奥野祥子 5
八重樫エリアナから奇妙な依頼を受けた。一種の犯罪の片棒を担ぐことになるのだが、実行犯は自分ひとりであることを思えば、片棒どころか主犯格になりかねない。それでも了承したのは義理を重んじたからではなく、八重樫エリアナからもたらされたメールの文章による。
「五式清一郎は整形手術を受け、近衛三霧という新たな名で篠崎香月と同じ高校に通っている。本来の年齢からすると一年遅れての入学であるが、本人は無自覚である。なぜならば彼は」
記憶を失っている——。本物の篠崎香月が死の直前に吐いた告白を思い出し、ならば五式清一郎改め近衛三霧の側には兄の影があると、遅まきながら実感した。
五式清一郎を捜す選択肢ははじめからなかった。兄が失踪の手引きをしたはずであるので、兄の後に見つけることはできても兄より早くみつけることは不可能であると予想していたからだ。
「気は進まないが、仕方ない」煮魚に箸を伸ばしながらつい呟いてしまった。
「味付けはパーフェクトです。確かに和食の味付けはシンプルですが、だからこそ奥が深いと思いませんか? それとも洋食の方が好みでしたか。そっちは香月が担当だったから」
不用意な一言に傷ついたのか、篠崎陽名莉の口調は強気な調子から徐々に言い訳するような呟きに変わっていった。
「煮魚のことではないよ。すまん、誤解させてしまったな」
それから奥野祥子は朝食の席で、虫の好かない相手に助力を仰がねばならないことを話した。
「先輩にも苦手な人がいるんですね」
「女子高生の世界なんて狭いものだからな。今までは、たまたま私のペースに合わせてくれる人たちが周りにいただけだ。おかげで発見もあった。私はペースを乱されると意外と脆い」
「……香月も苦手でしたか?」
「苦手というより違和感があった。二人きりで一緒にいると妙に落ち着かない感じがしていたな。今なら色んなことで手加減されていたと実感できたと思う。当時は気付けなかった。一人暮らしをして色々分かったよ。兄貴が私に伝えたかったことも」
篠崎陽名莉は珍しく言いあぐねるような素振りをして、やがて諦めて朝食のつづきを再開した。
「遠慮するな」
「進学先で何かあったんですか?」目を合わせずに篠崎陽名莉は言った。
「有体にいえば煮詰まった。何も思いつかない。どんな映画を観ても楽しさを感じられない。創造の神に見放された気分さ。兄貴の予言通りになったわけだ。直観なんて曖昧なものに頼った罰が当たったんだ。だからきっと私が兄を捜しているのは肉親愛からじゃない。我ながら最低だけれど」
「愛情による行動だって、結局は脳内麻薬の補充が目的です」
「それは慰めの言葉のつもりかい」
居間に射す光はテーブルの端に三角の形を描く。パーフェクトな味付けの煮魚についた煮汁がパーフェクトに乱反射している。
「眩しいですね」篠崎香月はカーテンを引くために席を立った。
「気持ちいいよ」
三枝健二に近衛三霧を呼び出してもらい、その隙に寮に忍び込んで監視カメラを発見する作業にあたり、奥野祥子は陽動作戦を実行した。
寮の各部屋には学校の教室のようにスピーカーが常設されていて、起床時刻の合図や寮監からの連絡を伝えるのに用いられる。寮内部の放送室の鍵は八重樫エリアナが調達してくれた。入手経路を訊ねると口の端を僅かに上げただけだった。「まさか季節だけではなく配役まで変わるとはな」と言い添える彼女の目つきは楽しそうだった。
オジー・オズボーンがギタリストにザック・ワイルドを迎えた最初のアルバムを大音量でかけて、放送室の鍵を閉めてから急いで寮を出る。脇から出た汗で、三日分のヒヤシンスの水分は補給できるかと奥野祥子は思った。
オジー・オズボーンの悪魔的な笑い声が寮のすぐ外の道路にまで聞こえた。音楽CDも作戦の概要も八重樫エリアナが用意したものだった。それから間を空けずに近衛三霧の部屋に侵入し、徹底的に探した。ベッドを裏返し、クローゼットの中身を床にぶちまけ、本棚を倒した。それだけのことをやり終えても監視カメラどころか盗聴器も発見できなかった。
三枝健二には近衛三霧の記憶がないという情報を与え、それを元にして、呼び出した口実を適当にでっち上げて構わないと言い含めた。呼び出す際に部屋に監視カメラがあると嘘を点けば窓を開けたまま呼び出すことができると入れ知恵までした。虫の好かない相手に借りを作ってまでして捜索をしたのに何も出てこなかった。たちの悪いポルターガイストを演じただけで終わった。オジー・オズボーンの曲も止まっている。寮監が合鍵で開けたのだろう。
潮時と判断し、周りを窺いながら窓から出て中庭を横切り、道路にたどり着いてからは後ろを振り向かずに全力で走った。児童公園のベンチに座り、八重樫エリアナにメールを入れる。事実だけを伝えた。
「問題ない。お前はよくやった」と折り返しでメールが届いた。
「迷惑をかけただけじゃないのか?」
「彼にとってはそうだろう」
「五式君と話したことはあるのか?」
「今は近衛三霧だ。五式とも近衛とも顔見知りだ」
「やはり何も覚えていないのだろうな」
「折を見て自分で確認してみるがよかろう。すまんがそろそろ私の出番だ。解説する人間がいないと彼は混乱するだろうからな。さて今回はどんな反応になるのやら」
「あのCDは君の趣味かい」
「もし明日になっても私からのメールが届いたのなら」と八重樫エリアナは質問を無視して文章を綴っていた。「お前に話したいことがある」
月が出ていた。星は天蓋に空いた穴のように見えて、神々がその穴からこちらを覗いているのだろうか、と奥野祥子は想像した。ならばあの月は囮で、神々の視線をはぐらかすために存在している。
私の知らない世界——。きっと八重樫エリアナはそれについて明日話してくれるのだろう。篠崎香月が語ったように。
手のひらに滲む汗を顔に掠りつけ、顔面を揉み解した。眉間に寄った皺は不幸せの象徴だ。奥野祥子は立ち上がり、対面にある滑り台まで走り、その勢いのまま斜面を駆け上った。滑り台の天辺に立つ。ミュージカルなら歌うところだ。だが奥野祥子はミュージカル映画を眠気なしに観たことがない。その代わり、一見意味不明なダンスシーンのある映画は好きだった。ジム・ジャームッシュやハル・ハートリー、カラックスにゴダール。ダンスシーンは、登場人物たち自らによる役柄からの解放であると八重樫エリアナは考えている。役割と関係のない舞踏により肉体を取り戻し、一時役柄から解放された登場人物たちは次のシーンで変化を遂げる。つまり時間経過のシーンでもあるのだ。「キリング・ゾーイ」の薬物による酩酊シーンも同じ効果を上げている。滑り台を降りて奥野祥子は踊り出す。神々に覗き見されながら、時折月を見上げ、微笑みを浮かべたが、開放感は訪れなかった。




