奥野祥子 6
「食えない餓鬼だった。いや、まああれが普通の反応か」
乱暴な口調で三枝健二は言った。ファミリーレストランのソファに深く沈み込むように座り、虚ろな眼差しを天井に向けている。
「どうせ信じないと思って、面白がって三流SF小説のような法螺を吹いたのがいけなかったのかねえ。あの近衛って少年の目線が痛かった。俺には小説家は無理だな。奢り損だ」
それから三枝健二の法螺話の内容を聞いて冷や汗を掻いた。三枝健二は近衛三霧の記憶が人為的に消されたという作り話をでっち上げていた。思いつきで真実を言い当てる目の前の男に奥野祥子はますます警戒心を持った。呼び出してもらった理由を、近衛三霧の彼女に頼まれて浮気調査をしているということにした。
「最近の女子高生のやることは過激だなあ。携帯電話の覗き見か尾行した方が手っ取り早いと思うが。しかし、窓からおびき出すために、監視カメラがあることにするなんて突飛なアイディアは君が考えたのか? 君のほうがよっぽど小説家になれるぜ」
映画監督を目指していますから、と答え、今回の働きの見返りとして、笹塚沙織が高校の養護教諭をしているという情報を与えた。三枝健二は目の色を変えて、他の情報を聞き出そうと身を乗り出してきた。
「笹塚沙織が浮気相手ではないかと依頼者は懸念していたのです」とキャンプ場まで足を運んだ理由を述べて、笹塚沙織の住所を教えた。
「生徒と先生ね。確かにこの時期は学校が休みだから、他所で逢引きしていると考えるだろうな。しかし」メモ帳を閉じ、アイスコーヒーのグラスを掴んで中身を一気に飲み干した。「この一連を踏まえて言わせてもらうが、随分とやることが大掛かりじゃないか。最低二つは嘘を吐いているとみたね。まあそれでも俺にくれた情報に嘘がないならそれでいいさ。あの洋館で調べたことと合わせれば、記事にする取っ掛かりにはなったから」
「洋館——」
「うん?」
「あそこには何があったのですか」
「なにも。もぬけの殻さ。多分、君が捕まったときに持ち去ったのだろう。倉庫代わりにしていたと俺は思っている。だが科学捜査でもすれば何らかの反応は出るはずだ。捜査の前に現地を取材できたし、犯人の目星もついている。もうひとつくらい売りができれば記事には充分。だが妙なのは、病院からの払い下げのような大型機材がわりによく手入れされていたことだ。まるでつい最近まで使っていたみたいにね。薬を精製するだけなら絶対に使わないような機材だ」
三枝健二が帰ったあとアイスティーを二杯おかわりして時間を潰した。約束があったからだ。
「遅くなった」
八重樫エリアナは制服姿で現れた。その後ろに見知らぬ少年が佇んでいる。「紹介しよう。五式清一郎の成れの果てだ」
少年に憂いを帯びた五色清一郎の影はない。冴えない面構えの普通の高校生だった。
二人は並んで席につき、店員が来るまで何も言わなかった。奥野祥子は胸の奥から黒い塊が上ってくるような錯覚を抱いた。篠崎陽名莉が五式——、いや、近衛三霧を見たらどう思うだろうか。
「あなたは——」と近衛三霧は珈琲カップを前に唐突に口を開いた。
「祥子でかまわないよ。まあ以前は君から祥子先輩と呼ばれていたのだが」
「祥子さんは、他所の高校に通っているんですよね」
「君たちの通っているところは部活も施設も充実しているが、科目として映画専攻はなかったからね」
「映画ですか」
「講師に”君の書くシナリオは商業向きじゃない”といわれていたく落ち込んでいる最中だよ。撮りたい絵からストーリーを捏造しているから当然かもしれない。だが私はこれでも商業志向なのだよ。選ばれた者だけが解る映画も素晴らしいとは思うが、志として視聴者が”もっと映画のことを知りたい”と思えるものを作りたくてね。本にしろ映画にしろ漫画にしろアニメにしろ、深く理解されるものはどういうものか知っているかい? それは”面白いもの”だよ。”素晴らしいもの”は一部の崇高なる審美眼を持った者には理解されるだろう。だが、審美眼を持たないものにその感覚を伝えることは容易ではないのだ。従って、いつの時代も崇高な作品は崇高な者にしか理解されない。”面白いもの”は面白いがゆえに何度も観る。何度も観れば、審美眼を持たない者でも解ってくるところが増える。そしてそれはとても人に伝えやすい。もちろん”面白い”だけの作品ではそうはならない。”面白さ”の裏にちょっとしたスパイスを混ぜる。それが”もっと映画のことを知りたい”と思わせる媚薬となる……予定だ。そして審美眼とは鍛えられるものだ。私の作った映画で目覚めた者が、やがて崇高な作品を理解することがあるかもしれない。私は世界一の監督になりたいわけじゃない。直接的でも間接的でも、誰かを感動させたいだけだ」
「立ち飲み屋台でその手の演説を大声で言っているオジサンを見たことがある、オレが日本を変えるとかなんとか」八重樫エリアナは静かに言った。
「うるさいな。彼が五式君ならこの手の話題に食いつくと思ってだね」
「さっぱり分かりません」と近衛三霧は言った。
奥野祥子は頭を掻き毟ったが、対面の二人の緊張は緩み、それを確認した奥野祥子もまたリラックスした。胸の中の黒い塊が溶けて、淡い郷愁に包まれる。
「不思議な奴だな」と八重樫エリアナは微笑んで言った。「どれほどの悩みを抱えていようがお前には悲壮感がない。あるいはそれは——」とそこで一瞬口を閉ざした。奥野祥子は彼女の顔に哀れみに近い表情を確認して混乱する。
それから八重樫エリアナは、化身からの依頼で近衛三霧を生かしつづけなければならないことを語った。なぜそれを彼女がやらねばならないのか、そして無関係ではないはずの、故篠崎香月については一切言及しなかった。化身についても同様である。必要なこと以外は何一つ話さなかった。
だが、多少なりとも事情を飲み込んでいる奥野祥子にはその理由が分かった。懸念せずとも良いと伝えたかったが、もしかしたら近衛三霧に聞かれることを避けていたのかもしれないと思い、その場では口にしなかった。
「それで、私は何をすればいいのだ?」奥野祥子は頬杖をついて二人の顔を見比べて言った。
「分からん」
「は?」
「こいつの記憶を取り戻せばいいと最初は考えた。だがこいつが発狂し死に至るのは、もしかしたら記憶を取り戻したせいなのではと考えるようにもなった」
「手詰まりということかい」
「お前はワイルドカードであると睨んでいる。トランプでいうところのジョーカーだな」
「厄介者の可能性もあるってことじゃないのか?」
「そういう意味では兄妹で似ている」
八重樫エリアナの顔は近くでみると随分と大味であった。化粧をしていると思っていた目の上の青みは皮膚の黒ずみであることが分かった。それでも吸い込まれそうな瞳の色に奥野祥子はうろたえた。
「どうした、急に立ち上がって」
乗り出していた体をソファに沈め、奥野祥子は水を飲んだ。空調の冷気が背中の汗を冷やし、寒気が走った。
「兄貴とも知り合いだったのか」
「この”時点”で会ったのは一度きりだな」
そうか、を口の中で呟いて奥野祥子は視線を落とした。一度の邂逅で行方を知っているわけがない。
「兄を捜しているのだったな」
奥野祥子が黙って頷くと八重樫エリアナはほとんど石像と化している近衛三霧に一瞬視線を投げた。
「近衛三霧、お前はトイレに行く」
「特にもよおしてはいないけど」
「そしてきっちり三分で帰ってくる」八重樫エリアナは有無を言わせぬ口調で言った。
ため息を漏らし、腕時計を確認して近衛三霧は洗面所の方へと向かった。その背中を確認して八重樫エリアナはたっぷりと間を空けてから厳かに言った。
「心当たりがないわけでもない」
「別荘地にある洋館にはたぶんもう居ないと思う」奥野祥子は希望を込めて告げる。あそこに居たら笹塚沙織の共犯者として警察に連行されてしまう。
「私が会ったのもそこだ。だが他に隠れ家にできる場所がある」
本当か、という声が震えたのを奥野祥子は自覚した。
躊躇うように視線を外し、八重樫エリアナはテーブルの一点を見つめた。思い悩むというよりは、見落としがないか確認しているような表情を浮かべていた。
「研究所の方は未だ在籍しているのか?」
「研究成果の載った資料だけを宅配便で郵送しているらしい。もちろん送り主の住所は空欄で。所員という肩書きは捨てて、今では外注扱いだ。だが給料は口座に振り込まれる」
「ふむ」と言ったきり八重樫エリアナは口をつぐんだ。
「きっちり三分」
近衛三霧は呆れたように呟いて奥野祥子の後ろに立っていた。
連絡先を交換したことによって近衛三霧に兄のことを訊ねる機会ができたが、八重樫エリアナの様子からどうにも憚られ、その八重樫エリアナへはメールですでに話のつづきを聞かせて欲しいと催促してあったが返事はない。振動の中で携帯電話を見下ろしていたせいか、車酔いがはじまりつつあった。
「兄貴を見つければ、はい、おしまい。とはいかないみたいだな」と声に出さずに言ってみて、バスの内部に注意を向けた。篠崎陽名莉が斜め後ろの席からこちらをみていた。
「居たのなら言ってくれないか」隣の席に移動して問いかけた。
「考え事をしているみたいでしたので。先輩、ひとりで口をパクパクしていると危険人物と思われますよ」
「どこに出かけていたんだい?」顔を赤くしながら奥野祥子は言った。
「ただの日課です」
篠崎陽名莉の膝の上にあるノートに見覚えがあった。
「あれからずっと続けていたのか。この町に未だ歩いていない道があるとは思えないんだが」
「この町の道を全て踏破することが目的ではありませんし、そんなことは無理です」
「そうなのか」
「例えるなら読書のようなもの。何を読んだのかではなく、いつ読んだのかが重要なときもあります」
バスを降りて並んで歩くうちに篠崎陽名莉の横顔が夕日を浴びて陰影が濃くなり、なんとはなしにこちらを振り向かせて影を消し去りたいような気分になった。
「進学するつもりかい?」
「さあ、どうでしょう。考えていませんね。叔父に負担をかけたくないから私だけでも就職するんじゃないですかね」
「晩御飯はどうする?」
「ワンタンスープと肉団子にしようかと思います」
「たまには私も手伝おうか」
「勘弁してください。よくも飲食店で働けましたね」
「洗い場には入るなと厳命されていたよ。おかげで教師に見つかってしまったがね」
「一人暮らしなら多少は覚えるものです」
「レンジでご飯を温めている間に、鍋に湯を沸かしてレトルトのカレーや牛丼を作る。栄養が偏らないように野菜ジュースとビタミン剤も常備。するとどうだ、十分くらいで食事にありつけるのだぞ。余った時間で腹筋運動をすればおなかが板チョコみたいになっちまうぜ」
「後半は嘘ですね」
「ああ、プヨプヨだ」
篠崎陽名莉は家に着くまで一度も振り向かなかった。赤とんぼが篠崎陽名莉の頭に止まったときはさすがに反応を示したが、軽く頭を振っただけであった。むきになっていた奥野祥子は会話の内容をほとんど覚えていない。よっぽど両手で挟んでこちらに向けようかと思ったが、本気で怒られそうなのでやめた。ねちねちとした嫌味を長期に渡って繰り返されるのはさすがに堪える。
夕食を終え、篠崎陽名莉が風呂に入っている間に、すでに電池が切れているとは思っていたが、笹塚沙織の車に取り付けた携帯電話の位置情報を確認すると、画面は篠崎陽名莉の家のすぐ側を映した。
心臓が急激に収縮するような痛みを感じ、急いで表に出ると、庭先に街灯の光に照らされた笹塚沙織本人の姿が浮かんだ。
「こんばんは」




