奥野祥子 8
「ギアチェンジを間違えたのよ」
くぐもった声は僅かに反響した。二人の笹塚沙織が、与えられた台詞を洞穴の奥深くで読み上げるように。この女の声には倍音が多く含まれているせいか、異様に響きが良い。いい加減に喋ってもよく聞こえるのだ。
「マニュアル自動車を運転するなんてかっこいいですね」
「あら、ありがとう」
笹塚沙織は嫌味に気付いていないかのように答えた。マニュアル自動車でバックと一速を間違える人は早々いないことは奥野祥子も知っていた。
「あなたがのびている間に調べたけど、アレは本物の警官じゃないわね。玩具のピストルだって分かったときは、一瞬、この国の制度が変わったのかと思ったわよ」
廃棄された町工場の天井にはツバメの巣があった。道具部屋と思しき部屋の窓にベニヤ板を立てかけ、中の光を塞いでいる。卓上に並んだ用途不明の機材や鉄挺から錆びた鉄と油の混ざった匂いがした。
車の中で目覚めたときにはすでに粘着テープで手枷をされていた。車から降りて砂利道を歩いてくる途中、周りを見渡してみたが民家の灯はない。夜空を縁取る稜線の暗いシルエットに、奥野祥子は我が身の終わりを思った。笹塚沙織は手にしたスタンガンに時折電流を流す。足元を照らすためであったが、そのたびに胸の中に冷たい雨が降り、遁走の決意を挫いた。
道具部屋の一番奥でパイプ椅子に座らされ、対面の作業机に突っ伏した笹塚沙織に問いかけたいことが頭を巡るに任せ、そして答えを知る覚悟ができていないことを自覚し、奥野祥子は沈黙する。飲み込んだ唾は胡桃大の大きさで喉を通った。
「道路の血痕に炭酸水をかけて近隣の畑から土をまぶした。それを枯れ草で散らしておいたからパッと見は土砂を運ぶトラックから荷物がこぼれたようにしか見えないはず。死体は川に落としたわ。一人でやるのは大変だった。あなたを助手席に移動するのも大変だったし、本当についてない。なんなの? 紛らわしい格好するから死ぬことになるのよ。変装趣味は家の中だけでやってよね」
「ここは隠れ家ですか?」
「知り合いが昔経営していた工場。今は農業一筋らしいけど。週に一二度会ってここでセックスをしてお金を貰うの。知っている? 専属契約ならコールガールは愛人に昇格するのよ。あっちに簡易ベッドもあるわ」
顔を上げた笹塚沙織は部屋の片隅を見つめ、億劫そうにあらぬ彼方に右手の人差し指を向けて、うわ言のように呟いていた声をさらに抑え、囁きに近い声で言った。
「大きな声を出しても聞こえないから」
その台詞が先の話題の嬌声を指しているのか、自分への牽制なのか判断がつかず、奥野祥子は再び沈黙する。
「どうして黙っているのかしら? あなた、これからどうなるか分かっているの」
「分かりません」
「そういえば、陽名莉ちゃんは私と出かけたことを知っているんだったわね」腕時計を見ながら言った。「そろそろ二時間経つ頃か」
笹塚沙織は携帯電話を懐から取り出し、これなーんだ、とおどけながら奥野祥子の目の前で掲げた。そして手馴れた仕草で携帯電話の電話帳を開いた。
「あの暗くてツンケンした子が、どこにでも首を突っ込むようなあなたみたいな子と友達なのは不思議だわ。もしかして子分にでもしているの?」
「六四で向こうに主導権がありますよ」
「この暗号は何? 電話帳としての機能が果たせているのか疑問だわ」
奥野祥子の電話帳は、人物の名前だけを任意のアルファベットと数字の文字列で記している。公共施設やお気に入りの店などには施されていない遊びであった。
笹塚沙織の指が乱暴に携帯電話のボタンを押しているのをみて、ほのかに視界が開けた気がした。
「陽名莉ちゃんの名前を示す記号を言って」
「fin de siecle 8」
名前を見つけ、通話ボタンを押すと、傍まで早足で詰め寄った笹塚沙織は奥野祥子の拘束された手に携帯電話を握らせた。
「遅くなるけど心配しないで、と伝えるのよ」そう言って、奥野祥子の首筋にスタンガンをあてた。余計なことは言うなという牽制である。
「長電話する性質だから用件だけを言って切ると不審に思われる」
「そこは頭を使いなさい」
両手を拘束されたまま頭の横に掲げると肩の関節に痛みが走る。耐え切れず、やや前かがみの姿勢に腰を屈曲するも笹塚沙織は文句を言わなかった。電話が繋がった。
「祥子だ。遅くなるけど心配しないでくれ。ああ、大丈夫。携帯のバッテリーはまだ残っている。電波の届く場所にある。うん? 何度もマフィン代を貰うつもりはないよ。じゃあ」
通話を終了すると笹塚沙織は携帯電話をひったくって言った。
「マフィンがどうとかってどういうこと?」
「寝ぼけて以前に奢った分を払うと言ってきたんだ。すでに返してもらっているのにね」
納得したのか、首筋から冷たい感触が消えた。作業机の前に戻った笹塚沙織はそっぽを向いている。あえてこちらを見ないようにしているのは、これから自分を処理する算段に没頭している気がして怖気がたった。どこから入ってきたのか、裸電球の周りに一匹の蛾が飛び回っていた。
「兄とも関係していたのですか」時間稼ぎのためと殺意を鈍らせるために言った。
「いきなり何なの」
「我が兄が奔放な……、そう、肉欲の権化であったのなら、今まで知る血縁の姿に認識の修正を加えようと思いまして」
「職場で関係を持ったら面倒なことになるじゃない。あと、私が金銭取引のある情交を結んだのはここの持ち主だけ。あばずれみたいな言い方はよして」
「養護教諭と臨時の研究員だけでも生活はできるでしょう」
「親の脛齧って生きている学生には分からないのよ」
手近にあった工具箱を蹴飛ばして笹塚沙織は立ち上がった。手元から稲妻と共に神経に障る炸裂音がした。青白い閃光は理科の実験でみたマグネシウムの燃焼とよく似ていた。笹塚沙織の顔に怒気はない。これは失敗した、と奥野祥子は思った。表情とは威嚇である。威嚇を消したのは覚悟を決めた証拠であった。
「前の学校で生徒に怪我をさせたのよ。その男子生徒が襲ってきたから私は応戦しただけなのに、なんで私が慰謝料払わないといけないの? そのときにこれを持っていればこんなことにはならなかった」スタンガンを持つ手が微かに震えた。「好きでもない男に抱かれたいわけじゃない。売人みたいなこともしたくない。人殺しだってしたくなかった。ねえ、悔しいのよ。私を陥れたあの男子生徒が憎くってたまらない、ねえ」
どうすれば良かった? と訊いてくるが答えを期待していないのは明らかだった。
「そうよ。私はあなたのお兄さんが好きだった。セックスとか愛情とか、そういうのじゃない。あの人の弱さが好きだったの。他人との関わりに恐怖する姿は私のなくした平和を体現しているように思えたのよ。他人との境界を分かっている人だったわ。だから彼に愛情を持ってはいけない。セックスなんてもってのほか。オアシスの水場で隣り合わせた象さんとキリンさんよ。平和な隣人」
「兄は、五式清一郎の殺人行為に協力した」
「実際には協力とはいえない。彼は五式君を救っただけ。それより、なぜ知っているの?」威嚇とは違う、純粋な感情の発露として笹塚沙織は顔を顰めた。
冷静な殺意からはミスの誘発は期待できない。激情からの殺意には搦め手が通用しない。変化する殺意の色に奥野祥子は困惑した。困惑しつつも、頭の片隅に違和感を覚えた。それからひらめきの一瞬を経て、ひとつの仮説にたどり着いた。だが、それは果たしてこの場面で何らかの有効な手段になり得るのだろうか。更なる激情を誘発するに違いない、ということだけは分かる。
「兄が五式君を救った理由は、五色君が兄の代わりに篠崎姉妹の父を殺したからだ」質問を無視して奥野祥子は言った。
「どうして奥野さんが篠崎さんを殺さなければいけないのかしら。確かに意見の対立はあったけれど、研究者としてその手の対立は茶飯事よ」
「兄は篠崎陽名莉に懸想しているからだ。彼女の父は事故の後遺症で人格崩壊を起こしていた。いつあの姉妹が犠牲になるか分からない状態だった。だから」
黙れ、と笹塚沙織が叫んだとしても奥野祥子には聞こえなかった。飛んできた道具箱が顔面に当たったからだ。椅子から転がり落ちて頭を床に打った。鼻の奥が熱く、液体が滑らかに鼻腔を伝う感覚が止まらない。喉にも逆流し、盛大に咳き込むと血飛沫が床に散った。顔は粘ついて髪の毛が張り付いた。
作戦成功、と内心で勝利を祝った。とりあえず即時に殺される心配は回避した。だが、これほど痛い思いをするとは想像していなかった。化身がジョギングをしろ、と言った意味はここから逃げ出すための忠告であったのかもしれない。挑発はしたものの、この先の展開は全く考えていない。
「当時彼女は中学生だったじゃないの。ありえない」
「だから変態野郎なのさ、兄貴は。あなたが思っているようなナイーブなだけの人間じゃない。弱い人間だってのは否定しないけれど、平和な隣人というのはどうかな。弱い人間というのは更に弱い人間を求めるものだろう。もっとも陽名莉君は兄貴が思っているようなタマじゃないがね。陽名莉君は意思が強い。意思は強いが時々とても儚げに見える。自らの強い思いに疑問を抱く瞬間があるからだ。疑問を抱いたが最期、一歩も進めなくなってしまう。そこに挫折が訪れる。おそらく兄はそこに惹かれたのだろう」
「あなた、お兄さんのことを嫌っているの?」
「アレは時々、私の人生に必要になる。そして、有能ではあるが、人間的には未だ思春期の只中にある。血縁として長く一緒にいるには客観的にならねばならないのだ。だがあえて感情論で言わせてもらうならば、非常に苛々させられる相手であると私は答えよう」
コオロギの鳴き声は鈴が転がる音のようだと奥野祥子は思った。沈黙の間隙に響く虫の声は、屋内と屋外の垣根を取り払う。壁の向こうには草むらがあり、淡い月光が降り注ぐ夏の夜がある。そういえばもうすぐ花火大会だ。陽名莉君を連れていかねばならない。
「今日あったことを口外しようとは思わない」
「命乞いをするとは意外ね」
「ちなみにどうやって私を殺すつもりなんだい?」
「意識を失わせてから処理するつもりだから安心して。痛みはないわ」
「スタンガンの直撃は充分痛いぞ」
未だ残る首筋の引き攣るような痛みは、新たな鼻の痛みによって相殺されているが、もしも、生きていたのならば明日の朝にはきっとぶり返すだろう。
顔面のあちらこちらから発する痛みも止まらない流血もひしひしと肉体に刻み込まれてゆくが、感情はむしろ醒めて、運命を人事のように感じた。ゆえに最悪の事態を予測して身構えておくことができた。次の一手をひねり出そうと痛覚以外の感覚に集中する。
笹塚沙織は歩幅を狭くして、少しずつ近づいてくる。時々よそ見をして鼻から息を吐き出している。ふいごのように上下する肩をみて奥野祥子は気付いた。横倒しになった上体を起こし、立ち上がる前に言った。
「椅子に座ってもいいかな」
笹塚沙織は返事をせず、ただ足を止めた。無機質な瞳は、さながら壊れたステレオを眺めているようである。
椅子を掴んで立たせ、なるべく大業にみえるよう座った。このステレオはまだ音を出せると知らしめなければならない。なぜなら笹塚沙織は人殺しを躊躇っているからだ。彼女の挙動は賢明に感情を犠牲にしているあらわれであると奥野祥子は気付いた。仮に再び自分が意識を失うことがあれば、その瞬間から笹塚沙織の肝は据わってしまう。何か話せ、話せ。
「無駄よ」と笹塚沙織は言った。「あなたには本当に申し訳ないと思うけれど」
「どうしてここまで連れてきたんだ。途中であのコスプレ警官と同じようにすればいいだろうに」
「あれは事故のようなものよ。殺したくて殺したんじゃないわ。咄嗟のことで正常な判断ができなかった」
「今度は正常な判断のもとに、私を殺そうというわけか」
「あなただけじゃないわ」
篠崎陽名莉も、と付け加えた。
奥野祥子は身を乗り出し、息を飲んだ。肋骨の間に締め付けられるような痛みが走る。あの哀れな少女から命までも奪おうというのか。
「だって、私とあなたが会っていることを知っているんでしょう? 仕方ないじゃない。私だって本当は人殺しなんてしたくない。本当に嫌、嫌なのよ」
表情を消した笹塚沙織が近づいてくる。他人の手紙を読みあげるように、およそ感情を排したまま「殺したくない」と呟きながら、右手に持ったスタンガンを構える。
体当たりと足蹴にするのではどちらがより危険があるのだろうか。もはや口八丁でどうにかできる時は過ぎた。こちらも肝を据えてかからねばならない。奥野祥子は立ち上がると同時に前蹴りを放った。だが相手は後ろ足を引いて半身になり、直撃を避ける。服の裾をわずかにかすっただけに終わり、バランスを崩した奥野祥子は床に倒れこんだ。倒れこんだ拍子に作業机の脚に頭をぶつけ、軽い眩暈を起こす。間髪いれずに横腹に衝撃が加わった。笹塚沙織が足蹴にしたのだ。肋骨が押しつぶされ息が止まる。
「抵抗すると苦痛が倍になるわよ。お願いだから、これ以上私の罪悪感を増やさないで」
足蹴にしたところにそのまま座り込み、笹塚沙織は奥野祥子の上に馬乗りになった。さらに片手で奥野祥子の拘束された両手を床に押し付け、笹塚沙織はスタンガンを首筋に向ける。
終わった——。私はこのまま映画を一本も作れずに死ぬ。イタリアンレアリズモのような惨めな死だ。口先だけの映画通で終わる。恋もしなかった。お洒落に疎かった。馬鹿なことばかりした。小学五年生がそのまま女子高生になっただけの人生だ。悔いばかりが残る。とても香月のように潔くはなれない。陽名莉君はこれでまた一人ぼっちになってしまう。嫌だ、嫌だ!
奥野祥子は泣きべそをかいた。幼児のようにぐずり、口元を引き攣らせ、嗚咽を漏らした。




