奥野祥子 10
花火大会まで一週間ある。その間に兄を見つけ出すことが新たな目標となった奥野祥子ではあったが、ほとんど万策は尽きていた。加えて、笹塚沙織から受けた暴行を思い出し、加害者の影に怯えた。不安がピークに達したときに、三枝健二に連絡を取り、一部始終を報告した。
警察の方でも足取りはつかめていない。おそらくもう町の外だろうと電話口で三枝健二は言った。
電話を切って浴衣売り場にいる篠崎陽名莉のもとへと戻った。屋上に小さな遊園施設があるホームセンターには、来週に開催される花火大会を見越してか、それなりの人出がある。頬にできた痣を隠すために大きめの湿布を張った自分の顔を、すれ違う家族連れに凝視される苦痛に耐えながら歩いた。
「本当にそれでいいんですか」と篠崎陽名莉は呆れたように訊いてくる。
「簡単には変われないのだよ。全く難儀なことだ」
生死の縁を垣間見た瞬間に訪れた後悔は奥野祥子に変化をもたらした。お洒落に疎く、恋も知らない少女から脱却しようと試みたのだ。手始めの浴衣選びであったが、精神的な抵抗が勝り、気がつけば地味な黒地の甚平を手にしていた。だがそれらの事情を知らない篠崎陽名莉は首をかしげ、まあ先輩はそちらの方が似合いそうですが、と言葉を濁した。
八重樫エリアナたちと別れ、徒歩で家に帰りついたとき、篠崎陽名莉は玄関先で待っていた。鼻血に染まった奥野祥子の顔面をみて息を詰まらせたのが分かり、慌てて「転んだ」と告げると家の中に引っ張り込まれ手当てを受けた。足蹴にされた横腹も痛んだが黙っておいた。篠崎陽名莉は何も聞いてこなかった。
橙地の浴衣を手に隣を歩く篠崎陽名莉の横顔をみて、先の行動はむしろ篠崎香月の取りそうな行動だと思った。陽名莉ならばあからさまな嘘に騙されるふりなどはしない。
「先輩はそのままでいいです」レジに並んだときに篠崎陽名莉は呟いた。
「迷走するのは十代の特権だと思わないか」
「先輩の特権は迷わないことです」
強い口調にレジに立つ店員がこちらを垣間見た。絶句した奥野祥子はややあってから吹き出した。篠崎陽名莉の肩を抱き寄せ、ああ、その通りだな、と笑って答えた。
乳が当たって気持ち悪いです、と抗議する篠崎陽名莉の体温は温かく、帰り道でも不意をつくように何度も肩を抱き寄せた。
花火大会の前に顔見せをしようという話になり、いつものファミリーレストランに集合する運びとなった。
格別に暑い日で、バスの中の空調がほとんど用をなさず、他の乗客の顰蹙を浴びながらも奥野祥子は窓を開けた。生ぬるい風が隣に座る篠崎陽名莉の顔に吹きつけ、彼女は不機嫌な視線を向けつつ何かを言いかけたが、諦めて前の座席へと移った。信号待ちになると風は止み、代わりにデーゼルエンジンからの熱気が奥野祥子に降り注いだ。たまらず窓を閉めると、篠崎陽名莉が鼻で笑う横顔が見えた。バスのアナウンスが次の停留所を告げた。
八重樫エリアナと頼子は先に到着してデザートを食い漁っていた。テーブルの上にモンブランの空き皿やチョコレートサンデーの食いかけがある中、ジャージ姿の八重樫エリアナと隣り合って窓際に座る頼子の傍らに、松葉杖と一緒に野球のバットがソファに立てかけてあった。
動きやすい格好で来い、という八重樫エリアナの指示に首を捻りつつも奥野祥子と篠崎陽名莉は共にパンツスタイルで来たのだが、挨拶も忘れてその場に棒立ちになった。
「今日の気温を知っているかい」奥野祥子はたまらず口を開いた。
「38度だったか」
「頼子はパンツを履いてないので平気です」
嘘付け、と言って八重樫エリアナは頼子の額を叩いた。「同性にその手の発言をしても逆効果だ」
近衛三霧はまだ来ていないのかと問うと、今回はアマゾネスの集会だと八重樫エリアナは素っ気無く言った。「じゃあ行くか」
篠崎陽名莉は硬い表情で頼子の後ろ姿を見つめ、それから観念したかのように歩き出した。
花火大会の設営会場は河川敷の広場にあり、すでに数名の大人が作業に当たっていた。そこから更に上流の方へと向かうと小さな空き地があり、たまに近所の小学生がそこで三角ベースを楽しんでいる。今日に限って誰もいない。奥野祥子は、たとえ小学生たちが無邪気に遊んでいても八重樫エリアナなら平気で追い払うような気がした。稜線に留まる入道雲に夕立を願うも、結んだ髪のほつれ毛は何一つ空気の揺れを感じなかった。水際だというのに、空き地の土はからからに乾いていた。設営会場の方から丸太を叩く槌の音が聞こえた。
八重樫エリアナによる、テニスボールを使った千本ノックを交代で受け続け、頼子が泣き言を言い出したところでようやく終わった。
「腹を割って話すには酒の席が良いそうだが、アルコールは脳細胞を破壊する。ならばここは健全に、共に汗を流すことで親交を深めようという考えだ」
八重樫エリアナの口上は誰の耳にも届かなかった。土手の青草の上に横になった三人は、鬼コーチに対する敵意によって親交を深めたのかもしれない。
「レオナは一人で楽をしてずるいのです」
打ち込んでいる方は一人だからこちらもそれなりに大変なんだが、と答えてから「いいだろう。今度は私が守備を担当しよう」と八重樫エリアナは言った。
頼子にノックができるはずもなく、文化系の奥野祥子は誰よりもみすぼらしく大地に寝そべっていた。股開きすぎ、と篠崎陽名莉に注意されても返事をする気力もなかった。
打席に立った篠崎陽名莉を確認して、八重樫エリアナは目つきを変えた。そういえばあの二人、まだ挨拶も交わしてないな、と奥野祥子は横になったまま考えた。
「燃える展開です。頼子は今、女性ホルモンが分泌されています」松葉杖を大事に抱えて頼子は言った。穢れた目をした女子マネージャーを気取っているらしい。
「彼女の足は大丈夫なのか」
再会してからはずっと松葉杖を手にしている。歩行の補助にしているというより、ミュージカルで使用するステッキのように持ち歩いていた。足のどこかに故障を抱えているのではなかろうか、と奥野祥子は考えていた。
「貴様が頑張れば、レオナがあれを使うことはなくなるだろう」
「エリアナだろう」褪めた目をした頼子に呆気にとられるも、奥野祥子は呼び名の違いを冷静に指摘しつつ以前にも頼子から同じ名前を聞いたような気がしていた。
「あだ名です」
「そうかい」
千本ノックという形式のはずが、どういう訳か試合形式のような装いを見せている。八重樫エリアナが投球し、篠崎陽名莉が打ち返す。ボールを追って八重樫エリアナは走り、マウンドと定めた場所に小走りで帰ってくる。再び投球する。
「終わりは誰が宣言するのやら」
「頼子は退屈です」
互いに無言のまま死闘を繰り広げ、三十分以上経過していた。そのあたりのどこかで篠崎陽名莉は顔面にデッドボールを食らった。
すまん、と八重樫エリアナは言ったが篠崎陽名莉は駆け寄って相手の頬に平手打ちをした。それから無言のつかみ合いになり、二人は埃塗れで地面を転がった。奥野祥子が仲裁に駆けつけると、束の間、息遣いと蝉の声が消え冷たい風が吹いた。
降り出しから本降りまで五秒とかからなかった。大粒の雨粒は弾丸のように地面を抉った。四人が橋の下に辿り着くまでに受けた弾丸の数は間違いなく「俺たちに明日はない」のボニーとクライドよりも多いだろう、と奥野祥子は思った。頼子、エリアナ、祥子、陽名莉の順に座り、乾いたセメントの上に尻の形に染みが広がっていく。水しぶきが霧を発生させ、先ほどまでいた空き地は霞んで見えなかった。
「予期せぬ形で叶ってもなあ」と奥野祥子は誰に聞かせるでもなく呟いた。
「この雨はお前のせいか」と八重樫エリアナが睨む。
脈絡のない独り言だったはずが、八重樫エリアナは正確に意味を汲み取り難癖を付けてきた。
「だが、結果としては悪くない」茶色に濁った川の流れを見ながら八重樫エリアナは付け足した。「ハプニングがあった方が共通体験になる。親密になるにはもってこいだ」含みのある言い方であった。
「おかげで涼しくなりました」と反対側から篠崎陽名莉が言った。明らかに険があった。
「水が滴り、頼子の色気に拍車がかかりました」
背が三センチ伸びました。彼女ができました、と八重樫エリアナは平坦な声色で言った。
「顔ののりしろが減って小顔になりました」テレビ通販の宣伝風に皮肉を言われ、奥野祥子も自棄になって呟いた。
「ありがとう、アマガエル」と篠崎陽名莉は頭を下げた。エリアナと頼子もそれに続いた。ありがとう、雨女。ありがとうです、アメフラシ。
「最期の例えはたぶん間違っているぞ。というか、私が願っただけで雨が降るわけがなかろう」
忍び笑いが伝播し、同時に雨足も弱まった。西の空にはすでに青空が見えている。
「これからどうする。死体でも捜しにいくかい」昔みた映画を思い出し、奥野祥子は戯れに言った。
「リバー・フェニックスの最高傑作は個人的に”スタンド・バイ・ミー”より、”マイ・プライベート・アイダホ”だがな」と八重樫エリアナは言った。
「それはどちらかというと監督のガス・ヴァン・サントの映画です。一般的に俳優としての代表作なら”スタンド・バイ・ミー”かと」と篠崎陽名莉は意見を述べた。八重樫エリアナの舌打ちが聞こえた。
「”モスキート・コースト”にも出演していたな。この映画の監督の作品は日常と地続きの異空間に入るものが多い。あの感覚が好きだ」奥野祥子は話を逸らすべく監督の名前を度忘れしたまま取り急ぎ呟いた。
「頼子にはよくわかりません」と下唇を突き出して頼子は言った。
今度見せてやる、と八重樫エリアナが頼子の頭に手を置いて言った。「お前が好きそうな美少年だぞ」
「頼子はちやほやされるのは好きですが、特定の誰かに囚われるのはごめんです」それに男子は特に嫌いです、と含み声で言ったが、橋の上を通る車の音にかき消された。
野球をするためだけにここまで来たのかと今更ながらに質問すると八重樫エリアナはジャージの裾を絞りながら、そうだ、と言った。近場に広場ならいくらでもあるだろうという意見には、頼子があのファミレスのパフェを食いたいとねだったからだと答えた。頼子の文句が聞こえてくるかと列の端にいる様を伺い見ると、呆けた表情で対岸を見ていた。視線の先には同じように雨宿りしているカップルがわりに激しいペッティングを行っていた。篠崎陽名莉は顔を顰め、八重樫エリアナは百舌のはやにえを見るような目つきで観察し、頼子の鼻息は荒くなった。奥野祥子はホウ・シャオシェンや黒沢清の映画に出てきそうな引きの構図だと思った。
「頼子さんに見せたままでいいんでしょうか」とやや独り言のように篠崎陽名莉は言った。八重樫エリアナに向けて言ったのかもしれない。
「情操教育のことなら心配はない、と言いたいところだが、頼子はこの後絶対過剰反応するだろうな。ああ、面倒臭い」
「頼子はこの程度のことで囃し立てるほどお子様ではありません。なんなら実況してみましょうか? おーっと、男はバックに回って袈裟懸けに腕を回したぞ。チョークスリーパーにいくのでしょうか。でも足で胴締めしていませんねえ。これではエスケープされてしまいます。そこで女は腕を上げてガードの姿勢だ。しかしこの体勢からは肩固めが狙えるぞ。男はそのまま、押し倒し、肩固めにはいるか? いや、マウントを奪った。ポジション取りを優先したようです。堅実な攻めですねえ。いかがですか、解説の八重樫さん」
「……パパの書斎を漁ったな?」八重樫エリアナはうんざりだといわんばかりに胡坐をかき、頬杖をついて言った。
「ラブシーンってさ、アップで撮るより、遠景から撮った方がエロいんだよね。きっと役者の表情が読み取れないから感情が伝わらず、より動物的にみえるからなんだろう」奥野祥子は飽くまで分析的に語った。
それから雨が止むまで四人は黙って対岸の様子を見続けた。結局、インサートには至らなかった。二人の性欲は燃え尽きることなく、対岸にいる四人の方にまで伝播してきそうであったが、奥野祥子の解説が功を奏し、終始野生動物の観察のような雰囲気が漂った。
立ち去る間際、篠崎陽名莉は手にしたテニスボールを対岸に向かって投げた。ボールは岸の手前で落ち、水音に気付いた二人は同時に振り向いた。それを合図に四人は空き地まで走って逃げた。
ボール、なくしてすみません、と帰り際に篠崎陽名莉がいうと八重樫エリアナは「私なら当てられた」と答えた。篠崎陽名莉は拳を握りこんだ。
奥野祥子は二人の僅かなやりとりをはらはらした気分で聞いた。いつでも割って入る準備を心がける。
水溜りを避けて川べりを歩く二つの影は近づいたり離れたり、斜に並んだり、縦列になったりして、デッドヒートのようでもあり、ダンスをしているようでもあったが、一食触発の空気は和らいではいない。
「あ」と隣を歩く頼子が声を漏らし、空に向けて指差した。虹をみた。ほお、と感嘆すると同時に奥野祥子は水溜りに足を突っ込んだ。




