奥野祥子9
哀れみの表情で見下ろす笹塚沙織の背後に影が浮かび、直後、笹塚沙織は横様に倒れた。影は奥野祥子を睥睨し、手にした松葉杖を振りかざして言った。
「この展開は三十五度目だ。香月みたいに二度目で成功させる方が異常なんだ」八重樫エリアナは安心しつつも腑に落ちないというような表情をして、頼子、スタンガンは? と傍らに向けて問いかける。
襦袢を着た頼子は手にしたスタンガンを自慢げに掲げ、勝ち鬨の代わりにスイッチを入れる。だが、火花と炸裂音に驚いたのか、取り落としそうになった。
「寄越せ。危なっかしい」
「でかした頼子、帰りに桜餅買ってやるぞ。という言葉を頼子は聞きたかったのです」
「落雁がまだ残っていたろう。それで我慢しろ」
「餡子が食べたい気分なのです。餡子、それは和菓子界のわがままプリンセス」
「意味がわからん」
「小悪魔皇女さまはそこにいるだけで周りの雰囲気を自分ひとりのものにします。餡子もまた然り。餡子は皇女さまから戴いた祝福の月桂樹。まさに勝利の味」
八重樫エリアナは頼子からスタンガンを引ったくり、うめき声を上げて床に這っている笹塚沙織の足に押し当てスイッチを入れた。ムササビの鳴き声に近い悲鳴が轟いた。のたうち回るも、外傷が増えたことで動きに制限がかかり、笹塚沙織はコメツキムシのように全身で跳ね回っている。
気絶はさせない、話があるからな、と八重樫エリアナは語気に凄みを加えて言った。
頼子は道具箱の中からニッパーを取り出し、粘着テープを切ってくれた。鬱血した手首をさすりながら八重樫エリアナと笹塚沙織の会話を聞いていたが、どうにも納得がいかず、思わず口を挟んだ。
「どうして逃がしてしまうんだい? 彼女は人ひとりを轢き殺して、更に私を」
「コスプレ野郎ならそろそろ病院に着いた頃だろう。大変だったんだ。匿名で救急車を呼んでおいて、到着するまでに川から引っ張り上げて道に放置した。この役立たずと二人だけでやったんだぞ」
抗議する頼子を片手で抱きしめるようにして口元を手のひらで塞ぎ、八重樫エリアナはつづけた。
「この女に対しては私にも間接的に恨みはある。私が足を失った原因の一端はあるからな。だが」暴れる頼子を解放し、その頭を乱暴に撫で付けて、緊張を解いた顔つきで言った。「いずれ私は母に殺されていたことだろう。その運命を免れた。それに」
頼子は照れたように顔を伏せている。八重樫エリアナはその先を言わなかったが、それが二人のルールなのだと奥野祥子は理解した。足を失った云々はよく分からない。だが——。
「せめて警察に引き渡すのが筋だと思うが」
「お前の兄も事情聴取の対象として追われることになる。あの薬の開発と散布に直接は関与していなくともな」
言葉を飲み込んで、壁にもたれてしどけなく座る笹塚沙織をみた。抵抗の色も逃走の意図もなく、しかしどこか安堵の表情を浮かべて床を見つめている。
「この女はお前と篠崎陽名莉を殺したあと、自害する。動機は想像するしかないが理性が耐えられなくなったのだろう。そしてこの時間では誰も殺していない。コスプレ野郎も気を失っていただけだ。頭からの出血は、見た目は派手だが生命に別状はなかったんだ。轢いた直後、動転して脈も計らなかったんだろうな。希望的観測かもしれないが、ここで逃がせばこの女は二度と妙な薬を作ったりはしないだろうし、誰かがあの薬を複製することもできない。製造方法を他人に明かすほど間抜けでもないだろうしな。そして、人殺しもしない。つつましくどこか他所の土地で別人として暮らしてゆくだろうさ。時々、散布した薬のせいで不幸になった者たちを想像し、嘆きながら」
奥野祥子は頷かざるを得なかった。会話の端端から笹塚沙織の事情を知って、自らの生命の危機が過ぎ去ってみると、目の前にいる女は哀れな被害者だった。しかし悪事を働かなったわけではない。
ねえ、と奥野祥子は問いかける。
「クロ——、あの薬に依存性はあるの?」
「何度も言うけど、思い出に浸れるだけよ。使い方さえ間違わなければ、さほど害はないはず」
笹塚沙織は静かに答えた。
「コスプレ野郎のことは気にするな。あいつは町の不穏分子を懲らしめる正義漢を気取っているが、最近では勘違いしてきて、遂に痴漢行為にまで走ったらしい。二三被害が出ている。あの格好のまま救急車に運ばれたから、傷が治れば御用になるだろう」
八重樫エリアナは確信を込めていった。
やはり八重樫エリアナは香月と同じ存在なのだ、と改めて感じつつ、ならば私を助ける理由はどこにあるのかと疑問に思った。
「それを説明するのはややこしいな。もちろん、お前を見殺しにしたくないという気持ちはある。そして、それだけならばここに警察を呼べば済むだけの話だし、実際そうしたときもあった」
そう言って八重樫エリアナは松葉杖で床を二回叩く。それに合わせて頼子も足を踏み鳴らす。うるさい、といって頼子の額を軽く叩いた。またもや抗議が始まるのかとみて成り行きを見守る奥野祥子は、頼子の顔つきが微妙に変化したのを見逃さなかった。
言わんでいい、と頼子は低く呟いた。「誠実さとは正直になんでも話すことと同義ではないぞ」
八重樫エリアナは一瞬硬直する。頼子を見下ろし、何かを言いかけた。
「と頼子は思います」
生意気な口きくな、と頼子の頬を摘む八重樫エリアナは苦笑している。頼子も涙目になりながら減らず口を叩いていた。その様をぼんやりと眺めていると、笹塚沙織が立ち上がった。奥野祥子は気後れするのを感じた。
時折息を詰まらせながらゆっくりと歩いて、道具部屋の入口に差し掛かったときに柱に寄りかかる。深呼吸しているかのように肩が上下する。髪が揺れ、一瞬後ろを振り返るような仕草をしたあと、何も言わずに笹塚沙織は出て行った。しばらく経ってから車のエンジン音が聞こえ、砂利を踏む車輪の不規則な音が遠ざかっていった。
「兄の居場所を知っているのか?」昼間にファミリーレストランではぐらかされてきた話題を奥野祥子は再び話題に上らせた。今なら答えてくれるような気がしたからだ。
「自由に話せるのはいいものだな」と八重樫エリアナは両手を広げ、伸びをした。「ここに来るまではずっと失敗した時間のトレースをしていたからな」
じゃあ、と言いかける奥野祥子の顔に手のひらを突き出し、静止を強制する身振りをとって八重樫エリアナは言った。
「これまでの時間、ずっとお前は殺されてきた。警察を呼んだときも殺された。そして、お前が死ぬとなぜか五式も死ぬ。五式が死んでからお前が死ぬこともある。三霧となってからの面会で思ったのだが、お前たちに特別な繋がりはないように感じた。おそらくそれは合っているのだろう。中学時代の先輩後輩、よく言って友人。まあその程度だ。生の間の薄い繋がりが死によって濃い繋がりに変貌する。実に不思議な相関関係だ」
言わんでいいと言ったのに、と頼子が小さくぼやいた。
八重樫エリアナは顎に手を添え、部屋の中を歩き回る。頼子がすぐ後ろから同じポーズでついて回るのも気がつかないほどに集中していた。
「私はこのように……、まあ、少々手負いではあるが、ピンピンしているぞ。君のおかげだな。まずは礼を述べさせてくれ」
思案中に話しかけることに幾分引け目はあったが、放っておくといつまでも続きそうであった。奥野祥子の質問は八重樫エリアナの耳からこぼれ、床板の隙間から流れ落ちてしまった。
「最初にあの電話を受け取ったときは首を捻ったぞ。確かによくできた暗号だ。携帯の電源とは笹塚沙織に取り付けた携帯電話のことを指し、何度もマフィンの代金を貰うつもりはないとは、この時間の貴様が危機に瀕していることを表す。次の時間でも私はお前に代金を払うことになるだろうからな。以上の情報から笹塚沙織の位置情報を検索し、助っ人に現れたとしても普通なら間に合わないだろう。事実、初回はお前のグロい死体の第一発見者になってしまった」
それから奥野祥子を救い出すまでどれほどの試行錯誤を重ねてきたのかを八重樫エリアナは滔滔と語った。
気付けば奥野祥子の隣に頼子が座っていた。眠たげに瞼をこすり、こうなると長い、だから止めたのに、と独り言を言っている。
三人で外に出ると、下弦が欠けた月が夜道を照らしている。各々の表情は読み取れないが、顔の向きは分かる程度の明るさがあった。頼子は先頭に立ち、懐中電灯を点けた。虫の鳴き声に混じりどこからか水の流れる音がする。竹林の向こうに沢が流れていて、あの辺りに堰がある、その音だろうと八重樫エリアナは暗闇の彼方を指していった。その場所は山肌の袂にあるせいか、闇に紛れて何も見えない。ぞおお、という音はむしろ背後から聞こえてくるような錯覚を奥野祥子は抱いていた。
蛍、といって頼子は懐中電灯の電源を切った。茂みのあちらこちらで薄らぼんやりと明滅する光をしばしの間眺めてすごした。
「花火大会があるらしい」鼻血が乾いて鼻腔が詰まり、息苦しさを感じながら奥野祥子は呟いた。「君たちも一緒にどうだ」
結局、兄の行方についての話をまたもはぐらかされたことには、彼女たちなりの事情があるのかもしれないと思い、これ以上追求するのをやめた。だが行動を共にする機会が増えれば手がかりを得る可能性がある。そこまで打算的に考えた末、ああ、これは本当の理由ではないと気付いた。
「篠崎陽名莉も一緒なのだな」
「苦手なタイプかい」
尾行はしたものの対面となると初めてになるな、と八重樫エリアナは感慨深げに頷いた。それまでも見かけることは多かったのに、話す気にはならなかった。なぜだろうな。
「ならば近衛三霧も連れてゆく。あのボンクラに全員分のたこ焼きを奢らせよう。我々にはそれを要求する権利がある」
「頼子は綿飴が良いのです」
「そういえば林檎飴は食べたことがないな」奥野祥子はこの新しい面子で花火を見に行けば、かつてこの町で過ごした日々を取り戻せるような気がした。兄に嫌味を言い、隣で陽名莉が苦笑する。八重樫エリアナと頼子は騒がしい掛け合いを演じて、五式清一郎に戻った近衛三霧はたぶん控えめに微笑むだろう。欠けた月の袂で強く願う。
「まだ痛むか」八重樫エリアナは振り返り、優しい声色で呟いた。
「そうじゃない」奥野祥子は右手で口元を覆い、靴の上にとまった蛍を見下ろして言った。その光もなぜか欠けて見えた。「そうじゃない」




