表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
千年少女  作者: 長沢紅音
奥野祥子
55/70

奥野祥子 7


 篠崎陽名莉に出かける旨を伝え、薄手の上着を羽織って外に出た。笹塚沙織の姿はなく、私道の坂道を下り、公道に出たところで軽自動車が停まっているのを発見する。乗って、と笹塚沙織は運転席から言った。


「同居人にあなたに呼び出されたと伝えてあります。二時間以内に帰らない場合は警察に連絡してくれとも」保身のために嘘を吐くのが上手くなったと我ながら感心した。


「陽名莉ちゃんのことね。大丈夫よ、今更あなたをどうこうするつもりはないから」


 香月と呼ばずに陽名莉と呼んだことに確信に得て後部座席に乗り込んだ。この女は兄の行方を知っている。


「助手席に来ればいいのに」とからかうように言ったが、笹塚沙織は車を発進させた。


 ヘッドライトが歪な形に闇を切り裂いて、そこに黒いアスファルトと白線が映り、蛾や羽虫がフロントガラスに当たりバチバチと音を立てた。笹塚沙織はどこに向かうともなく走らせているかのように、信号待ちのときに気まぐれにウインカーのスウィッチを切り替えた。


「お願いがあるの。足元にある鞄に薬が入っている」唐突に口を開いてバックミラー越しに奥野祥子を見た。


 薬と聞いて肩が跳ね上がりそうになったが、自制し、運転席の横顔を窺った。


「それを近衛三霧君に渡してほしいの」


「危ない薬ですか」


「あの男に聞いたのね。違うから安心して。近衛君の症状を安定させるための薬だから」


「自分で渡せばいいじゃないですか」


「窓から捨てちゃってもいいんだけどね」一瞬横顔の視線が奥野祥子に向いた。「そもそもあなたのせいなのよ。あなたが私の動向を探ろうとするから、変なおまけがついてきて私はこの町を出るはめになった。それでもこうして一応義務を果たしに来たんだから感謝してほしいくらいだわ」


 呆けた顔をしていたのか、笹塚沙織は返答も待たずに続けた。


「あなたのお兄さんは外科手術による記憶操作を成功させたけど、当然ながら長期的な臨床例を持っていない。ゆえに自信はなかった。プロプラナロールという心臓疾患に使う薬はトラウマ的な記憶を緩和させる作用があり、これを保険に使った。私は近衛君の学校の養護教諭という立場を利用し、彼に服用させた。というわけでそれは私が居なくなった後に彼に渡す分ね」


「兄は」笹塚沙織の狙いが分からず、混乱したまま訊いた。「なぜ外科治療をおこなったのでしょう。こんな薬があるなら必要ないでしょうに」


「本当は彼も外科手術は乗り気じゃなかったのよ。でも、薬ってのは万能じゃないからね。その薬もあくまで抑制作用しか期待できない。記憶を完全に消すわけではないから。ちなみにプロプラナロールとは逆に、アンパーキンと呼ばれる、記憶の向上を促すとして期待されている薬があります。老人ぼけの改善に有効ではないかと言われているの。そして私はアンパーキンとは別に、主にエピソード記憶の反芻をおこなえる薬を開発した。この言い方は変ね。記憶の向上という括りにはならないから同列に扱うのは違うかもしれない。とにかく、この薬はちょっと凄いわよ。私はクロノロジーと名付けたけど、巷ではクロという愛称で定着しているみたい。クロノロジーとは年代学のこと。例えば彼から初めて貰った指輪を見る。するとその時の幸せな記憶を何度も反芻できて、踊り出したいほど浮かれてくる。記憶の中のその年代にタイムスリップしてずっとその時をループしているような感覚に襲われる。なのに中毒性はない」


「嫌な思い出の品を見たらどうなりますか?」


「いわゆるバッドトリップね。物じゃなくても人物でも場所でも起こりえます。対象を見る、あるいは他の五感でも記憶を刺激するものを感じると、その不快な感覚がずっと続く。強迫性障害に近い状態になる。きっと地獄の苦しみね。ひどい場合は強迫行為、つまり対象を破壊したくなると思うわ」


「それを市井に流したんですね」


「副作用が大きすぎて、若者の火遊びとしてしか利用法がなかったの。お金も欲しかったし。ああ、安心して。この薬にあなたのお兄さんは関係ないから。記憶に携わるプロジェクトとして一緒に、あなたのお兄さんの上司にあたる人が使っていた個人所有の研究棟——、あの別荘地の洋館ね、そこで研究をしていたけど、この薬の存在をお兄さんは知らないと思うわ。なにせ全く逆のアプローチの研究を薬学の見地でしていたから。公式では被験者近衛三霧のアフターケアという形で私はお兄さんのバックアップを担当していたのよ」


「洋館から逃げ出さなかったら、私をどうするつもりでしたか?」


「正直困っていたのよ。もちろん、口封じをするつもりなんてなかったわ。少しの間あそこに居てもらって、その間に私は証拠を隠滅して在庫のクロを捌いて、新天地へと旅立つ。でも、あの男のせいで半分の値段でしか売れなかった。大損よ。あなたには自力で脱出できるような仕掛けを作ろうと思っていたんだけど、必要なかったわね」


「兄を捜しています」


「そのようね。教えないけれど」


 バックミラーを睨みつけるも、笹塚沙織は意に介さず、赤信号で停車する。


「上司も亡くなって、奥野さん……、あなたのお兄さんも研究所の意向とは違う方向に向いてしまった。もう随分前から私たちのプロジェクトチームは終わっていたのよ。私は元々臨時の所員にしか過ぎなかったし」信号が青に変わっても笹塚沙織は車を停車させたままでいた。「でも彼らとの研究は悪くなかった。そうね、楽しかったと言ってもいいくらい。だからその意思は尊重したい」


「兄は仙人にでもなるつもりなんですかね」


「篠崎さんと奥さん、とその娘さん。三人も知人が亡くなって彼の妄想も強化されてしまったからね」


 俺は不幸を観測してしまう、という兄の口癖を思い出し、奥野祥子は舌打ちをしそうになるが、思い直してため息を吐いた。


「本当は医者になりたかったみたいです。でも”俺が医者になったら病院が斎場になっちまう”だって。……小さいときに私、兄に悪戯したんです。靴の中にゴキブリの死体を入れるとか、そんな些細なものです。そうしたら普段はまったく怒らない兄がカンカンになって私を家中追い回して、それで私、庭に生えている柿の木に登ったんです。たぶん、兄はその時、私を本気で憎んだんでしょうね。きっとゴキブリが大嫌いだったのでしょう。私が落ちて足を骨折してしばらく経ってから言ったんです。”俺は他人の不幸を観測してしまう”って。兄は弱い人間なので、自分が追い回したせいだとか妹を本気で憎んだせいだとか、自責の念に耐えられない性質です。もちろん私が木から落ちたのは私の不注意だし、追いかけられる原因を作ったのも私です。でも兄は誰でも抱きがちな罪悪感には耐えられません。といって私のせいにもできないほど気が弱いんです。だから確立のせいにして、観測者である自分をほんの少し憎むんです」


 信号は何度か色を変えた。夜の田舎道ということもあって、通りかかる車がないのが幸いした。笹塚沙織はダッシュボードを開け、ピルケースを取り出し、手を伸ばして奥野祥子の膝の上に置いた。


「クロ。経口錠剤。効き目は二時間くらい。錯乱するほど嫌な思い出がなければ、部屋に閉じこもるくらいで充分。そうでないのなら、飲んだ直後に手足を縛ることをお薦めするわ。コツは三つ。小道具のことだけを考えること。一人のときに飲むこと。柿の木は見ない」


 笹塚沙織がどのような意図でクロを寄越したのか判別できないまま顔を上げると、ヘッドライトの先に人が立っているのが見えた。奥野祥子の視線に気付いたのか、笹塚沙織も前を向く。警官が不審な顔つきでボンネットの向こうから車の中を覗き込むように顔を前に突き出していた。


 何かを言いかけたときに奥野祥子の体は座席に押し付けられ、首が後ろにしなった。それから車体が跳ね上がり、シートベルトをしていなかったせいで後部座席から横様に倒れ、急ブレーキがかけられると今度は座席の下に落ち込んだ。


 首に痛みを覚えつつ、運転席を掴んで体を起こした。


 笹塚沙織は荒い息遣いでバックシート越しに背後を凝視している。瞼が大きく見開かれ、唇は震えていた。その瞳は奥野祥子を見ていない。


 視線の先には街灯に照らされた警官が地面に仰向けに倒れていた。頭の下から黒ずんだ液体が流れ出ている。


 車体の上に跳ね上がらずに下敷きになったのは、おそらく急発進した車に対し、咄嗟に逃げ出そうとして転んだからなのかもしれない。跳ね上げられていたならば運が良ければ骨折くらいで済んだであろう。倒れたところにバンパーが突っ込み、頭が地面に叩きつけられ、跳ね上がったところに車体が覆いかぶさる。


 そこまでを想像したところで車から降りようとドアに手をかけた。頭からの出血が派手に見えても脳機能が無事ならば助けられる。


 ごめんね、という声と共に首筋に何か冷たいものを押し付けられ、激痛と共に奥野祥子は意識を失った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ