八重樫エリアナ 15
そして二年の月日が過ぎた。
二年の間、シナモンは機嫌を損ねたままだった。八重樫エリアナは時折携帯電話越しに不機嫌な声を聞くだけの日々を過ごした。
頼子とは遊んでばかりいた。頼子は愛情を注ぐ相手としては申し分なかったが、八重樫エリアナは死ぬほど退屈した。
頼子にしても意識が覚醒している間は常に八重樫エリアナと一緒に過ごしていることになる。だが、彼女は常に笑みを浮かべ、いかなる時間をも無駄にはしないという意気込みで遊び尽くした。それを感じたからこそ八重樫エリアナは退屈を表情に出さなかった。
そしてその日は訪れた。
「おい、レオナ」と腰に手をあてて傲岸不遜な表情で八重樫エリアナを見下ろしたシナモンが廃墟の縁側に立っていた。「今日が何の日だかわかるか?」
「久しぶりに会う相手にえらくむかつく態度をとるじゃないか」
「やはり忘れておったか。頭の中は相変わらず生クリームが詰まっているようだな。せっかくエクレアを脱したというに」
「頼子はお前と違って和菓子の方が好みらしい」そう言って桜餅を差し出す。「これしかないぞ」
「菓子が欲しくて出てきたわけではない」
言うが早いかシナモンは家の中にとって返し、そそくさとお茶の支度を始めた。貴様の入れる茶は濃すぎるのだ、とかなんとか独り言を言っていたのだが湯呑みは二つ用意している。
それから二人で桜餅を食べた。食べている間だけは頼子と区別が付かないのを八重樫エリアナは不思議な気分で眺めた。
「やっと元の大きさに戻ったな」不意に笑顔を浮かべてシナモンは言った。
「この前、映画館で大人料金を請求されそうになった」
「前より老けてないか?」
シナモンの声が電話越しに聞くより辛らつに響くのは頼子とのギャップのせいだと八重樫エリアナは考えることにした。
「その分だと、将来の夢は全身脱毛することです、なんて卒業文集に書かねばならなくなりそうだな」
「老け顔と体毛に因果関係はないし、なんだよ卒業文集って。私の裸を見たことがあるのか?」
「この前一緒に風呂に入ったときにもさもさっとしたものが」
「お前、密かに入れ替わっていたのか! 頼子にしては笑い声が棒読みだと思ったよ。それと体毛の話題には二度と触れるな。ぶっ殺すぞ。元神様だろうが関係ねえぞ」
「はい、すみません」
咳払いをしてシナモンは背筋を伸ばす。
「本題だ。これから我々は以前と同じ行動をしなければならない。祠を破壊し、我は結界の外で倒れる。頼子では不確定要素が強いから我が出向かねばならんだろう。篠崎香月と共に我を病院まで迎えに来い」
「つまり、前回の行動の途中までは篠崎香月の確定条件に一致していたということでいいんだな」
「想定外だったのは頼子が殺されたことだ。いや、正直に言おう。我はそれが起こることを知っていた。必要なことだった。百歩蛇の呪いも含めてな。だが今回は違う。レオナ」
「はい」
「貴様は貴様の名前と向き合わねばならん。それがどういう意味かわかるな?」
みぞおちの辺りの筋肉が無意識に収縮する。
「我と頼子を救ってくれ」
口の周りにあんこを付けたままシナモンは言った。
祠はシナモン自ら足蹴にして壊した。おお、ぴくぴくするぞ、という謎の台詞を吐いて、百歩蛇の呪いを一笑に付した。それから汚れた襦袢を纏い、結界の外で死んだふりをして病院に運ばれ、八重樫エリアナと篠崎香月はホームセンターの屋上で会った。
「お手数かけます」と篠崎香月は一礼する。
「それはこちらの台詞だ。私が足を引っ張ったようなものだからな」
篠崎香月は八重樫エリアナが出会ったという、記憶のつながりのない篠崎香月について聞きたがった。
「占いで自分の意識しない一面を言い当てられたときみたいで楽しいじゃないですか」と篠崎香月は言った。
八重樫エリアナは覗き趣味を告白するような面持ちでできるだけ正確にそのときのことを語った。
ベンチの隣に座った篠崎香月は静かに耳を傾け、時折相槌を打った。占いの結果を聞いているというよりは、娘に学校での出来事を聞く母親のような表情だと八重樫エリアナは思った。
「中々いかれていますね」
「五式のことは訊かないのか?」
「遠慮しておきます」と篠崎香月は言った。
夜の病室からシナモンを連れ出し、八重樫邸の前のバス亭でシナモンと篠崎香月と八重樫エリアナは密談を交わす。
「さてここからが正念場だ。我を貴様の家に連れていかず、頼子の家に帰す方法はできない」
「どうしてまた」と八重樫エリアナは一番手軽なその方法を考えていただけに声を高くして言った。
「私の時間ではそれでも問題ありませんが、先輩の時間になったときに問題が発生するんじゃない?」と篠崎香月はシナモンを見下ろして言った。
「貴様はからみづらいな」
シナモンの立場に近い存在になった篠崎香月に、自身の優位性を誇示できなくなったのが悔しいのだなと八重樫エリアナは考えた。
まあそういうことだ、とシナモンは言って「貴様、そのパンパンに膨らんだ鞄にお菓子を隠し持っておろう。餞別に全部寄越せ」と篠崎香月に詰め寄った。
シナモンと篠崎香月のかみ合わない会話を聞きながら、八重樫エリアナは自分の母への対応に全てが掛かっていると気付いて緊張する。
「貴様の名前と向き合えと言っただろう。誤魔化すことを考えずに、普段貴様が考えていることを母親にぶつければそれでよい」口にはチョコプレッツェルを咥え、篠崎香月から略奪したお菓子を両手に抱えたシナモンは淡々と言った。
そんなこと出来ない! と八重樫エリアナは心の中で叫んだが首は勝手に頷きを示していた。
「ヒナちゃんに怒られる……」と篠崎香月がぼやきながら帰っていくのを見届けて、シナモンが略奪したお菓子を全て平らげた後、二人は坂を上り始めた。
八重樫エリアナという娘は五年前、まだ八重樫夫妻が同居していた頃に、姉の八重樫レオナの目の前で川に落ちて死んだ。
母親の八重樫由紀子はエリアナが死んだという事実を受け止めることができず、やがて心を病んでいった。初めの頃は、真夜中に姉のレオナの寝室の枕元に立つという奇行だけであった。
「ママ、どうしたの?」「エリアナはどこにいったの」「エリアナはもういないよ」「そうね、その通りよ」
生き残った姉のレオナに憎悪を抱くようになったのは八重樫由紀子の両親が立て続けに他界したことも無関係ではない。あなたがエリアナを殺したのよ、という台詞を吐くようになるまでさして時間は掛からなかった。
レオナとエリアナは二歳しか年が離れていないせいもあって、風貌はよく似ていた。母親の狂気に怖気づいた娘が死んだ妹に成りすますようになったとしても誰が責められようか。
そのようにして八重樫レオナは存在を消されたのである。
「私は八重樫レオナ。八重樫エリアナではありません」
「あらそう」と八重樫由紀子は言った。「後ろの子は誰?」
「シナモン。私の友人です」
素人劇のように棒読みの台詞が玄関先で早口で交わされる。八重樫エリアナの手は震えていた。そこにそっとシナモンの手が繋がれる。
「彼女をこの家に住まわせて欲しいのです」
「変わった名前ね」
「あ、頼子でもいいかも」
「夕ご飯、冷めるわよ」とまるで母親らしいことを言って八重樫由紀子は家の中に入った。
母親の去った玄関を見つめて八重樫エリアナは大きなため息をついた。「これでいいのか? 案外あっけないものだな」
「気を抜くな」とシナモンは手を離し身構える。「来るぞ」
「え?」
ドアが勢いよく開かれ、包丁を手にした八重樫由紀子が姿を現す。八重樫エリアナは刃物を目前にして足がすくんだ。そこへ切っ先が迫る。八重樫エリアナは包丁が喉元に刺さる寸前に横から圧力をかけられ、敷石の上に転がった。
「我は非力だと言っておろうが。肉体労働をさせるんじゃない」一緒に転がったシナモンは言ってお菓子臭いおくびを漏らした。
バランスを崩し、たたらを踏んで庭に躍り出た八重樫由紀子は目標を見失ったように首を巡らし、敷石の上に転がる二人を発見して再び踊りかかる。
「逃げろ!」と一足早く立ち上がったシナモンは八重樫エリアナの手を引く。そこへ包丁が向かうのを見た八重樫エリアナは咄嗟にシナモンを引き寄せる。抱き合うようにして二人は転がり、今度は八重樫エリアナが先に立ち上がり、シナモンを引き寄せて立ち上がらせる。そして手を取り合って闇の中へと駆け出した。
「走るのが早すぎる。貴様は我の体の大きさを知らんのか?」敷地を抜け、バス亭を過ぎた辺りでシナモンが喘ぎながら言った。「吐きそうじゃ」
「食い過ぎだ、あほ」
八重樫エリアナは立ち止まって耳を澄ませる。パタパタパタという足音が聞こえたのと同時にシナモンの胴に腕を回し、米俵を担ぐようにして持ち上げる。シナモンは小さく嬌声を上げた。
「おい、ゴリアナ。随分と力があるな」とシナモンは冷静を装って言った。
「お前、三十キロもないだろ。元陸上部を舐めるな」
そのまま走り出したものの、百メートルも進まないうちに息が上がった。自主トレはしていても、この時間では陸上部に入っていない。暗闇に慣れ始めた目が星明りと土地勘を頼りに茶畑を確認する。シナモンを下ろし、茶畑に飛び込み、二人は身を潜めた。
足音は、彷徨うような不規則なリズムを刻み、茶畑の近くで止まった。
「気付かれたか」と八重樫エリアナは囁く。
「見失ったのだろう」とシナモンは小さく言った。
四つん這いの姿勢で鼻から息を吐き出し、心臓の高鳴りを抑える。首を捻って空を見上げると濃紺の空に無数の針孔から天上界の光が漏れていた。八重樫エリアナは以前シナモンが言った手のひらに掬った砂の例えを思い出した。
突然、けたたましい電子音が鳴り響いた。八重樫エリアナのスカートのポケットに入った携帯電話が鳴り出したのだ。慌てて取り出し、八重樫エリアナはフリップを開く。
「開けるな。光で位置が」とシナモンは言うと同時に淡い光源に照らされて八重樫由紀子の姿が二人のすぐ側に照らし出された。
八重樫由紀子は学習した。包丁で貫くよりまずは片手で相手を捕まえることが先決だと気づいたのだ。左手で八重樫エリアナの髪の毛を掴み、強引に立たせる。
「レオナ!」シナモンは叫んだ。
鈍い音と共に八重樫由紀子の体は横にくの字に折り曲がり、八重樫エリアナの髪の毛から手を離し、そのまま倒れた。
うめき声を上げる八重樫由紀子から包丁を取り上げたのは篠崎香月であった。手には金属バットを持っている。
「肋骨は折れたかも。でも死にはしないよ」と篠崎香月は言って包丁を遠くへ投げた。「ごめんね、囮に使って」
篠崎香月は携帯電話を翳した。
取り落とした携帯電話を拾って八重樫エリアナは着信宛名を確認した。
「この展開は二度目なんですよ、私にとっては」と篠崎香月は言った。「先輩は知らないでしょうがね、切り離された時間を私だけが経験済みです。まあ、お互い様ってことで」




