り過ぎ、奥野祥子が介抱している近衛三霧の傍らまで歩み寄った。


「観測した」という声がした。


「シナモン……?」八重樫エリアナは目を丸くして呟いた。


 シナモンは顔を伏せたまま篠崎陽名莉の前まで戻り、深々と頭を下げた。


「我にはもう何もできない」


 雷鳴のごとき叫びが轟き、篠崎陽名莉は泣き崩れた。それは声というより篠崎陽名莉自身の自壊音のようでもあった。


 鳴り響く花火の爆音の狭間からサイレンが近づいてきた。火薬の匂いが満ち、煙の立ち込める川べりで数多の光が舞った。


 取り乱した篠崎陽名莉は地面に爪を立て、握った土を大地に投げつける。尋常ならざるものを感じ、奥野祥子は虫の息の近衛三霧からそっと離れ、彼女の許へと駆けつける。


「落ち着くんだ、陽名莉君」


 背中から肩を抱くと、浴衣の生地越しに筋肉が痙攣しているのがわかった。獣のような唸り声を上げて、篠崎陽名莉は立ち上がる。目を血走らせつつも表情は消えていた。何かの目的を持った目だと奥野祥子は気付いた。自失しているのではない。


 その目は頼子——、八重樫エリアナがシナモンと呼んでいた存在に向けられる。呆然と八重樫エリアナの傍らに立ち尽くしているシナモンは目を眇め篠崎陽名莉の動向を監視している。


 いけない、と奥野祥子にひらめきの一閃が訪れると同時に篠崎陽名莉は袖の中に手を入れてシナモンへと駆け出す。陽名莉君はシナモンを殺す気だと悟り、片膝をついた姿勢から即座に篠崎陽名莉の足を掴んだ。篠崎陽名莉は転ばなかった。だがバランスを崩し、大きく股を開いた姿勢で踏ん張っている。そこへ取りすがるように奥野祥子はしがみ付いた。


「先輩、放してください。あいつが全ての元凶なんです。あいつを抹消すれば……」


「不恰好だが及第だ。助言を忘れてなかったみたいだな」奥野祥子に向けてシナモンは不遜に言い放った。そして袖から二本目の短刀を出した篠崎陽名莉に向かい「篠崎香月に会いたいか?」と言った。


 その瞬間に篠崎陽名莉の足から力が抜けるのを奥野祥子は感じた。


「……香月に、会えるのですか」


 シナモンは周囲を見渡し、「この人数ならできるだろう」と言った。


 目の前に短刀が落ちてきて奥野祥子は篠崎陽名莉の足から手を放し尻餅をついた。すぐ横手には近衛三霧が倒れている。八重樫エリアナは当然のように放置していたが、「あれが死んでは元も子もないな」と顎をしゃくった。


「一応救急車は呼んだが、状況は説明していない。刑事事件になると面倒だから口裏あわせを行う。いいか?」と八重樫エリアナは篠崎陽名莉に向けて言った。


 二本目の短刀を拾い川へと放り投げてから奥野祥子は立ち上がり、篠崎陽名莉の肩を支えた。その顔には締まりのない泣き笑いのような表情が浮かんでいた。


 香月に会える、と篠崎陽名莉は呟いた。


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