奥野祥子 12
数日後。体力をわずかに取り戻した兄の病室で奥野祥子は両親と出くわした。独自に兄の行方を捜していたと半分の事実を告げると不詳不承とばかりに両親は納得した。友達の家にいることを承諾しつつも学校に戻る前に一度家によるようにと釘をさされた。ロビーで八重樫エリアナ・頼子・篠崎陽名莉と落ち合い、そのままホームセンターの屋上へと向かった。
真夏の暑い盛りであったせいか遊園施設は閑散としていた。親子連れが売店の軒先で涼をとりながらアイスクリームを舐めている。四人は日傘をさしてベンチに並んで座った。
「馬鹿丸出し」と八重樫エリアナは言った。
「ここなら誰も来ないだろう」と奥野祥子は答えた。
「役立たずがアイスを奢ると言ったから来たのだぞ」と頼子が奥野祥子を睨みながらぼやいた。
役立たず? と鸚鵡返しに奥野祥子は呟いた。何の事かさっぱり分からなかった。頼子の口調もいつもと違っていた。
「アイスならさっきも食っただろう」と八重樫エリアナは釘を刺した。咄嗟に話を逸らそうとしたかのような慌しい口調であった。
奥野祥子は気を取り直して、スカートのポケットから錠剤を取り出し、一同に見えるように前に差し出した。「クロノロジー。笹塚沙織からもらった」
「お前の兄に試すつもりか?」と八重樫エリアナは訊いた。
「その正否が知りたい。そのために皆に集まってもらった。効き目があると仮定して、兄貴は記憶を取り戻すべきであるのかどうか」
「私に答える権利はありません」と篠崎陽名莉は早々に声を落として言った。
昨夜、篠崎陽名莉に兄の現状を打ち明けたことを奥野祥子は後悔しはじめていたが、努めて態度に表さないようにした。
「記憶消去の手術は不完全であったと考えられる。そもそも記憶というものは脳のあちこちに散らばっているのだ。記憶を再生する出口にちょっと蓋をしたような程度ではいずれ元に戻る」と八重樫エリアナは気だるげに言った。
何を根拠に、と篠崎陽名莉は言いかけたが先ほどの自分の言葉を思い出したのか即座に口を噤んだ。
「君たちの意見が聞きたいのだが」奥野祥子は、八重樫エリアナの話の内容はいくつかの時間を経て至った結論と知りつつ確認のために訊いた。
「だから、自然に戻るだろうと私は言ったのだ。放っておけ」八重樫エリアナは面倒臭そうに言った。
「しかし、兄貴があんな状態でいたのは」と奥野祥子が言いかけたところで日傘がベンチの前に転がり、篠崎陽名莉が立ち上がっていた。
奥野祥子の手からクロノロジーの錠剤をひったくり、呆然とする三人を尻目に走り去った。
「まずいんじゃないのか」という八重樫エリアナの言葉はつまり篠崎陽名莉がクロノロジーの効能を誤解している可能性があると暗に告げていた。
「そういえば記憶を取り戻すのに使うとは言ったが、思い出の品をみてエピソード記憶の反芻をおこなえる薬とは説明していない。バッドトリップのことも話していない」奥野祥子の顔から血の気が失せていく。
篠崎陽名莉は、責任を感じているというより、不可抗力とはいえ自分の行動が招いた悲劇を重荷に感じているはずであった。手っ取り早く解決策があるのなら縋りつきたいのは道理である。
「懸想した相手から永遠に袖にされる夢をみるかもしれんな。当人が飲ませるとなれば尚更に」と頼子は麦茶片手にテレビの高校野球を観戦しているかのように気軽な口調で言った。こいつは次も三振するぞ。
奥野祥子は走り出した。
病室に踏み込んだとき、篠崎陽名莉は怖気づいたかのようにベッドの脇で棒立ちになっていた。兄が他人をみるように篠崎陽名莉を見上げ、呆けている。突如病室に駆け込んだ闖入者に言葉をかけたが反応がない、そんな表情に見えた。
奥野祥子の姿を確認した篠崎陽名莉は半開きの兄の口に強引にクロを放り込み、サイドテーブルにあった水差しを相手の口に差し込んだ。
びっくりした、とクロノロジーを飲み込んだあとに兄は文句を言ったがさほど不快な表情は浮かべていない。
「陽名莉君、頼みがある」そう言って奥野祥子はベッドの脇まで移動し、篠崎陽名莉に耳打ちした。
躊躇いがちに兄を見下ろした篠崎陽名莉の耳は充血している。
「しかし」
「急いで。早とちりの責任は取って欲しいものだな」
その言葉を聞いて観念したのか、篠崎陽名莉は兄の頭を抱きしめ、「あ、あなたが好きです」と棒読みで呟いた。
効き目が現れるまでにしばしのときを要したが、目を開けたままうわごとを言い始めた兄をみて奥野祥子は胸を撫で下ろした。およそ聞くに堪えない、恋の睦言だったからである。篠崎陽名莉にはすでに事情を話してあった。退席したい旨を唱える彼女を説得するのは、クロノロジーの効能を今一度説明するだけで充分であった。
「目の前でオナペットにされている気分です」と篠崎陽名莉は言った。
不憫な男だ、と奥野祥子は珍しく兄に同情した。
しばし後に八重樫エリアナと頼子が病室に来た。「そもそも記憶を失っている状態で飲ませても、新しい記憶を反芻するだけだろう。古い記憶が戻るわけではない」とクロノロジーに期待するのは無駄であることを説明して二人は帰っていった。
窓を開けると温い風が室内に吹き込んでカーテンを揺らした。奥野祥子は窓の桟に寄りかかり、椅子に座る篠崎陽名莉の後姿を眺めた。
早とちりは私のほうだったか。




